鈴音の世界③
声が……出ません。
喉に粘土でも詰められたように息が上手く通らず、掠れた音だけがマイクに入りました。
「あれ、どうしたんだろう?」
「マイクがおかしいのかな?」
会場からそんな声がぽつぽつ上がりました。
まずい、まずいまずい、まずいまずいまずい。
何でこんな大事な時に声が出せないのでしょう。
目の前には大勢の保護者や生徒がいる筈なのに。
そう、いる筈なんです。
正直緊張して周囲の状況なんてわかっていません。照明があてられた舞台の上にいるのに、暗い闇の中に一人で放置されているような気分になっていました。
「わた、し、は……」
全身全霊を込めて出した言葉はたったそれだけ。
周りは見えませんが、多くの人から視線を浴びていることはわかります。
「なんで動かないんだ?」
「らしくないよね、体調悪いのかも」
「顔色も悪そうだ、誰か止めないのか」
――もう、心配しすぎ! ごめんね、ちょっと緊張しすぎちゃってたみたい! いやー、いざ立ってみると校長先生の凄さがわかるなあ!
そう言うんです。
そうじゃないと本当に取り返しのつかないことになる。
「わ、わた、し、は!」
動け、動け、動け!
どれだけ願っても恐怖に支配された私の体は、ピクリとも動いてくれませんでした。
――ああ、もう。
本っ当にどこまで行っても、根がいじめられっ子のままなのですね。
仮面を被って生きていく事すらもできない、人間として欠陥している存在。
こんな私が、今まで受け入れられていたのが、奇跡だったのでしょう。
……そうだ、もう満足です。
充分、私には勿体ないくらいの楽しい時間を過ごせていたのだから。
もう、そんな時間は終わりでもいいでしょう。
このまま、無言で舞台から降りて、どこかに逃げ込み、辛い現実を忘れましょう。
大丈夫。人に嫌われるのは慣れているんですから。
嫌われ続けてきたのですから……。
足を舞台袖に向けて動き出そうと一歩を踏み出――。
「ふ・ざ・け・る・なああああああああああ!」
「っ!?」
体育館に響き渡る女性の怒声。
声はバスケコートを見下ろせる高さにある観覧席から聞こえてきました。そこは本来、親族が文化祭でのわが子の様子を観覧しやすいように解放されている場所。
そこに立っていたのは、今信じられない位の大声を上げたのは。
「アリス……ちゃん!?」
自分の目を疑いました。
そこには今はお店で接客をしている筈のアリスちゃんがメイド服を着たまま立っていたのです。腰の高さほどの柵に手をかけて、身を乗り出しそうな勢いで今の声を出していました。
「先生、みんなも……」
その横には施設の子供たちと、私の親代わりをしてくださっている明智先生がいました。先生たちは何となくわかります。一緒に住んでいるので、保護者用のスペースに入ってもいいでしょう。
でも、なんでアリスちゃんが……。
「もう少しなんだよ!? なんでそんなに怯えているの! なんでそんなに――、泣きそうな顔をしているの!」
アリスちゃんが、いつもは出さないような大声を私に向けて発してきます。言っている自分の方が、泣きそうに顔をしかめて。
泣きそうな……顔?
私が?
「な、なに言ってるのアリスちゃん……。え、えへへ」
いつものように笑って見せます。
これで安心。アリスちゃんは笑顔になる筈です。
「友達になろうって言ってきたのはそっちなのに! 何で、鈴音はそんなに、自分から人を突き放していくの! ――もっと人を、自分を大切にしなよ!」
「……あ」
何も言い返せなくなり、言葉に詰まりました。
私が自分から他人を突き放してしまっていた。なんでそれを、最近知り合ったばかりのアリスちゃんが知っているのでしょう。
そんなことを考えるよりも先に、アリスちゃんの言葉が私の心に弾丸のように入り込んでいくのを感じました。
息を荒げて、普段は出さないような声を出したために、今は辛そうに肩で呼吸をしている同級生に視線を向けます。
「鈴音。僕たちも同じ意見だよ。鈴音にはもっと、自分を愛せるようになってほしい」
いつものようにただ微笑む先生。
ああ、そうだ。この人はいつだってそう。
無責任に自分の正義感を押し付けて、私を困らせ、追い詰め――。
「だから、本当にすまなかった!」
この場にいる全員から見える位置で、先生は頭を地面につけました。
「先生!?」
「僕の責任なんだ! 君がここまで追い詰められていたのは! 鈴音を幸せにするのは僕の義務でもあるのに! だから僕のことはどれだけ罵っても、嫌いになってくれても構わない。でも、この場で自分をあきらめることはしないでほしい。頼む!」
初めて見た感情をむき出しにした先生。
一緒に来ていた子供たちも予期せぬ事態だったのか、アリスちゃんから先生に注目を移しています。
心配そうに先生と私を交互に見て、自分たちはどうすればいいのか分からずその場であわあわしていました。
「ちょ、先生やめて! 顔を上げてください!」
私がそう言うと先生は顔を上げてくれましたが、少し申し訳なさそうな表情は崩れていませんでした。
アリスちゃんや先生にあんな顔をさせてしまうなんて……。
私は、どうすれば……。
もうこの場において私に視線を向けている人はいませんでした。誰もが三メートルほど上にある観覧スペースに意識を集中させ、何が起こっているのか困惑している状況でした。
そんな折、この雰囲気には似つかわしくない間の抜けた声が響き渡ります。