FILE3.6:光夜さん
むちゃくちゃ遅くなった割には低クオリティーですみません
「ありがとうございましたー」
店員の声を背後に聞きながら、自動ドアをくぐってコンビニを出る。『いいきぶーん』と店内で流れていたBGMが、ドアが閉まるのと同時に遮断された。
同時に、快晴の空から、春にしては暑い陽光が降ってきた。あまりにすっきりし過ぎた天気に、思わずどこかに雲が無いか探してしまうほどだ。ジャケットの色、黒をチョイスしたのは失敗だったかもしれない。けっこう暑い。
あ、でもオレが持ってるのほとんど黒だ。
「ゆう、それホントに全部食べるの?」
自分の服装レパートリーの少なさを改めて実感していると、軽い足取りで隣を歩いていたみつきがオレの左手に提げられたコンビニ袋を見ながら問うた。その問には、訝しむような響きが含まれている。
まあ、朝飯を購入しただけのコンビニ袋がパンパンに膨れあがってるんだから無理もないだろう。袋が小さめという理由もあるが、それにしても朝からこれは買い過ぎと自分でも思う。
「食うけど」
みつきが買ったのは、百円のクリームパンと八十円のいちごオレ。対してオレは、パンが二つにむすびが二つにペットボトルのお茶が一本、缶コーヒーが一個という謎の多さだ。いや、謎っつーか自分のことだけど。少なくとも、朝飯に食う量じゃないことだけは確かだ。
なんでもないように答えると、みつきはたたたっとオレの前に出て、くるりとこちらを向いた。
「ゆう?」
「ん?」
「よく食べるのはいいけど、お腹壊しちゃダメだよ?」
オレは小学生か。
「壊さねーよ。ガキじゃあるまいし」
「えー? でもこの前外食した時、いつもより多く食べてるなーと思ったらその後ゆう、なんか顔引きつってたじゃない。お腹痛かったんじゃないの?」
な!? コイツ、よく見てやがる……!
確かに、その時は調子に乗ってちょっと食い過ぎた。それでも平静を装ってたのに、まさかバレてるとは……。
しかし、変なプライドを持ったオレがここで引く訳にはいかん。なんとかうまく回避しなくては。
「あれはー、あれだよ。ちょっと食い過ぎてレシート見たくないなーとか思ってたんだよ」
「ふーん。でもちょっとお腹押さえてたような?」
くっ……。我慢しきれずに一回だけ押さえたのに、それすら見てんのか……。
「たまたまだろ」
「帰ってすぐトイレに駆け込んでたような?」
なんだよその諜報部並の洞察力は。
「と、トイレくらい行くだろフツーに」
「ふぅーん?」
なんか楽しそうににんまりとした笑みを浮かべながら言うみつきさん。どう見ても信じてないなこりゃ。
その後もみつきの鋭いツッコミをかわしながら数分歩くと、バス停が見えてきた。標識とベンチに加えて、近所の誰かが厚意で設置してくれたらしい屋根があるという、なかなか本格的(?)なバス停だ。
二人でベンチに腰を下ろし、標識に貼ってある時刻表を見てみると、ちょうど五分後にバスが来るらしい。計算ピッタリの時間で良かった。
「みつき、あと五分だって」
「はーい」
膝に手を置いて、足をプラプラさせながらみつきが返答する。ベンチが少し高めなために、背の低いみつきは地面に足がついていないのだ。
「ふぅ」
背もたれに背中を預けて上を向く。屋根の効果は抜群で、暑い日差しを遮り心地よい影を提供してくれる。誰かは知らないが、設置してくれた人に感謝だな。汗かきやすいからマジ助かる。
(あ、そういや)
なんか忘れてると思ったら、みつきにナオさんとこ行くの言ってなかった。
「みつき、」
「なに?」
呼びかけると、ぴくりと反応したみつきがこちらを向いた。
「すまん、言い忘れてたけど、今日こっち帰ってきてからナオさんとこ寄るわ」
足下のガンケースを指さしながら言うと、みつきは表情をぱぁっと明るくさせた。
「ほんと!?」
「うん」
「わー、おかーさんとナオさん両方に会えるなんて、今日はいい日!」
