FILE3.4:虚無の瞳
今回やたら長いです。
戦闘苦手な人すみませんm(__)m
粉々になったガラスが、薄暗い室内に、ダイヤモンドダストのように降り注ぐ。舞い散ったガラス片は、床にばらまかれて不規則なモザイクを作った。遮蔽物の役割を失った窓からビル風が舞い込む。
来た。来やがった。ガラスがこちらに向けて降り注いだということは、外から窓を割った者がいる事とイコールだ。この場においてそんな強硬手段を用いるヤツは、たった『一体』しかいない。
隣の相棒と顔を見合わせる。
「来たぜ」
「ああ」
お互いに、ナイフを抜いた。その瞬間、フォトフレームのようになった窓枠の中に、被写体であるソイツは現れた。
一七〇センチほどの、女性にしては高身長ながらも華奢な人影。それだけ聞けばただの人間の特徴だが、その姿はあまりに異常だ。
体中の至るところに抉れたような穴を開け、着ている衣服は赤黒く染まった上に原形を止めていないほどボロボロ。異様に早い呼吸を繰り返し、濁った瞳には光がまるで見えない。素手でガラスをブチ破ったのか、握られた左拳はズタズタになって血まみれになっている。
それが、オレ達が見た敵の姿だった。ひどく非現実的で、目を疑うような光景だが、それが現実だと認識するに足る体験を、既にオレ達はしている。アレが恐怖を体現する存在だと、身をもって知っている。
(血をたどって扉から来ると思ったんだけどな……)
ここに来る途中、自分の血が点々と落ちているのに気付いたが、どうせ見つかるものと思ってあえてそのままにしてきた。ツジがバリケードを作っているはずだと踏んだから扉の方に誘導しようとしたが、無駄だったか。敵の方が一枚上手だった。
このまま部屋の中で戦闘を開始するのはマズイ。閉所でむちゃくちゃに暴れまわられると逃げ場がないからだ。なんとか外に出なければならないが、バリケードを崩す時間はどう考えても無い。となると、残る脱出経路は割れた窓……。
(しゃーねぇ。足止めだな……)
敵が窓枠に足をかけたのを見て、視線は敵から動かさずにツジに小声で呼びかける。
「ツジ」
「ん?」
ナイフを鋭く構え、同じく敵から視線は動かさないままツジが返答した。
「ここじゃ不利だ。まず外に出よう」
「賛成だけど、どうやって? ヘタに動くと八つ裂きにされるぞ」
「オレが止める。お前のスピードなら、五秒もあれば十分だろ」
オレの言葉に、ツジは数秒黙り込んだ。おそらく、オレの提案が本当に可能かどうか、多角的にシミュレーションしているのだろう。無茶は承知で言ったから断られるかと思ったが、ツジは最後には小さくうなずいた。どうやら、この無謀極まる作戦を信用してもらえるみたいだ。
「サンキュ」と小さく礼を言い、足に力を込める。奇襲は初撃が命。一歩間違えば突っ込んだ瞬間にやられる。
(迷うな……)
毒は抜いた。枷は外した。恐れるものは、何もない。
ついに相手が室内に降り立ち、すぐさまこちらに突っ込もうと体勢を低くした、その瞬間。
「行くぜツジ!」
「任せた!」
それより速く、オレ達は動いた。オレは足止めの為、敵に向けてまっすぐに。ツジは部屋からの脱出の為、敵に向かって左側を迂回して窓の方へと。それぞれの目的に向けて駆ける。
即座に反応した敵は、目の前のオレに攻撃しようと腕を伸ばしながらも、視線は動くツジを追っていた。一撃でオレを殺してツジを追う気だろうが、そうはさせない。
「させっか、」
すさまじいスピードで伸びてきた腕をかわしつつ、相手がツジを見ているのと反対方向、右側から足を振りかぶり、
「よ!」
力を抜いて、スピードを重視しながら相手の頭部に叩きつける。相手が向いているのと反対、つまり死角から放たれた右上段回し蹴りがクリーンヒットする。まあ、ツジの真似だ。さすがの相手も一瞬ぐらついたが、威力不足のためかすぐに持ち直してオレの蹴り足を取った。
それと同時に、ツジが割れた窓から部屋を出ていくのが見えた。この時点でオレの奇襲は成功。あとは自分が脱出するだけになった。
取られた右足を外そうと体を捻る。そのまますぐに窓に向かってツジを追うはずだったが、
「っ!?」
外せない。相手の左手はオレの足を掴んだままだ。ハイキックを撃った後の、片足立ちの姿勢のまま、動くことができない。
何故か。理由は単に「力」だった。その細い腕のどこからそんな力が出るのかと疑うほどの力で、オレの右足は万力で挟まれたように握りしめられていく。
「くっ、そっ……!」
不安定な体勢で、力が入らない。しまった。相手のパワーを見誤っていた。ここまでの拘束力とは……!
