二十一話・狂気と本心
次の日。
俺とアリスは鈴音の部屋の前に立っていた。
放課後になり、授業からの心地いい解放感を味わう暇もなく、今日は一日中変に緊張している。それを知ってか孝宏も変な絡みをしてくることはなく、過去に類を見ないほどに平穏な学校生活を過ごした。嵐の前の静けさってやつなのだろうか。
どれくらい緊張しているかというと、以前来た時よりも遥かに重そうな扉の雰囲気に気圧されそうになるくらいだ。
「ふう……じゃあ、入るか」
「うん。鈴音が心配だから早く助けたい」
「そうだな。いま、開ける」
アリスと目を合わせて互いに頷き心の準備を整える。
ドアに手を掛けギギっと音を立てながら俺の方に引いた。
鈴音の部屋の空気が鼻をつんとついてくる。女の子の部屋というのは甘い香りがすると聞くが、換気もせずに一人で部屋に籠もりきっているので一瞬顔をしかめてしまう。
アリスは……結構平気そうだった。
「久しぶりだな、鈴音」
「元気だった? お菓子買ってきたよ」
隣に並んだアリスがコンビニのレジ袋を揺らす。
部屋の様子はこの前のまま。泥棒が入ったかのように、物が散乱している。
一応最低限の食事は食べてくれるそうだが、それも部屋の前に置いていたら勝手に半分ほど食べて廊下にまた置かれているらしい。
明智さんが何度か呼び掛けて外に出ようと促したが、反応はないらしく一昨日会ったばかりなのに明智さんは目に見えて憔悴していた。ろくに睡眠していないのだろう。
「……あ、アリスちゃん? 良かったちょうどアリスちゃんの話をしてたんだ!」
部屋の中には布団を頭まで被りあらゆることに怯えた鈴音。
そんな奴はいなかった。いつもの調子で明るく天真爛漫な笑みを浮かべて、茶髪のショートカットがよく似合う快活な女子がいたのだ。
「す、鈴音?」
予想していた状況と違いアリスは困惑する。
当然俺も。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、多分今の俺たちの顔の事だ。
「優作もいるんだ。二人とも本当に仲良しだよね! とりあえず座ってよ!」
衣服や教科書が散らばっている鈴音の部屋だが中央にだけは一つのちゃぶ台が置かれているのみで、何も物はなかった。
いや、違和感が強いものが一つ置かれている。俺とアリスのために敷いた二枚の座布団以外に、最初から設置されていた座布団があるのだ。
そこには青い服を着たどこにでもありそうな男の子の人形が座らせられている。
鈴音はその横にちょこんと座った。俺たちとは対面になるような位置。
「お父さん、紹介するね! クラスメイトの優作とアリスちゃん! 二人ともすっごく良い人なんだよ!」
「……は?」
思わず声が出る。
愛おしそうに、敬うように人形を鈴音は見下ろしている。父さんと呼んで。
脳みそを掴まれたかのように思考が停止する。口を開けてぽかんと間抜け面を浮かべるしかなかった。
だって、目の前は狂気だ。異常だ。理解不能だ。
人間は原因不明のものに対して、恐怖を抱くという。だとしたら俺の体の毛が先立っているのは鈴音への恐れなのかもしれない。そんなもの抱いてはいけないはずなのに。
「鈴音、それは。これ以上は駄目だ!」
何とか体を動かし人形を取り上げようと手を伸ばす。
これさえなければ、いつもの鈴音になるはずだ!
「山元!」
その俺の手を叩いたのはアリス。
さっきまで同じように呆気にとられていたのに、今は厳しい目で俺を見ていた。
「何するんだ。鈴音がおかしくなってるんだぞ、人形を父親なんて……」
以前友華から聞いたことがある。現実逃避の行動として、死んだ人間が生きているように振る舞う場合があると。
その話は母親が、子供を失った後も尚、毎日その子の分まで食事を作っていたとかだった。
鈴音の場合は、人形を父親だと思い込んで、以前の明るさを取り戻している。
歪みだ。ひどく逸脱した、許容できない歪み。故人を思い、懐かしんで悲しむのは多くの人間が行うありふれた行為だが、それがこの世界にいるかのように振る舞い思い込むのは世界のルールに反している。世間ではそのような人間を狂っている、精神に異常があると判断することも多い。
だからこれ以上、それを見過ごすことはできない。
「うん、見たら分かる。でもあれを取り上げたら、絶対に取り返しのつかないことになるよ。今なら、私と山元なら、鈴音を引き戻せる。だから、まずは鈴音の世界を理解しよ」
アリスはそう言って、俺よりも半歩前に進んだ。表情は一瞬で和やかな、優しいものに変わる。
「お父さんとお話し中だったんだ。私たち突然来ちゃったけど、邪魔しそうだから帰ろうか?」
「いやいや大丈夫だよ! 友達紹介するの初めてだから、お父さんも喜んでる!」
「そうなの? よかった。あ、こんにちわ。鈴音の友達の上赤アリスです。娘さんにはお世話になってます」