嬉しそうに目を細めながらはしゃぐみつき。みつきにとっては、ナオさんは兄のような存在であるらしい。まあ、オレもそれはなんとなくわかる気がする。いい人だし、いっつも世話になってるしな。
そうこうしているうちに、やがて遠くから低く響くエンジン音が微かに聞こえてきた。そちらを見やると、予想通りバスがこちらに走ってくる。行き先の表示はオレ達が向かう守川駅になっているから、あれに乗るので間違いない。
目の前で停車したバスに乗り込んで、ステップ脇にあるパネルに携帯をかざすと、電子音が鳴り、パネル上に今乗ったバス停の名前が表示された。こうすることで、整理券を取る代わりにかざした携帯に乗った場所が記録される。最近は現金等の代わりに電子マネーで運賃を支払うことが出来るのだ。
休日ということもあってそこそこ人は多かったが、運よく一人掛けの席が一つ空いていた。みつきをそこに座らせて、その横で吊革を持って立つ。三十分もすれば駅に到着だから、立っていても別に苦にならない。
みつきと談笑したり、途中で偶然乗ってきたクラスメートに冷やかされたりしていると、三十分はあっという間に過ぎた。車内のアナウンスが、次が終点の守川駅であることを告げる。
「ゆう、電車は?」
座ったままでオレを見上げて問うたみつきに、ケータイの時刻表を見ながら返答する。
「次のが……、あと二十分だな。ちょっと待つようになる」
「わかったー」
やがてバスは駅前のバス停で停車し、乗客がバラバラと降車し始める。オレも携帯で二人分の運賃を支払い、みつきと一緒にバスを降りた。
途端に、辺りはガヤガヤとした喧騒で満ちる。さすが本町の、というより守川市の中心だけあって駅前は非常に賑やかだ。昨日と同様に、たくさんの人々が休日を謳歌している。日曜日ということもあってか、いつもより家族連れが多い気がした。
ほっといたらスキップしかねないほどテンションが高いみつきをなだめながら、券売機で切符を買い、改札を通った。けっこう人が多い。でもまあ、ここで降りる人も多いからなんとか座れはするだろう。
電車の到着まではあと十五分といったところ。
「みつき、」
「なになに?」
「ちょっとトイレ行ってくるわ。荷物頼む」
「うん」
うなずいたみつきに荷物を預け、トイレに向かった。用を足したいというのもあるが、ショルダーホルスターのベルトをキツくし過ぎたから直したい。
「痛たたた」
やっぱ痛てぇ。走ると肩に食い込む。
ホントに駅のトイレかと疑いたくなるほど綺麗に清掃されたトイレの個室に入って、鍵をかける。ジャケットを脱いでホルスターを見てみると、やっぱり調節部分がいつもより一つキツい位置になっていた。
「痛ってぇ訳だよ。ったく……」
ベルトを少し緩め、銃の安全装置がかかっているかを一応確認してから再びジャケットを着た。個室を出て、手を洗ってからみつきのもとへ戻る。
あ、つか用足すの忘れた。まだ時間あるし、もう一回……、
「ゆう、おかえり!」
ベンチに座ってケータイをいじっていたみつきが、戻ってきたオレを見上げて微笑む。すさまじい待ちわびてましたオーラが……。
(あー……)
もう一回トイレに戻ろうと思ってたけどなんかもういいや……。
「お、おお。ただいま」
向こうに着いてから行こう……。
対みつきにおける自分の甘さに懊悩していると、軽快なメロディーのアナウンスが流れ、電車がホームに滑り込んできた。空気を吹き出すような音と共にドアが開くと、車内から大勢の人が雪崩のように出てくる。予想通り、この駅で降りる人はたくさんいたようだ。空席がだいぶ出来たのが窓越しに見える。
二人掛けの席にみつきと並んで座り、みつきが持っていた光夜さんへのお土産が入った紙袋は、頭上にある網棚に置いた。オレの足下にガンケース、膝の上に朝飯入りのコンビニ袋を置いたところで、電車は静かに動き始める。
「よっしゃ、朝飯だな」
「いえーい!」
徐々にテンションが上がっているみつきさん。何度も言うが、行くのは病院だぞ?