ギリギリと、掴まれた足首から軋むような音が聞こえた時、イヤホンに通信が入った。そこから聞こえたのは、相棒の声。そしてそれは、ピンチに陥ったオレを救う希望の声だった。
『フラッシュ!』
声と同時に、窓から黄色い卵が投げ込まれる。それを見て目を閉じた瞬間、建物の外から乾いた発砲音が聞こえた。
刹那、まぶたの裏が白くなる。視界を遮断していてもわかる。今、薄暗い倉庫の中は、突然太陽が出現したように光で埋め尽くされているのだろう。その眩い光は、相手の眼球を直撃した。その証拠に、締めあげられていた右足の拘束が緩む。閉じた目の裏側が、再び暗い黒に戻った時、目を開けた。
ひらけた視界にまず見えたのは、右腕で目を覆っている狂化体。今までオレの足を掴んでいた左手は力なく垂れ下がっており、既に拘束の役割を果たしていない。
やっぱり、いくら凶暴でもベースは生身の人間だな。痛みが無くても反射的な行動は効くみたいだ。
(にしても、頭が下がるよツジには……)
多分、脱出する際にオレの様子を見て、閃光弾を投げ込んだ後に銃で起爆させたのだろう。ホント、ツジとか極とか、頭のいいヤツが講じる手段の巧みさにはいつも舌を巻く。
「っし!」
右足を地面に下ろしてすぐに駆け出し、頭から窓枠に跳び込む。吹き荒れるビル風にあおられながら、ついに外への脱出に成功した。
受け身を取って立ち上がると、イヤホンに通信が。ツジだ。
『出た?』
「ああ、助かった」
謝辞を述べつつ、走りながら後ろを見ると、狂化体が頭を二、三度振りながら窓から飛び出してくるところだった。手には何か棒のような物を握っており、よく見るとそれは、倉庫の中にあった金属製の棚の一部だ。武器にする為にへし折ってきたらしい。
視線を前に戻し、右手に持ったナイフを強く握りしめながら腕時計に声を発する。
「今、ヤツもビルから出てきた。棍棒代わりの鉄棒持ってる」
『やっぱり回復が早いな。了解。とりあえず、広い場所に出よう。そこから一番近い大通りにいる』
「よし」
相手の動きを窺いつつ、ツジが言っていた大通りに向かって走る。視界は完全に回復したのか、離れていくオレの姿を発見した相手もそれを追ってきた。
「ホントに回復早いな……」
呟きつつビルの谷間を素早く駆け抜けて行くが、後ろから迫ってくる相手の速度はそれより更に速い。
ヘタに撒こうとしたら逆に追いつかれそうだ。ここは最短距離で大通りに出た方がいいな。
数分すると、薄暗い通りの景色に光が見えてきた。チラリと背後を見やるが、まだ敵との距離は四十メートルほどある。なんとか逃げ切れたようだ。
途端に、体の中心がすっと冷たくなる。ここからは、再び命の削り合いだ。圧倒的な力を持った相手と、生きるか死ぬかのやりとりをする。そんな危険極まる状況に、自ら飛び込むのだ。
けど、もう怖くない。極は言った。オレ達が助けられなかった、犠牲者の為に。恐らくは、敵の組織に殺された、同朋である諜報部の面々の為に。命を賭して、仇をとれと。
そして、オレは言った。みつきに、必ず生きて帰ると。あんなに楽しげだったみつきの輝いた瞳を、オレは自分のエゴで一瞬のうちに暗いものに変えてしまった。彼女を幸せにする事を目的に生きるオレなのに、結局はこのザマだ。なら、オレに出来るのは約束を果たすこと。それ以外は捨ててやる。他には何もいらない。
そして、ついに大通りに出た。狭かった視界が一気に開ける。こんな状況に不釣り合いなほど快晴な空から、眩いばかりの太陽光線が降り注ぐ。
小さく息を吸って、吐いてから、体を鋭く百八十度回転させて後ろを向く。同時に、相手も狭い路地から飛び出してきた。無骨な鉄棒片手に、暗く落ち窪んだ目がオレを捉える。
あの目に捉えられた人間は、残らず命を落としただろう。だけど、オレ達は違う――!
逆手に握ったナイフを構えながら地面を蹴る。向かい来る敵へと、真っ向から突っ込んだ。
戦闘、
「っし!」
開始だ!
間合いに深く踏み込む。右腕を引きながら左腕を振り、大振りの左フック。タイミングを合わせての奇襲だったが、相手はスウェーしてかわした。
拳が空を切る。が、これは計画通り。モーションの大きい攻撃を撃ったのは、相手にわざと避けさせる為。本命は二撃目だ。
フックを放った勢いのまま、体を独楽のように回転させる。軸は動かさず、力を乗せて今度はバックブローの要領で右手を鋭く振る。
本来なら相手に叩きつけるのは裏拳。しかし、今オレの右手に握られているのはナイフだ。当たった時の衝撃は拳の方が上だが、殺傷力ならこちらの方が数段上になる。
黒いラバーグリップに黒塗りのブレードと、死神の鎌のように全体が真っ黒なナイフが、まさに死神がその鎌を振ったような軌跡を残して相手の頸動脈を狙う。この一薙ぎでも、十分相手の命を閉ざせる。そんな攻撃だった。
しかし、奇襲の二連撃は不発に終わった。相手が視界から掻き消えるのと同時に、殺意に満ちたブレードが空を切ったのだ。風を切り裂く独特の音だけが虚しく残る。
(チッ、コレもかわすかよ……!)
敵が消えた先はわかっていた。スウェーして上体を逸らした不安定な状態からかわすとしたら、選択肢はそう多くない。
下だ。そう考えながら視線を下げると、しゃがんだ相手が居合いのように鉄棒を振るのが目に入った。居合いほど流麗な振るい方ではないが、その速度は凄まじい。まともに喰らえば、足が折れる――!
戦闘の基本は足だ。移動、回避、攻撃。全ての行動に用いる部位の損傷は、死とイコールと言っても過言ではない。
「チィッ!」
バックブローの勢いはまだ残ってる。これでかわさなきゃ、勝利はねぇ……!
