鈴音の世界②
脳が目の前の視覚情報よりも鮮明に映し出したのは、思い出しただけで嘔吐してしまいそうになるかつての記憶。
小学生のころ。
最初は些細なものから。
グループに入れてもらえない。話しても無視される。
ですがある時遂に直接的な攻撃として、ゴミ箱を頭にのせられた。
トイレに入っていたら上から水をかけられた。
私の筆箱に虫の死骸が入っていた。
カッターナイフを向けられて、脅された。
そのまま……男子の前で裸にさせられた。写真を、撮られた。
それを知ったお父さんが怒った。いつものように優しい声で、私の面倒を家で見ることにすると伝えてくれた。最初は大変だったけど仕事から帰ってきたお父さんに勉強を教えてもらって、私は家事をして。楽しかった。
ある日、少し家の外を出歩いていたらクラスの男の子に会った。
囲まれて、人気のない道に連れて行かれそうになった。けれど、途中でお父さんが偶々通りかかってくれて、私を助けてくれた。囲んでいた男の子を本気で怒鳴りつけて。
その日から外出が禁止になる。
次の日、お父さんが仕事をクビになった。昨日怒鳴ったメンバーの中に会社のかなり大切な取引先の息子がいたらしい。すごく大きな損失になるから、相手側が納得する形としてお父さんは仕事を辞めさせられた。
それ以降、私を守るという目的がどんどん過剰になっていき、部屋から出ることも許されなくなった。食事も、トイレも、すべて部屋の中で行うように言われた。
部屋から出たら殴られた。
床に押し倒されて顔は目立つから、お腹や腕を踏まれ、蹴られ。髪を引っ張られた。
痛いよ、すごく怖いよ。お父さんは、そんなことする人じゃないのに。
泣いたらお父さんが急に抱きしめた。私が良い子じゃないから、その罰なんだよと。だから、良い子になればお父さんも怒らないでいいんだよ、と。
子供ながらに異常な環境なのはわかっていた。
でも、心のどこかで唯一の肉親であるお父さんに対しての依存心。愛情みたいなものがあったから。……辛い日々はいつか終わりが来る。
大人になったらお父さんに私の元気な姿を見せて、友達を紹介して、安心させるんだ。
そう思っていた。
ある日、家に黒いスーツを着た大人の人が大勢入ってきた。
玄関先でお父さんが殴りかかって逆に押さえつけられる。聞いたこともないような金切り声を挙げるもスーツの大人たちは意に返さない。
その内の一人が私のいる部屋の扉を開けた。目に光が差し込んでくる。
大人たちは部屋を見るなり顔をしかめた。食べかけの残飯。お父さんが処理をしていない分の、私の排泄物が入ったプラスチックの箱。お風呂なんて最後に入ったのがいつか思い出せない程に前だから、不衛生なみすぼらしい私。
大人たちは怒ったように、悲しむように、私を綺麗なところに運んで行ってくれた。
そして、お父さんと会うことはなく成長して、高校生になった。
もうすぐ自分で働けます。そしたら、お父さんに親孝行をするんです。元気な姿と、友達を紹介して、お父さんにも元気になってもらうために。
そう思っていた矢先に、お父さんと再会しました。
家の中で孤独死をした、自分の最後の肉親として。
「――っ! はあ、はあ」
発作のように胸が締め付けられます。
優作やオカ研の皆との関わりを通してだいぶ緩和したつもりですが、今から大勢の人前に出る緊張感が過去の虐めを想起させたのです。
「次は二年生。坂上鈴音さんの発表です」
それでも無慈悲に進行のアナウンスが私を呼び立て、舞台袖にいた生徒会の役員がどうぞ、と移動を促してきます。
それはまるで死刑宣告のようで、今まで自分の中で殺してきた人前に出る恥ずかしさが再燃した瞬間でもありました。
「あ、はい!」
返事だけは元気よく笑顔で。
本当はもうやめてしまいたいけど、それだけは崩してはいけません。
皆にとっての鈴音はそのような存在なのですから。その期待を裏切ってはいけません。私自身がこの鈴音も含めて、一つの私だと考えているのですから。
普段は無意識で行っている歩行を、一つ一つの動作を意識しながら多くの生徒を見下ろせる舞台上に立ちます。
私以外にあるのはマイクスタンドと一本のマイク。
私は歩いている間にも司会のアナウンスが歌を披露する旨を伝えていたようですが、正直全く聞こえていませんでした。
この空間にいる全員から見上げられています。
鈴音は、この学校ではいじめや虐待されていた過去を知られることなく過ごし、誰とでもフレンドリーに接する天真爛漫な人間。
そんな今までの自分とは真逆の仮面を被って生きてきたのですから、この場で泣き出しでもしたら多くの人に失望されることでしょう。
嫌だ。
これ以上、誰かから嫌われたくない。
震える手でマイクを掴み、最初に挨拶をします。
――どうも! 坂上鈴音です! 皆盛り上がってるー? 私も負けないくらいテンション上げて歌っちゃうよー! 曲はしっとり系なんだけどね!
鈴音は、そう答えるはずです。
そうしたら皆さんが笑ってくれる。
簡単なこと。そう声に出せば学校におけるいつもの私を演じることが出来るのです。
「――――っ……あ」
嘘……。
声が……出ません。