クリームパンといちごオレをみつきに渡し、オレも自分のパンの包装を解いた。うん、やっぱコロッケパンと焼そばパンは神だな。
みつきの倍のスピードでパンをぱくついていると、食べ終わったみつきが何やらそわそわし始めた。なんだ?
「みつき、どした?」
折りたたみ式の鏡をしきりに覗き込んでは前髪を整えたりしていたみつきは、ちょっと不安げな顔をしている。
「うん……、あのね、ゆう。変じゃ、ないかな……?」
今日のみつきは、一生懸命選んだ結果らしい、シャツっぽい素材で出来た水色の膝上丈ワンピースを一枚着ただけのシンプルな格好をしている。ちょっと清楚なお嬢様、って感じだろうか。首元に見えるピンクの細いチェーンネックレスもいいアクセントになっている、と思う。昨日は左右で二つ分けにしていた髪は、いつも通り長く垂らしている。
まあ、オレもファッションに詳しい訳じゃないけど、総評するとよく似合ってると思うけどな。光夜さんに会う為に頑張って選んだんだろうし。
「いんじゃね? 似合うよ」
気にし過ぎだよ、みつき。だいたい光夜さんは娘を溺愛してるから、何着ても可愛いってベタ褒めする気がする。
「そう、かな。えへへ」
オレの答えに、みつきは頬を少し染めながら照れた。素直だなぁ相変わらず。
朝飯も食べ終わり、しばらく談笑して過ごしていると、窓の外に見える景色が徐々に変化し始めた。ビルや車が見える都会的な街並みとは対照的な、山や森に囲まれた緑の風景が増えてきたのだ。この辺りは都市部と、自然の多い郊外との境目がはっきりしている為に、三十分も電車が走れば外の景色は全く違うものになる。
「ねぇ、ゆう?」
いくつかの駅を経由して乗客が少なくなってきた頃、みつきが不意にオレの名を呼んだ。その声がなんだか真剣なものだったから、一瞬返答に詰まる。
「どした?」
数秒経過して、やっとそれだけ返すことが出来た。真剣な問には、真剣な答えを返さなければならない。もしもオレが答えを出せることなら、惜しみなく出そう。そう思った。
自分から言い始めたというのに、みつきは数秒逡巡していたが、やがて小さく話し始めた。
「あの、ね。まだニュースとかでも全然やってないけど、」
――ああ、そのことか。
「昨日、何があったの?」
みつきは大きなふたえの瞳に疑問の色を浮かばせながら、そう問うた。興味本位で聞いているんじゃないだろう。元々みつきは悪戯に人のことを色々聞きたがるタイプじゃない。こう言っては身内贔屓かもしれないが、相手が聞かれたくないであろうことは無理に詮索しない、思慮深い面を持っている。
それでも聞いたということは、みつきが自分の主義を曲げてまで知りたいと思ったのか。
(けど、悪いなみつき……)
出来れば、喋りたくない。別に、オレ自身の面子を守る為とか、そういうのじゃないんだ。
みつき、お前の世界は白なんだよ。降り積もったばかりの雪原みたいに、なんの穢れもない真っ白だ。そんな美しく光る世界に、オレの暗く濁った黒を落としたくない。知り得なければ平穏なままでいられる世界を、みつきには知って欲しくない。オレに出来るのは、そんな世界からみつきを護ることだけだから。
「何がって、いつも通りに任務に行って、帰ってきた。そんだけだよ」
缶コーヒーを一口飲んで、答えをぼかす。しかし、そんなはぐらかした答えでは逃げられなかった。
「……うそ」
小さく呟くように言ったみつきの目は、少し怒っていた。普段あまり見ることのない表情に、思わずひるんでしまう。
「嘘じゃねーよ。ちゃんと普通に帰って来ただろ?」
それでも、平静を装ってそう返した。みつきが何を思って嘘だと言ったのかは知らないが、推測だけで言っているのならいくらでもかわせる。
と思っていたのだが、そうは問屋が卸さなかった。みつきはきっちり証拠を用意していたのだ。
「だって、昨日極が電話で、『友が今気絶したまま運ばれてきた』って……」
「きわ……!」
あのヤロォ、余計なマネを!