攻撃を空振ったまま動きは止めずに、足に力を集約する。上体を大きく後ろに逸らしながら強く地面を蹴った。
バック宙。地面から足が離れ、一瞬の無重力を味わう。同時に下の方で、先ほどオレが攻撃をかわされた時と同じ、空気を切り裂く音が鋭く響いた。空中でさかさまに、つまり頭が下になった瞬間、しゃがんで鉄棒を振りきった姿勢の相手が静止画のように見えた。
(っしゃかわした……!)
空中で一回転し、反転していた景色が再び元に戻った。足が地面に着くのを感じ、間合いを開ける為にそのまま背後に向かって跳んだ。
「っはあ……!」
極度の集中状態を脱して大きく息を吐き出す。精神の疲労から頭痛がした。ただでさえ尖らせている神経を、更に削って鋭くし、それを全身に行き渡らせるという作業。ヘタすりゃ頭がオーバーヒートを起こしそうだ。よく小説なんかで見る「シナプスが発火しそうだ」という表現を、身を以って理解した。
下がりはしたが、すぐに相手が追ってくる。濁った瞳には、かわされたことに対する動揺なんかまるでない。ただ、目の前の動く存在を殺す為に、地を蹴り鉄棒を振りかざす。
「くっそ……」
逃げてるヒマは、無いな。
下がるのをやめて足を止める。逃げられないんなら迎撃するしかねぇ。
ナイフを握った右手と、足と視覚に全ての神経を集める。防御の全部が一発勝負だ。失敗は許されない。
鉄棒が振られる。軌道は袈裟切り――!
「ふっ!」
力の方向に逆らわずナイフでいなす。高い金属音が短く響き、唸る鉄棒が目の前から流れていった。
一撃目は防いだものの、安心している時間は無い。受け流した鉄棒が、すぐさま軌道を変えて今度は横一文字に振られる。
それもいなせば今度は斜めに、縦に、再び横に。型にはまらず、ただむちゃくちゃに鉄棒が振り回される。その一撃一撃は大砲を撃ち込まれているように重い。
一方その標的たるオレは、それらをいなす、かわす、受け止める。集中した状態から更に集中を重ねて、ただ軌道を見切ることだけに全神経を注ぐ。なにせ、一発喰らえばよくて骨折、最悪絶命という状況なのだ。並の集中力ではまるで意味がない。
体も頭も酷使するこの状態では、そう長くはもたないだろう。だが、ツジは言った。必ず自分がチャンスを作ると。ならオレは、その言葉を信じてただその時を待たなければならない。
相棒を信じなきゃ、勝利は無い――!
「はぁっ!」
一振りごとに重さを増す敵の一撃を、一防御ごとに鋭さを増す自分の精神で見切り、迫る脅威を打ち砕く。金属同士がぶつかる甲高い音が短く連続で鳴り響き、そびえ立つビルに反射しては消えていった。時折、激しくぶつかったナイフと鉄棒の接触点から火花が生まれた。
その攻防が数分続き、ナイフを握る右手の感覚があるのかないのかわからなくなってきた時、ブツッという短い音を伴ってイヤホンに通信が入った。間髪入れずにツジの声が聞こえる。
「友、準備完了だ。今から加勢する!」
「りょう、」
上段の蹴りをしゃがんでかわす。風切り音を残して蹴り足が虚空を裂いた。
「かい!」
いよいよ、作戦は大詰めだ。ツジは敵の動きを止める策をいくつか用意したはず。状況に応じてそのうち一つを実行し、その隙にオレがリボルバーをブッぱなしてトドメを刺す。それで全て終わり。
一発勝負の大博打になるだろう。だがその見返りが勝利なら、オレ達はどれだけ不利な博打でも挑む。心配いらない。ツジが言った通り、オレ達は強いからこそ、今までこんな状況を何度もくぐって生きている。
出る目を決めるのは、神でも仏でも、ましてや運でも無い。オレ達だ――!
「っし!」
上段から振り下ろされた鉄棒をナイフで受け止め、そのまま弾き返す。その瞬間、視界の端で何かが動いた。それこそ、オレが待ち望んだ一閃。
光の矢。
「ったく、遅せぇよ」
相手が逆袈裟に振るった一撃をかわし、そのままバックステップ。素早く敵との間合いを取る。
(頼むぜ、ツジ……!)
離れたオレを追おうと、相手は足に力を込めた。しかしそれと時を同じくして、乾いた音と共にその足に風穴が開いた。敵のふくらはぎに突如出現した小さな穴から、鮮血が飛び散る。
さすがの相手も、突然の事態に動きを止めた。そして音がした方向、自分の背後を振り返る。
「悪い、友。待たせた」
そこに立っていたのは辻山鷹行。オレの相棒にして、特警守川支部最速の男。銃口から硝煙を立ち昇らせるグロック26を右手に、殺気を隠そうともせず存在していた。
その謝罪に対し、首を横に振る。構いはしない。信じたのはオレで、それをお前は守ったんだ。
「ああ、やろうぜ、ツジ」
ツジは、オレの答えに一瞬表情を崩した。だが、やはり一瞬でその表情は引き締まり、次の瞬間にはツジは地面を蹴った。
殺意を纏って、銃を懐にしまいながら、低い体勢で一直線。十数メートルあった距離を一秒もかからずに詰めた。
(速えぇ……!)
いつものツジより更に速い。僅かでも目を逸らせば見失ってしまうのではないかというほど、凄まじいスピードでツジは駆ける。
あれが人間に可能な動きなのか。それとも、今のツジは人間じゃないのか。
相手もすぐさま反応し、向かい来るツジを迎撃せんと鉄棒を振りかざした。ツジの動きに合わせて鉄棒が袈裟に振られる。わかっているが、やはり相手も化け物だ。あの閃光のような動きにきっちり攻撃を合わせるなんて、並の動体視力じゃ不可能なはず。
そして、ツジと鉄棒が衝突しようかというその時、それは起きた。
ツジが消えた。
「なっ!?」
驚愕から漏れた声と、鉄棒が空を切った音が重なる。目を疑った。ツジは死角を作るアクションを起こしていなかった。純粋なスピードだけで、どこへ……!?
