壊れる日常④
今は親と離れて施設で暮らしている鈴音の手前。目の前の家を鈴音の家と呼んでしまった俺の失言を孝宏が肘で小突いて注意してくる。
「ああ、悪い」
「大丈夫! 気を使う必要はないよ、私はお父さん嫌いじゃないから! 最後に話したのはだいぶ前だけどね!」
これが気丈な振る舞いなのか、それとも本心なのか。
俺には知る由もないが鈴音はお構いなしに門の取っ手をぐるりと回して玄関前に向かう。そこで見えたのだが石壁と家の間の庭には、大量のゴミ袋が置かれていた。
「うわ、すっご」
「孝宏」
さっきのお返しではないが、同じように肘で小突く。
「あはは、お父さん昔から片付け苦手だったから……。いやー、私がいないとすぐに汚しちゃうんだよ! 訪問員さんがたまに来てくれてるらしいんだけど、ずっと追い返してるんだって!」
笑いながら鈴音はポケットから折りたたみ式の財布を取り出して家の鍵を手に持つ。粗いガラス貼りの玄関を横にスライドして開けた。
「おお、躊躇いなくいくな」
「ここまで来たらもう勢いだよ! 女は根性だから!」
ついてきた俺たちの方が戸惑っているかもしれない。
鈴音は平気そうな顔をしているが、玄関を開けた瞬間、中からは生ゴミが放置されている時にする特有の匂いが鼻を刺激してきたからだ。
廊下には外に置かれているのと似たようなゴミ袋。空の弁当や酒瓶などが洗われずに放置されている。
俺と孝宏は思わず鼻を手でつまんだ。
「うわあ、何この匂い……」
「お父さん、流石にここまでゴミを放置するのはあんまりないんだけどね。……もしかしたら荒れてる時期なのかも。ハエも飛んでるし」
そう言った鈴音の顔は少し不安そうだった。
今にも泣き出しそうな表情。施設に入る原因になった、父親の暴力について思い出しているのだろう。場所に残った記憶が鈴音の頭に忘れようとしていた記憶を想起させたのかもしれない。
「大丈夫だ。俺もいるし、こんな時のための孝宏だしな」
「結局僕頼みかよ。まったく、しょうがないな」
鈴音の肩に手を置いて震えそうな体を落ち着かせる。
軽口を叩きながらも、孝宏は鈴音の前に出て先に家へと入っていった。
「その、乱暴はしないでね! お父さんの暴力はアルコールのせいだから」
「友達の親にそんなことしないよ。絶対に最低限しか手を出さないから、僕が先導してもいい?」
「うん、瓶の破片とか気をつけてね。なんなら靴のままでもいいよ」
孝宏が靴を履いたまま家の中に入っていく。廊下にあるゴミを嫌そうな顔して足でどけながら。
「なんか白い塵みたいなのあるね、気持ち悪い」
ぶつぶつ言ってはいるが、おかげで俺と鈴音は歩く通路ができた。
歩くために鈴音の肩に置いていた手を放す。
「あ」
瞬間、迷子の子供のようにおどおどしてか細い声を出した。
その様子が俺にはひどく脆い花のように見えた。触れればすぐに散ってしまいそうな花。誰かが守ってあげないと消えてしまいそうな、そんな予感がした。
だから、俺は手を延ばす。
「ん、緊張してるのなら、手でも繋ぐか?」
意外そうな顔をした鈴音。だが、すぐに手を握り返してくれた。
「うん! ありが――」
「うわあ!」
何かを鈴音が言おうとした時、廊下を進んだ先の部屋から孝宏の悲鳴が聞こえる。
鈴音は言葉を中断して声のした方に視線を向けた。俺は大声で呼びかける。
「どうした!? 大丈夫か!」
声を出しながら既に無意識のうちに駆け出していた、鈴音の手を掴んだまま。
もし、鈴音の父親が何かで孝宏を殴っていたら。そんな嫌な想像が浮かんでしまう。