いや、確かに、隊員に負傷があった場合は家族に連絡するのが普通だ。けどアイツ知ってるだろ、オレがみつきにあんまり仕事関係の話したくないっての……。
これはちょっと予想外だった。上手くかわすどころか、一瞬にして逃げ場を無くしてしまった。極のヤロー今度シメる。
みつきは「早く話して」とでも言いたげな視線をよこすばかりで、まったく引く気配が無い。さっきの素直なみつきはどこへ行ったのか。こうなってしまっては、彼女の意志はてこでも動かない。
「……、はぁ……」
話すしか、ないのか……。
「みつき、」
「なに?」
「言っとくけど、聞いて楽しい話じゃないぞ。出来ればオレも話したくはねぇんだ。それでも聞きたいか?」
オレの問に、みつきは大きくうなずいた。そしてその後、ぽつりと小さく呟く。
「だって……、寂しいよ。ゆうは私の話を聞いて、私が思ったことを知っててくれてるのに、私はゆうのことを知らないなんて……。もちろん、ゆうが仕事で感じたことを私は全部わからないだろうけど、それでも、知らないままなんて、やだ……」
うつむいて、落ち込んだ声で、みつきは自分の胸中を明かした。余分なものを含まず、胸の中からそのまま出てきたような、そんな言葉。紛れもなく彼女の本心だろう。それをはぐらかすことは、みつきを拒絶することに等しい。
もう一度、小さく息を吐く。
「わーったよ……」
そこまで言われちゃ、みつきに甘いオレが黙っていられるわけが無い。
もちろん言葉を選んでだが、昨日起こったこと全てを話した。狂化体のことや、スナイパーのこと、オレが死にかけたこと、ツジや真田先輩のこと。倒れていた男性のことも、全て。
みつきは、終始黙ってオレの話を聞いていた。オレがやられそうになった話の時にはひどく心配そうな、真田先輩の助太刀が入った話の時には心底安心したような表情を浮かべながら。本人が自分で気付いているのかはわからないが、感じたことがそのまま顔に出てしまっている。まるで子供がおとぎ話でも聞いてるみたいだ。こんなクソみたいな内容じゃなかったら、オレも喜んで話してやるんだけどな。まさか所長に報告する前にみつきに話すことになるとは思わなかった。
「そんなとこだよ。面白くもなんともねぇ話だ」
十数分で全部話し終えて、座席の背もたれに大きく背中を預ける。コーヒーの缶を手に取ると、予想に反して軽かった。話している間にいつの間にか飲み干していたらしい。
チラリとみつきの顔を覗ってみると、何かを深く考え込むような、なんとも難しい顔をしていた。童顔だからあまり迫力はないが、それでも真剣に思考していることは十分見て取れる。
もちろんみつき自身が言った通り、オレが任務で知り得た感覚を理解することは不可能だろう。みつきはオレじゃないから。それでも、彼女は彼女なりに一生懸命オレを理解しようとしてくれる。
人を殺して生きている、オレという人間をだ。それがどんなに幸福なことか、オレは知っている。
「ごめんな、ドンパチの話なんざ退屈だったろ」
膝の上に置いたコンビニ袋の中から飴を取り出して封を開け、苦笑いしながらみつきにイチゴ味のそれを渡してやる。自分のレモン味も袋から出して口に放り込むと、ほどよい酸味が口内を満たした。
みつきは飴を受け取って口に入れると、ふるふると首を振った。
「ううん。私が聞きたいって言ったんだし、それに、ゆうのことが知れるんなら退屈な話なんてないよ」
そして、いつもの屈託ない笑みを浮かべる。
素直さ百パーセントの笑顔だな。今の時代にこんな素直な人間がいていいんだろうか。こっちが不安になっちまう。
「そっか」
みつきも、不安でいっぱいだったんだと思う。そりゃそうだ。生きる死ぬの世界に家族が出向いているのに、平然としていられる人間はそういない。コップから水が溢れるように、みつきの中から溢れ出してしまった不安が言葉という形になったのがさっきの問なんだろう。
みつきに悪い事をしてるとは思ってる。それでも、やっぱりみつきにはオレ達の世界とは無関係なところで生きていて欲しいんだ。関われば、必ず何かを背負い込むことになる。それが、オレ達が住む裏の世界だから……。