その疑問はすぐに晴れた。消えたと思ったら、ツジは相手の背後に現れていたのだ。鋭い眼光は相手を捉えたままで、武器を持っていない両手の拳は固く結ばれている。
どうやって消えたのかと原因を探ろうとしたが、無駄だった。相手の横側の地面から小さく砂埃が上がっているところを見る限り、本当にスピードだけで相手の正面、側面、背後の順に高速移動したらしい。人間に可能かとか、ツジが人間かとかもうどっちでもいい。多分両方だ。
「とんでもねぇなツジ……」
驚き半分、呆れ半分で呟き、加勢する為に駆け出した。
相手は攻撃を空振りしたせいでバランスを崩しかけたが、即座に持ち直した。消えたツジに戸惑うことなく、勘でその存在を感じたようで、すぐに後ろを向いた。体もそちらに向けつつ、右のミドルキックを繰り出す。
振り向きざまの奇襲だったが、ツジは動じない。軽く地を蹴ったかと思うと、迫る蹴り足を宙返りで飛び越えるように空中で一回転した。着地した直後、今度は背後から迫る鉄棒をしゃがんでかわす。ハイキックに対しては地面を転がり、むちゃくちゃに振り回される鉄棒や拳は巧みにステップしてポジションを調整しつつ、全ての攻撃を完璧にかわしている。
(すげぇ……)
素直に感心してしまう。あの暴風雨みたいなラッシュを全部完璧に見切ってかわしているのだから。しかもおそらくは、ただ避けているだけじゃない。既にツジは策を始めているはずだ。どんな策かは実行されるまでわからないが、アイツなら必ず成功させるだろう。
右手に握ったナイフのグリップを強く握る。合図があるまでは、オレもアレを引きつけなければ。
一気に接敵し、間合いに入る。ツジに攻撃を当てることに躍起になっていた相手が、こちらに反応して拳を振りかぶった。回避しまくるツジよりはオレを狙う方が簡単だと判断したようだ。
(来いよ……!)
心中で挑発した直後、相手は右拳をオレに向かって薙いだ。小型の隕石のような迫力のそれを、スウェーしてかわす。反撃にナイフを振るが、紙一重のタイミングでかわされた。
ツジ、オレ、そして狂化体。三者が入り乱れた攻防が続く。ツジがかわし、オレが薙ぎ、狂化体が暴れる。その混沌とした闘争は時に風切り音を、金属音を、鈍い衝突音を響かせながら、数分続いた。
そして、ついにその時は来た。防御時のすれ違いざま、ツジが目配せしてきたからだ。
(やんのか……!)
運命の瞬間を迎えるのだ。背中に冷たい汗が滲み、体の芯が震える。そんなことあり得ないのに、右腰のパイソンが脈動したように感じた。
――ああ、わかってる。お前が牙を剥く瞬間は、すぐに来るさ。
ツジが策を動かすのなら、オレは射撃体勢に入らなければならない。適切な距離を取る為に、運動を続けていた右手を引こうとするが、
「っつ」
それより速く狂化体の拳がオレも右手を弾いた。衝撃でナイフが手から離れ、放物線を描いて数メートル飛び、地面を転がる。
なおも狂化体は止まらず、蹴りを放とうと左足を上げた。マズい。避けようにも足に力を込めるヒマはない――!
「チィッ!」
懐から特殊警棒を抜いた。取り出しながら強く振り、縮小されていたそれを本来の長さに伸ばす。
上段にある相手の蹴り足が動く。ハイキックじゃない。上から下へ振り下ろすような軌道の蹴り。このままいけばオレの右脇腹に突き刺さる。
「っふ!」
警棒をさかさまにし、右手でグリップを、左手で下を向いた先端を持つ。これで蹴りを防いで、反撃を……。
そう思っていた。蹴りの角度に対して、壁にする特殊警棒の角度は完璧。きっちりと防御出来る。
斜め上から迫り来る蹴り足が、警棒の真ん中辺りにぶつかった。その威力に負けないように両足を踏ん張る。
もし仮に、これでオレが吹き飛ばされても、防御は成功と言える。とりあえず、蹴りが体に入ることさえ防げばいいのだから。既に蹴り足と壁が衝突しているこの状況で、オレに蹴りを当てることは不可能だ。
(っし! 防いだ!)
しかし、その不可能を可能にするのが、この狂化体だった。普通じゃない相手というのは、どこまでもオレ達の予想を超えて、あり得ない事態を引き起こしてくる。
みしり、と音がした。そして、警棒を支えている両手にかかる衝撃がピークに達した時、それは起きた。
鈍い音を伴って、特殊警棒が、折れた。
「なっ!?」
起こり得るはずの無い事態に、小さく声が漏れた。馬鹿な。特警開発部製の超強化素材を使って作られた戦闘用特殊警棒が、キック一発で折れるはずが無い。
鍔迫り合いのように押してきていた力が、不意に無くなる。そして次の瞬間、遮蔽物を粉砕した蹴り足はそのままオレの右脇腹に勢いよく突き刺さった。
「かはっ……!」
息が止まった。痛みが気道に栓をしたかのように、空気の流動が感じられない。防御しようと蹴りとは反対方向に力を入れていた為、意図せずカウンターの状況を作り出してしまっていた。ただでさえ凶悪な蹴りの威力は、その二倍三倍に……!