部屋に近づくとそこが生活の主なスペースなのか明らかにゴミの量も多く、臭いも強くなる。
玄関周りにいたハエも確実に多くなっていた。
そこで、俺が気づけばよかったんだ。ある違和感に。
生ゴミの臭いではない鼻をつくような酸味がかった空気。昔田舎の港で嗅いだような臭いだ。
大量に飛んでいたハエ。そして、孝宏が道中に靴で蹴ったという白い塵。
鈴音も流石にここまでの異臭は初めてなのか、顔をしかめている。
俺は孝宏の声が聞こえた部屋を勢いよく覗き込んだ。
「大丈夫か! たか――」
そこで言葉を失う。
口を開けたまま時間が止められたようにフリーズした。視線だけは直立している孝宏の先にあるものを見据えている。
孝宏は俺よりも早く我に帰り、入り口に立っている俺に気づいた。目を見開いて震える片手を抑えながら本能的にむせ返ってしまいそうな空気を吸い込んだ。
「見るなああああああああああああああああ!」
喉が裂けそうな声。
聞いたこともないような声に隣にいて部屋の様子を見ていない鈴音はびくりと肩を強ばらせる。
「鈴音! こっちだ!」
その声のおかげで俺も今するべきことがわかり、鈴音の手を引こうとした。
――しかし、その手は躱される。
鈴音は部屋で何が起こっているのかを見ようと、一歩足を踏み込んだ。
それだけだ。それだけで、中の様子は伺える。
俺がその距離まで鈴音を連れてきてしまった。
「なんでそんな騒ぐの!? お父さんは!?」
言って部屋の様子を見た。
見てしまった。
「お、おとう……さん?」
ハエがたかり畳の上に転がっている肉の塊を鈴音が凝視する。先程からこの家に充満していたのは生ゴミの臭いじゃない。
肉が腐った時の異臭だ。ハエがたかる元凶だ。生活の場に決してあってはならないものだ。
「見たら駄目だ!」
慌てて鈴音を廊下側に引く。強引になってしまい、二人して地面に倒れ込んだ。
「ぐ、悪い鈴音、大丈夫か!?」
「あ、あ、ああ……。」
肩を揺すって声をかけるが反応はない。
「あれ、何、あれ?」
転がっていたナニかの正体を尋ねてくる。
「考えるのは後だ! 今はこの場を離れるぞ!」
「どうして……? だって、お父さんはここ……に、住んでて」
言いながら異臭の正体に鈴音が気づく。口を手で覆って瞳は震えていた。
「待て! 何も考えるな!」
「ああ、あああああああああああああああああああ、ひ、あああああああああ、や! ああああああああああああああ!」
俺の問いはもう聞こえていない。頭を抑えてうめき声から始まった声はある瞬間に発狂へと変わった。
目からは涙。どこを見ているのかはわからない。さっきの鈴音とは違う、別の誰かになったようだった。
ちぎれたんだ。根元から、くっきりと。
「く! 鈴音、これに!」
倒れ込んだ姿勢から四つん這いのようになって廊下に口を広げ苦しそうにうめき声を発し続ける鈴音。俺は近くにあったからのレジ袋を口元まで運んで背中をさする。
「ああ、え、あ! おとう、さ、げほ! はぁ、いや! やあ! あああああああああ!」
咳と嗚咽。そして涙。
いろんなものが混じり、鈴音の体は限界を迎えた。
俺の用意した袋に鈴音は泣きながら生暖かい吐瀉物を吐き出す。
「孝宏!」
「わかってる! 鈴音ちゃんはお前がなんとかしろ!」
孝宏はスマホを取り出して電話する。警察なのか、救急隊員かはわからない。
ただ。
「もしもし! 死体を、人の死体を見つけました!」
その言葉ははっきりと聞こえた。