「エゴ、だよな……」
「何が?」
ほとんど無意識に出た言葉に対して、みつきが首をかしげて問うてくる。彼女の瞳には邪気も濁りもない。水晶のように透き通った瞳だ。
数秒、目を逸らさずにその瞳を見つめた後、オレは小さく首を振った。
「いや、なんでもない」
それから更に三十分ほど電車は走り、目的地である病院の最寄り駅に到着した。さびれた木造駅舎に降りたって周りを見れば、他には誰もいない。珍しく、ここで降りたのはオレ達だけだったようだ。つい一時間ほど前までいた守川駅の喧騒とは正反対に、ここでは駅を囲むように群生している樹木が風で揺れる音しか聞こえない。相変わらず静かな場所だ。
「静かだね……」
少し強く吹いた風で踊る長い髪を手で押さえながらみつきが呟くように言った。いつもよりちょっと上品な格好でたたずむその姿は、絵画の中に描かれた少女のようだ。
「ああ、そうだな」
この場所がなぜだか懐かしく感じてしまうのは、今となってはたった一人の、親として頼れる人がいるからだろうか。そんなことを、思った。
左手に提げた土産の袋をいったん地面に置いて腕時計を見ると、病院行きのバスが出発する五分前だ。これを逃したら次は一時間後。急がなければ。
「みつき、行こうぜ。すぐバス出るぞ」
再び紙袋を手に歩き出すと、みつきは小さくうなずいてついて来た。
駅を出て、停車していた小型のバスに乗り込むと、すぐにそのバスは発進した。視界のどこかに必ず緑色が見える景色の中をのんびりと進んでいく。途中、数人の人が乗ってきたが、降りる人はほとんどいなかった。終点が病院だから、みんなそこに向かうのだろう。
ふと隣を見ると、みつきは時間の経過に比例してどんどんそわそわしていくのが見てとれた。自分の母親に会いに行くだけなのにとは思うが、たまにしか会わない上にみつきはマザコン、光夜さんは親バカという謎の親子だし、会う楽しみからそわそわするのはしょうがないのかな。
窓の外をぼんやり見たり、手鏡を覗き込んで前髪を整えているみつきを眺めたりしていると、二十分くらいでバスは終点である病院に到着した。長期療養向けの病院で、建物自体は大きくも小さくもないが、白く塗られた壁は綺麗で清潔感はある。周囲に自然も多いし、交通手段が不便なこと以外はなかなかいい病院だと思う。
さて、光夜さんの病室は三階の個室だ。いい加減みつきの落ち着きなさがハンパないし、早く向かうとしよう。
建物内に入って受付で面会希望を伝えると、許可とか云々以前に早く行ってあげてみたいなことを看護師に言われた。ここのスタッフいつ来ても変わってないから、すっかり顔馴染みなのだ。聞いた話によると、そろそろ昼時だが、オレ達が来るから光夜さんは部屋で待ってるらしい。
「えっと、304号室だったけ?」
「そだよ」
うろ覚えだった病室を確認するように問うと、みつきはすぐさまそう答えた。さすが、母親の病室はばっちり覚えているようだ。
うなずいて階段に向かおうとすると、みつきが後ろで「えーっ」と声を上げた。
「なんだよ」
「エレベーターで行こうよぉ」
「いいじゃねーか階段でも。若いんだから」
「やーだー」
……なんか小学生が一人完成した。
「わーったよ。じゃん負けで決めよ。それでいいな」
「……わかった」
やれやれと首を振りながらそう言うと、みつきは小さくうなずいて手を握ったり開いたりした。
「んじゃいくぞ。さーいしょはグッ、じゃんけん」
ぽん。
結果を見ると、オレは拳でみつきはピース。勝った。
勝因たる右手の握り拳をひらひらと振る。
「はい、オレの勝ち。行こうぜ」
再び階段に足を向け、歩き出そうとするが、みつきは動かない。よく見ると、口をへの字にして下を向いている。
「どしたよ?」
中腰になって視線を合わせながら問うた。
「…………い」
「あ?」
なんか言ったみたいだが、声が小さくて聞こえんかった。
「なんて?」
「……、お姫様だっことどっちがいい?」
「よしこのままエレベーターに乗ろうか」
駄目だ! 勝てん! つーかなにこのデジャブ!?