呼吸の苦しさに遅れて、激痛が脇腹を支配する。強大な痛みの前に、今まで感じていた体中の痛みを感じなくなった。まるで体の痛みが全て一点に集まったような感覚に陥る。
体勢を立て直すヒマも、現状を理解するヒマも無く、更に相手は動いた。無防備になったオレの右腕を取ると、先ほど鉄棒を振り上げていたのと同じようにその腕を持ち上げる。
普通、人間一人を片手で持ち上げるのは難しい。背が低かったり、体重が軽ければ別だが、オレのような体格の人物ならまず無理だろう。
しかし、それは一般常識での話。今オレの腕を取っているのは、常識など軽く破る存在だ。
急激に体が上に引っ張られたかと思うと、気付いた時には体が空中にあった。その辺にある物体を子供が振り回すように、片腕だけで持ち上げられている。周囲の景色が目まぐるしく流れていった。しかしそれは一瞬で、今度はもの凄い勢いで振り下ろされた。それを振りほどくことも、抵抗することも出来ず、ただあの鉄棒と同じように。背中から、地面に思いっきり叩きつけられた。
「がっ……!」
背中で何か爆発したのではないかと言うほどの衝撃。その衝撃に逃げ場は無く、全てが体内で激痛に変換された。鋭く重い、痛覚を握り潰されているような痛みが全身にダメージを拡散させる。
相手の手が離れ、なす術もなく地面を滑り、転がった。その度に体内にダメージは蓄積されていき、全ての感覚を鈍らせていく。ただ無抵抗に、地面に殴られるサンドバックのようにボロボロになりながら。
下ろし金のような大地に精神も肉体も削られ続け、やがて体の直進運動は止まった。途端に、溜まりに溜まった激痛が堰を切ったように溢れる。全身の至るところに浸食し、遠慮も無しに暴れまくる。一挙に精神の臨界点を超え、意識を手放しそうになった、まさにその瞬間だった。
「友、やれ! まだ終わってないぞ!」
相棒の声が、凛と響いた。思えば先ほどまで聞こえていた、相手の拳が空を切る音が聞こえなくなっている。じゃあ、まさか本当にツジは……!
ただ切実なツジの声に押されて、とうに動かない体を無理矢理動かす。手放しかけた意識を、意地で掴んで引き寄せる。無様に倒れ伏した自分の、力の抜けた膝を地面につき、上体を起こす。視界を濁らせる全ての余計な感情を遮断して、前を見た。そこに広がっていた光景に、一瞬痛みを忘れるほど驚愕した。
あれほど凶暴に暴れていた狂化体が、動きを止めている。いや、止められているのか。鉄棒を持った腕は伸びきって、動かそうとしているようだが、それを上回る力で押しつけられているように見える。腕だけでなく、全身が同じ状態だ。周囲の空気が固体化したかのごとく硬直している。
あまりに意外な光景のその理由は、考えなくてもすぐにわかった。その敵に背中を向けてしゃがんでいるツジが、両手に握っている物を見たからだ。ピンと張った細いそれは、僅かに日の光を反射してその存在をオレに知らせている。
(なるほど、ワイヤーか!)
見れば、ツジの手から伸びたワイヤーは、腕や脇の下、足や胴体と、相手の体の至るところを通ってその動きを阻んでいる。多重に巻き付いた鋼索が、凶暴な相手をキツく縛り上げているのだ。
だからツジは攻撃を回避し続けていたのか。最小限の力で相手の動きを止める為に、迫る猛攻をかわしつつ幾重にも捕縛の用意を張り巡らせて。
これが、辻山鷹行の策略……!
「僕の力じゃ長くはもたない! 友、終わらせろ!」
必死に叫ぶツジの言葉が、脱力した右手に力を注いだ。そうだ。これで全部終わりにしなければならない。それを達成出来る力が、オレにはある――!
右腰のホルスターに手を伸ばす。そこに収まる巨大な銃こそ、オレ達に勝利をもたらす鍵だ。
ブラックのラバーグリップを強く握り、一気に引き抜く。撃鉄を起こして、片膝をついて立った状態から、銃口を硬直したままの相手に向ける。照準器と相手の心臓が重なり、着弾点を示した。
――これで、全部、終わりだ!
「喰らえ!」
残り全ての力を振り絞って、引き金を引いた。破壊を続けるその命を、この手で閉ざす為に。
龍が吼え、発射炎が咲き、反動で右腕が跳ね上がる。その一連の動作を伴って、熊すら射殺すマグナム弾は撃ち出された。大気を切り裂いて突き進む弾丸は、オレのただ一つの意志を反映している。
殺すという、その意志を。
ツジによって捕縛されている相手に、逃げ場は無い。牙を剥く弾丸を防ぐ手段も無い。ならば待っているのは、当然の結末だ。
そしてついに、たった一発の弾丸が、狂化体の体を捉えた。口径と同じ、0.454インチの穴を、その柔肌にこじ開けた。体内に侵入した弾は、トドメとばかりにその運動エネルギーを全開放する。
銃創から鮮血がほとばしった。捕縛を解こうと必死に動いていた狂化体の動きが、とうとう止まる。ワイヤーを体に巻き付けて立ち尽くしたまま、ピクリとも動かない。
ビルの谷間に、静寂が降りる。
「っはあ、はぁっ」
本当の意味で力を使い果たし、跳ね上がったままの右腕がゆっくりと落ちる。駄目だ。もうどこにも力が入らない。忘れていた激痛もまとめて帰ってきやがった。もう今は戦えない。
けど、それでいい。これで全部、終わったんだから。
「勝った……!」
そう言葉に出すのと同時に、張っていた緊張の糸が切れた。無理に起こしていた上半身から力が抜けて、うつ伏せに地面に倒れ伏す。笑ってしまうくらい、体中が脱力していた。
強大な相手だったけど、それをオレ達のコンビネーションで上回った。その結果得た勝利だ。あとは、所長に連絡して事後処理を終え、家に帰るだけ。その前に、ツジに肩貸してもらわねーと。情けないけど、立てねぇわ。
とりあえず、勝利を祝ってハイタッチでもするか。そう思って顔を上げた。そこでは――、
「え……?」
死神が嗤っていた。オレ達が生死をかけたこの数時間を全てあざ笑うかのような、そんな光景が、そこにはあった。痛みから見える幻であることを願いたくなるような、この場における最悪な光景が、存在していた。
安堵からツジの力が緩んだのだろうか。死んだはずの相手が、多重ワイヤーの拘束から脱した。そのまま驚異的なスピードで振り返り、ツジの姿を捉え、鉄棒を振りかざす。
しかし、ツジの反応もさるものだった。振り下ろされた鉄棒の軌道から紙一重のタイミングで体を外し、その一撃をかわしたのだ。
軽い動きで後ろに数回跳び、ツジは敵との間合いを取った。その目は大きく見開かれている。当然だ。死んだと思った相手が、何事もなかったかのように反撃してくるのだから。
そう、ヤツは死んでいない。なんで生きてる? 拘束の隙に、確かに心臓を射抜いたはずだというのに。
「クソッ……!」
加勢しないといけねぇのに、力が入らない。捻り出そうにも、どこにもエネルギーが残っていない。体力のタンクはエンプティーを示している。けど、このままじゃツジが……。
何も出来ずに見ていると、相手が間合いを詰めにかかっていた。ツジが離れようとするのよりもっと速い。距離を取っての戦闘は無理だと判断したのか、ツジは足を止めた。右手でナイフを抜いて構え、迎撃体勢を取る。
相手が鉄棒を振った。横一文字に薙ぎ払うように走る鉄棒を、ツジはバックステップでかわすと、すぐに接敵して左腕を振りかぶった。
攻撃の間合いに入る直前、ツジがその腕を振る。その手には何も握られていない。空振りかと思ったが、ジャケットの袖口から何かが飛び出した。目を凝らして見れば、それは小型のバタフライナイフだった。
相手の視線が、不意に出現した囮のナイフの方を向く。その一瞬の隙に、ツジは相手の視線と反対方向に高速で移動した。敵の視界にツジは入っていない。黄金パターンに持ち込んだツジが、今度はファイティングナイフを握った右手を振りかぶった。
この状況でも、そのスピードは全く衰えていない。普通の相手なら、やすやすとその肉体を切り裂けただろう。この敵が、狂化体でさえ無ければ……。
「ふっ!」
低い姿勢からツジがナイフを振る。銀色の美しい軌跡を残しながら走るそのブレードは、しかし敵に命中することはなかった。
読んでいたのか、はたまた勘か。ツジの攻撃を、相手はステップしてかわしたのだ。攻撃の対象を失い、ブレードが空を裂く。空振ったツジはすぐに敵から離れようとしたが、それは叶わなかった。
足下にいたツジを、狂化体が蹴り上げたのだ。バランスを崩していたツジの体は、サッカーボールのように軽々と宙に浮く。いくらツジでも、足場の無い空中では回避が出来ない……!
「つ……、」
オレがその名を呼ぼうとするのと、狂化体が振るった拳がツジの顔面にクリーンヒットするのが、ほぼ同時だった。
完全に無防備だったツジの体が、拳からの運動エネルギーをモロに受けて吹き飛んだ。その際、人の体から出るとは思えないほどの鈍く、湿った音が辺りに木霊する。
空中を滑る、ライナー性の打球のように直進したツジの体は、いくつかのオフィスが入った複合ビルにぶつかって止まった。激しい衝撃音を立ててビルの堅い壁に勢いよく叩きつけられたツジは、壊れた人形のように地面に落ち、うつ伏せで倒れた。その拍子に手から離れたファイティングナイフが、地面を転がっていく。
「ツジ……!」
横たわったツジは、死んでいるかのようにピクリとも動かない。いや、もしかすると、本当に……!?
(ふざけるな……)
策は打った。フィニッシュも決めた。なのに、何故お前は動ける。何故まだ破壊を繰り返せる。
(ふざけるなよ……!)
殺したんだ、お前達は。なんの罪もない人達を。オレ達の仲間を。それが、許される訳が無いんだ。絶対に。
そして、
(ツジ……!)
許さない為に戦ったツジが、動かない。
心臓の鼓動が耳元で聞こえたような気がした。しかも、自分の体内から発せられたとは思えないほどの大音量でだ。体は動かないのに、頭だけがもの凄い速度で思考している。大小様々な事柄が、現れては消えていく。
そして、その瞬間、脳裏に閃くものがあった。いや、思い出したと言った方が正しいか。その存在を、オレは元から知っているのだから。
まだ手に持っていたリボルバーをしまい、ジャケットの、応急処置具が収められたポケットに手を突っ込む。そのポケットの中に更に設けられている小型のポケットに蓋をしているジッパーを開けて、中から多色ボールペンほどの大きさをした透明な筒状の物体を取り出した。中には液体が入っており、張り付けられているラベルには「Re‐BIRTH」とだけ書いてある。
――奥の手を持ってるのが、お前らだけだと思うなよ……!