みつきのハイパーわがままタイムに敗北し、エレベーターに乗り込んで【3】のボタンを押した。心中でまたも懊悩するオレとごきげんなみつきを乗せて、金属の箱はゆっくりと上昇していく。
「オレ弱えぇ……」
「なにが?」
「なんでもねーよ……」
十数秒で、エレベーターは目的の三階に到着した。この階にある病室は全て個室なため、それぞれの部屋の入り口に貼られたプレートには一人ずつの名前しか書かれていない。光夜さんの部屋は一番奥だ。
静かな廊下を静かに歩いて、304号室の前に出た。プレートには【304:愛本光夜】と書かれているから間違いない。
「っし」
ドアを二度、ノックした。乾いた音が響いた直後、室内から「はーい」と声が返ってくる。それを聞いて、スライド式のドアを開けた。
「お、来たね。私の娘とその旦那」
太陽の光がたっぷりと入る明るい部屋の中に、その人はいた。ベッドの上で上半身を起こして本を読んでいたらしく、こちらを向くのと同時に文庫本に栞を挟んで閉じた。
一つにくくって左の肩口から垂らしたみつきと同じ栗色の長い髪を、軽やかに揺らしながら笑うその人こそ、みつきの母親、愛本光夜さんだ。
自分が室内に入るより先に、体を横にずらして先にみつきを入室させた。おずおずと病室に入ったみつきを見た光夜さんは、にこりと微笑んで彼女に手招きする。
途端にみつきは顔をぱっと輝かせ、
「おかーさん!」
光夜さんに駆け寄ってその胸に飛び込んだ。まるで母親に甘える子供のように、ってか今のみつきは母親に甘える子供だった。
「よしよし光月、よく来たねー」
光夜さんも光夜さんで、甘えるみつきを思いっきり甘やかしている。軽く引くくらいの親バカっぷりだ。とても病人とは思えない。
――まあ、それでも元気そうでなによりかな。
やれやれと首を振ってから、荷物を持ってオレも部屋に入り、ドアを閉めた。ひとしきり娘をもみくちゃにし終えた光夜さんは、思い出したようにこっちを向く。
「友も。よく来た」
「ん。久しぶり」
両手に提げた荷物を置いて右手を上げる。なんつーか、相変わらず見た目も性格も若い人だ。よく考えればまだ三十三歳、つまりみつきを十六で産んでるんだよなこの人は。
しかし、この親娘は一卵性双生児かってくらいそっくりだな。違いが髪型と身長くらいしか見当たらない(みつきの一四九センチに対して光夜さんは一六〇センチある)。
実は双子なんじゃないかとかよくわからないことを考えていると、再びみつきを猫かわいがりし始めた光夜さんが「友、」とオレを呼んだ。
「なに」
「ジュース買って来なさい」
なんで命令?
「なしてよ。オレ今来たばっかなんだけど」
「問答無用! エレベーターホールに自販機あるの知ってるでしょ?」
「いや、知ってはいるけどさ……」
「じゃあほら、早く。みつきも喉乾いてるでしょ?」
娘がその問にうなずくのを見て、さっさと行けとばかりにドアを指さす光夜さん。これはアレか? とりあえず親子で二人っきりにしろってサインなのか?
(そういうことならまあ、仕方ないか……)
両手を挙げて降参の意を示し、ドアを開けて廊下に出た。親子で積もる話もあるんだろう。ここは空気を読む場面だ。
と思ったらなんか閉じたドアの向こうから聞こえてきた。
「いやー、相変わらずみつきに弱いね友は。私も喉乾いたんだけどせっかく友来たんだから買いに行かせた方が楽よねー」
やっぱそういうことかい!