内蔵式になっている針を押し出すと、その筒は注射器になった。右手にそれをしっかりと握る。一度、大きく息を吸って、吐いた。
――もう一度、生まれろ。巻き戻せ……!
そして、倒れたままで自分の右足、太股の辺りに針を突き立てる。しっかりと刺さったのを確認してから、ピストンを押して薬剤を注入した。僅かな痛みと共に、体内に透明な液体が入って行く感覚を得る。
数秒で注射器内の全ての液体を注入し終わった。空になった筒を足から抜く。
瞬間、体を支配していた全ての痛みが消えた。いや、消えただけじゃない。それらが体力に変換されたような感覚があった。体が異常に軽くなり、それでいて力は無限に溢れてくる。霞んでいた景色も、邪魔なフィルターを外したように鮮明だ。先ほどまで倒れ伏していたオレとは完全に別人で、状態としてはこの現場に来たばかりの、戦闘準備が万全だった時と同じ。
「相変わらず、スゲーな……」
苦も無く立ち上がり、少しの驚きを込めて呟く。それほどまでに、体に起きた変化は劇的だった。機械の電池を新しい物に交換した時のように、動きの質が百八十度入れ替わったのだ。小さく息を吐いて、その原因たる小型注射器に目をやった。
特警隊員の最後の手段、「Re‐BIRTH」。兵士が戦場で打つモルヒネと同じで、緊急時に体に打ち込めば、アドレナリンを過剰に発生させて痛覚を一時的にマヒさせるドーピング剤。加えて筋肉や脳に必要な栄養を急速にチャージし、戦闘時の体をほぼ初期状態まで巻き戻す。
だが、効果は数分と短い上に、体に異常なまでの負担がかかる為、そうおいそれと使用出来るものではない。そこで隊員は普段、特殊な催眠をかけられた状態で、この薬のことは忘れさせられている。精神の臨界点を超えた極限状態の時のみ、その存在を思い出すのだ。
今なら、行ける……!
使ってしまったからには、その持続時間は五分ともたない。効果が切れれば、また全ての激痛が、副作用で倍以上になって襲ってくる。
つまり、短期決戦しか無いってことだ。
注射器をポケットにしまい、再びパイソンを抜く。正面を向くと、オレ達の、凶悪過ぎる敵が視界に入った。
(そうだ。オレの目的はアイツを殺すこと。なら他には、)
駆ける。
(何もいらねぇ)
軽い体をどんどん加速し、離れていた敵との距離を詰める。ツジの方に向かっていた敵は、接近するオレに気付いてこちらを向いた。暗い目で見据えてくるのを、真っ向から睨み返す。怖くなんか無い。アイツなんかより、生きてみつきの待つ場所に帰れないことの方が、オレにはよっぽど恐ろしい。
接敵し、間合いに入る直前、リボルバーを構えてすぐさま発砲する。轟音を残してマグナム弾が発射されたが、相手はギリギリでかわした。外れた弾丸が地面を削る音が小さく聞こえる。
「ふっ!」
相手が銃弾を回避した隙をついて回し蹴りを繰り出す。速い蹴りだったため、相手はガードで止めた。
その瞬間、見えた。相手の胸部に多数開いた穴の中でも一際その直径が大きいもの、つまりツジが捕縛している間に撃ったオレの弾の命中箇所が。
(チッ。どこまで射撃ヘタなんだよオレぁ……)
その穴は、完全に心臓を捉えてはおらず、僅かに左に逸れていた。拳銃は当たらない武器なんてよく言われるが、特警にとってそれは言い訳でしかない。その射撃ミスが死を招く状況だってあるのだ。まさに今がその時と言ってもいい。
蹴り足をすぐに引き、今度はジャブからストレートのコンビネーション。しかし、これもかわされた。止まらずにミドルキックを放ち、回避の隙にパイソンで撃つ。
弾丸は相手の左肩を捉えた。当たった場所の肉が抉れて、とても直視出来る状態では無くなる。それでも、相手は止まらずに鉄棒を、拳を振り回す。
(にしても、マズイな……)
そろそろドーピングから三分経つ。それを過ぎると、もういつ効果が切れてもおかしくなくなる。そうのんびり戦っていられない。
詰めだ。一か八か。一気に接近して心臓をブチ抜いてやる。
大丈夫。至近距離はオレの距離だ。絶対やれる。
リボルバーを握ったままの右手で、胸を二度軽く叩く。これで、決める――!
「っと!」
敵が撃ってきたローキックをかわし、素早くバックステップで下がりつつ、ポーチからピンにワイヤーがくくりつけられた手榴弾を取り出した。爆破時間調整のダイヤルは、ゼロ秒でデフォルトだ。
走って敵との距離を十分に開け、左手に手榴弾を持つ。追ってくる敵に向けてそれを投げつけた。ちょうど敵の目の前に手榴弾が位置した瞬間に、ワイヤーを勢いよく引いた。
軽い音を立ててピンが引き抜かれる。同時に、黒い塊が爆ぜた。
凄まじい爆破音と共に、凶悪な爆風の花火が咲く。刹那の美しさと獰猛さを併せ持ったその花火は、先ほどの銃での一撃で抉れていた相手の左肩を直撃し、左腕を根こそぎブッ飛ばした。人体の一部からただの肉塊と化した腕は、ボロ布のように地面に叩きつけられた。
だが、なおも相手は止まらない。片腕だけの状態で、右手には鉄棒を持ったまま突っ込んでくる。
よし、狙い通りだ。片腕の相手なら至近距離での攻撃選択肢は限定される。後は素早く懐に入って、心臓を撃ち抜いてやればいい。
一度離れた相手に再び接近する。右手のパイソンをしっかりと握りしめ、間合いに入る直前、フェイントで体を振った。
相手はそれに対して迎撃しようとしたが、今の相手には右腕しかない。必然的に右手が動いたため、オレは相手から見て左に深く踏み込んだ。
手榴弾の爆風で焼けた相手の左半身から、血生臭い悪臭が漂ってくる。その左胸に銃口を押し当てようとした時、パイソンが手から消えた。
「チッ!」
どこへ行ったかと思ったが、手から離れたリボルバーは数メートル先の地面に落ちて、軽い音を立てた。相手を見れば、右腕で鉄棒を振るったフォロースルーの状態。どうやら、ギリギリでオレの狙いに気付き、銃を弾き飛ばしたようだ。
大したもんだよ。この状況で。けどな……、
「残念」
背面に取り付けられたバックサイドホルスターから、自動拳銃を素早く抜く。全く無駄の無い動きで、その銃口を心臓の部分に押し当てた。
こうなることも、一応は想定済みなんだよ。その為に二丁持ってんだからな。
引き金に指をかける。あとはたった数センチ指を動かすだけで、相手の心臓にゼロ距離で弾丸が撃ち込まれる。狂化体と言えど、素体は人間の体。心臓が停止すれば、その命は消える。
――勝った。
目を閉じて、躊躇せずに引き金を引いた。犠牲者と、この狂化体への冥福を込めて。
勝利の瞬間を、迎える。
はず、だった。
「!?」
確かに、指をかけたトリガーを強く引き切ったのだ。しかし、おかしい。その感触が異様に軽い。そして、直後に響くはずの発砲音が聞こえない。遊底がスライドしない。空薬莢が排出されない。
なにより、銃弾が、発射されない。銃の一番基本的な機能が、動作していない。
(馬鹿な……!?)
思考がフリーズした。何故、なんでだ。弾倉に弾は入ってる。スライドを引いて初弾も装填してる。なのに、何故発射されない……!
その答えは、あまり考えることなく出た。その原因たる風景を、割とすぐに思い出せたからだ。
(まさか……)
オレはさっき、狂化体に背中から思いっきり叩きつけられた。そして、オレのイーグルはその時どこにあった? 今イーグルを抜いたのが背中側のホルスターなら、当然その瞬間も背中側に……!
つまり――、
(ジャムったのか……!)
背筋が凍りついた。まさか、まさかここにきてジャムるだと……。
ジャムとは、銃に原因がある場合の作動不良の事を指す。オレのイーグル、つまり自動拳銃は、リボルバーと比べると、連射が効く代わりに精密機械のような機構の複雑さが弱点だ。リボルバーの、多少の衝撃ならものともしないタフさが、自動拳銃には無い。
先ほどの背中への衝撃で、内部機構がイカれたのだろう。つまり、この戦闘においては死に銃ということだ。
今のオレに、弾かれたリボルバーを取りに行くヒマはない。なぜなら、オレの目の前にいるのは狂化体で、弾が発射されなかった以上、コイツを殺すことは出来なかったのだから。
逃げる間も無く、敵の腕がオレの喉に伸びた。そして次の瞬間には、右手で喉を掴まれて、そのまま体を持ち上げられていた。
息が……、出来ない……!
「かっ……、はっ……!」
気道がぎりぎりと締めあげられる。そのせいで、息を吸う事も、吐く事も満足に出来ない。酸素の補給が間に合わず、だんだんと景色が掠れてきた。
(こんな、バカな……!)
死ぬのか? ただ無様に気道を潰されて、木偶のように無抵抗で。仇も討てず、弔いもままならないこの状況で。自分の目的も果たせない、こんな情けないままで、命の灯を消されるのか……!
それだけじゃねぇ。みつきとの約束はどうなる? オレは言った。『必ず生きて帰るから』と。オレにとっては、死ぬことより負けることより、アイツを不幸にすることが、一番怖えぇんじゃ無かったのかよ……!
「ぐぁっ……! ぁあ……!」
締め上げる手を外そうともがくが、駄目だ。力が微塵も入らない。まだ薬の効果は完全には切れてない。けど、空気が、酸素が足りない……。
下を見ると、狂化体の目が見えた。その中には、何もない。冷え切っているわけでもない、殺すことへの恐怖も無い。哀れみも、悲嘆も、懺悔も、何一つ無い虚無の目をしていた。
その目に、ひどく恐怖を覚える。人間の形をした人間じゃないものが、こんなにも恐ろしいとは。何も見えない瞳に、ここまで畏怖を覚えるとは。
ああ、オレは、死ぬのか。景色が消えていく。遠くの方から、だんだんと闇が迫ってくる。前からも、後ろからも、右からも左からも斜めからも上からも下からも。周りの全てが闇に食われていった。
くそっ、ふざけん、な……。
「みつ……、き……」
死ぬのなら、せめて最期にその名を呼びたかった。そして苦しみながら呼んだ瞬間、ビルが消えた。コンクリートが消えた。目の前の狂化体も、全部消えた。
死の瞬間だと、自覚があった。
気付いたら、何にもない真っ暗な空間に、一人で立っていた。目の前には巨大な扉がある。他には何もないんだ。オレは、この扉を開けなければならない。
扉を押しあけると、その先は更に暗い闇だった。そっちには行きたくない。けど、行かなきゃいけない。
一歩を踏み出し、体が半分深い闇に入った、その瞬間だった。
「日向!」
オレの名前を呼ぶ声がしたかと思うと、後ろから銀色の鋭い光が射した。闇すら切り裂くその光に、なぜか見覚えがあって、オレは扉の先に進むのをやめて振り向いた。
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