だが素直に買いに行く自分が悲しい。
自販機で光夜さんの紅茶、みつきのフルーツジュース、自分のコーヒーを買って部屋に戻ると、みつきが光夜さんに近況報告をしているところだった。楽しそうに、最近あった出来事を一生懸命話している。光夜さんは、そのみつきの頭を時折撫でながらうんうんとうなずいていた。
二人にジュースの缶を差し出す。
「ほら、買って来た」
「ありがと」
「ありがと、ゆう」
受け取って礼を述べた二人にうなずいて、部屋の隅にあったパイプ椅子に座った。再び話し始めた二人を、ぼんやりと眺めてみる。
(ホント、そっくりだな……)
光夜さんが若いせいもあるが、親子というより姉妹に見える。
まあ、オレにとっても光夜さんは母親というより姉貴みたいな人だ。今も昔も変わらない。色々と世話にもなってるし、何よりオレとみつきがいっしょに暮らすのを許してくれている。普通の親ならオレみたいな高校生のクソガキ、しかも生きる死ぬの瀬戸際を常にさまようような人間に大事な一人娘を任せたりしないだろう。ある意味型破りなその判断にオレは救われているし、感謝もしている。
穏やかな時間に身を任せ、何も考えずにぼーっとしている時だった。
「友は?」
不意に光夜さんがオレに何か言ってきた。慌てて意識を引っ張り戻す。
「え、何が?」
「なにぼーっとしてんの。なんか無いの? 久しぶりに来たんだから話すこととか」
そう言いながら、みつきを見習えとばかりに彼女の頭を撫でる光夜さん。さっきからどんだけ撫でてんだ。飽きないんだろうか。みつきはみつきで猫みたいに黙って撫でられてるし。
「特に無い。学校も普通に行ってるし、何か目新しいことがあった訳でもないし」
「うわー、面白みなーい」
ほっとけ。
そっぽを向いたオレを見て、みつきと光夜さんが顔を見合わせて笑う。この二人にかかればオレは玩具も同然か……。
しばらくいじられ続け、自分の勝ち目の無さを悟ったところで、逃げることにした。膝に手をついて、パイプ椅子から立ち上がる。
「オレちょっと外散歩してくるわ。たまには親子水入らずでゆっくりしなよ」
「なによ、友のくせにカッコつけちゃって」
なんでそうなる。
都合が悪いことは聞こえないフリをして部屋から出ようとした瞬間だった。
「友、」
光夜さんが、さっきまでとは違う声色でオレを呼んだ。ああ、姉貴みたいでも、やっぱりこの人も母親なんだ。そう感じるほどに、落ち着いた大人の声。
無言で振り向いた。光夜さんは、声と同じくとても落ち着いた表情でこっちを見ている。
「まだあるでしょ、言う事」
全てを見透かしたような言葉。オレがあえて名言を避けた話題を話せと言っているのだ。
この親子はホント、揃って言いたくないことを言わせようとするな……。
上手いこと言って逃げられないかと数秒思考を巡らせていると、光夜さんは小さくため息を吐いて、続きを紡いだ。
「まったくあんたは……、私から逃げられると思った? 仕事よ、仕事。また無茶やってるんじゃないの?」
まるで所長みたいに、その言葉はオレの意識の根幹を射抜いた。その通り。オレはこの人から逃げられない。オレを一番理解してくれているみつきの母親なんだ。この人だって、大人という観点からオレのことをよく知っている。
言いたくはないが、腹を括った方がよさそうだ。さっき電車の中でみつきにも言ったんだからもうなんでもいいや。
「別に、仕事もいつも通りだよ。昨日もあったけど、無事に帰って来て今もこうやって生きてんだ。それ以上なんか何もいらねーよ」
そう返したオレを、みつきと光夜さんは心配そうな表情で見ていた。同じ顔の同じ表情で見るなよ、まったく。
わかってるさ、心配かけてるのも、不安にさせてるのも。けど、やっぱりオレは、大事な人に余計なモノを背負わせたくないんだ。面倒事をしょい込むのは、オレ一人だけでいい。
「そう、」と光夜さんが呟くように言ったのを聞いて、病室を出た。