誰よりも醜悪な山元優作という男③
孝宏と話して気持ちを落ち着けた後、そのまま家に帰った。
ガラス張りの戸を開けて古い家に入ると入った瞬間にずしんと気分が下がる。
母さんの靴が玄関に置かれていたからだ。
今日は仕事があるとか言ってなかったか?
アリスに振られて、孝宏に励まされてと変化の激しい一日だったけど最後にこれだと今日が厄日だったとしか思えなくなってきた。
廊下を歩いて自分の部屋に直帰しよう。
そう思って外よりも寒く感じる家の中を歩く。床の軋む音が妙に響いている気がした。
ふと、リビングの横を通った時に視線を流すとテレビが点けっぱなしになっていた。母さんが机に座っている様子もないし電気代の無駄になる。
「ったく、何やってんだよ」
悪態を吐き、リビングに踏み入る。
普段ならリモコンが置かれている机の上に置かれていなかったので周りを見渡すと、カーペットの上に落ちているのを見つけた。
それを取ろうと手を伸ばしたところで、それまで死角になっていた机の陰に母さんが横たわっていることに気づいた。
「……うわ、寝てんのかよ。ほら、起きろ」
少し驚いたが、冷静を装って声を掛けると母さんは目を擦りながらむくりと起き上がる。
酒の瓶を抱えて口元からは涎が垂れている。
「ん……優作、帰ってたのね」
まだどこか眠そうな声だ。
母さんはいつものように長袖の寝巻に身をくるんでいた。
「ああ。こんなとことで寝るなよ」
「……ええ。ごめんなさい」
言いながら母さんがボリボリと右腕をかく。
よく見ると酒がこぼれていて右腕部分はじっとりと濡れていた。
「……臭いから、それ脱いで寝ろよ」
「……ごめんなさいね」
ごめん、それしか言わない母さんに少しだけ苛立つ。
母さん以外の人間が同じことをしても何も思わないけど、この人の行動は一挙手一投足が癪に触る。
「あ、あはは」
「何笑ってんだ」
「いや、優作とこんなに喋るのも久しぶりだなって思って」
誰のせいだと思っている。
そう言ってやりたかった。
全部あんたが育児放棄をしているから、その結果なんだと言ってやりたい。
何でこいつが被害者のような顔が出来るんだよ。
「とにかく、俺はもう部屋に戻るぞ」
ここにいたら本当に口に出してしまいそうだったので、普段は話もしないし関わりもしない母さんの姿をちらりと見てリビングから出ようとした。
「――っ!」
「優作? どうかしたの?」
この行動にこれといった意味はない。母さんが不思議そうに首をひねるのは当然の事だ。
でも、その時に俺は気付いてしまった。
唯でさえ嫌いな母さんを、より嫌悪するきっかけに。
「母さん、ポケットのそれ、何だよ……」
「ポケット? ……あ」
俺が指さすとそれを追うように自分のズボンに視線を送る。
そして、今まで薄っすらとほほ笑んでいた表情が凍り付いた。自分がポケットに何を入れていたのかを思い出したんだろう。
母さんのポケットから注射器がはみ出していた。
転んだ拍子か、横になっている時に出てしまったのかは不明だけど、細い針と独特のフォルムの先端が見えていたので間違いない。
「お前、何やってたんだよ……」
唖然とするしかなかった。
母さんは固まったまま動かない。
その反応が、こいつが何をこれでしていたのかを悠然と語っていた。
「違うの! これは――わ!」
泥酔してフラフラのまま立ち上がろうとしたので母さんが尻もちをついた。
その反動で完全に注射器が床に落ちる。
「っち! おい、袖まくるぞ!」
ここ数年。俺の前では常に長袖を着ていた。
その理由を何となく理解してしまう。
「やめなさい! 離して!」
抵抗する母さんを押さえつけて、右腕の袖を上げ母さんの腕を見る。
そこには肘辺りに黒い点が何か所もあり、そこから赤白いひっかき後のようなものが手首や上腕にかけて伸びていた。一本の線ではなく植物のように枝分かれしながら何本も。
「っ、うわ」
思わず顔をしかめる。
それ程までに惨たらしい光景だった。
「やめなさい!」
母さんに押されて机で頭を打つ。それで怯んだすきに、母さんは俺から離れてキッチン付近で立ち上がっていた。
「お前、それなんだよ。なあ、ふざけんなよ!?」
語気を荒げると母さんは子供のように怯えていたが、そんな事気にしている余裕はなかった。
「いくら何でもやっていい事と悪いことがあるだろ!? いつからそんなことしてたんだよ!?」
「お、覚えてない」
「っ、この!」
バチン!
母さんの顔を思いっきり叩いた。
怒りでカッとなってこんな事しても何も解決しないのに、手が出てしまった。
「あ、ご、ごめん……」
実の親とはいえ、母さんも女性だ。それを男の俺が殴るなんて最悪な事をした。
少し冷静になってしまい、咄嗟に謝る。
「ひ、ひい……」
でも、母さんは俺から距離をとってキッチンの奥に進んでいく。
「待てよ。話をまだ聞いてないだろうが」
「う、うるさいうるさいうるさいうるさい!」
突然発狂したように大声を出す母さんにびくりと驚く。
その目は瞳孔の位置が俺を見ていなくて、完全におかしくなっていた。
「あんたも結局そうなのね! 私を利用するだけして、面倒は全部押し付けるんでしょ!」
母さんは怒鳴り散らしながら置いてあった包丁を手に取った。
流石にまずい。
薬や、俺の攻撃のせいでおかしいくらい興奮している。
「待てって! 今は薬で判断が鈍ってるだけだ! 取り敢えず、それを置け!」
「うるさいって言ってるのよ! あんたが私から優作を取ろうとしてるのね!? それどころかお金も家も全部盗むんでしょ!」
まともな会話すら出来ない。
ラリっていて、一度興奮したらもう俺の声が届きそうになかった。
それどころか俺を俺として認識していない。
「俺が優作だ! 間違ってるのはあんたの方だろうが!」
「話しかけないで! 泥棒! 出ていきなさい!」
「だから、俺は――」
「私がここを守るの! ど、泥棒は殺してやる!」
とっくにおかしくなっていた母さんが、そのまま突っ込んできた。
「くっそ! てめえ!」
流石に正面から突っ込んでいただけなので、女の母さんから刃物を取り上げることくらい簡単だ。
腕を掴んで包丁を取り上げる。
「お前、本気で刺すつもりなのかよ!?」
「泥棒は出て行って!」
「ああもう! 少し黙れ!」
母さんを思いっきり押して後ろに会った食器棚にぶつける。
鈍い声を挙げながら母さんは倒れた。
「はあ、はあ! くそ! 何でこんなことに!」
取り敢えず警察に電話しないといけない。
包丁を置いて、生まれて初めて警察に電話をする。
電話は三コールくらいでつながった。
「あ、もしも――」
電話に誰かが出た瞬間。
俺は固定電話の受話器を落とした。
背中に経験したことの無いような激痛が走ったから。
「が! お前……!」
「あははははははははは! 泥棒を殺した! はははは! あは! ひはははははははは!」
母さんが背後に怖いくらいの笑顔で立っていた。
その手には真っ赤に濡れた包丁。
自分の背中が刺されたのだと、嫌でも理解してしまった。
「くっそがあ!」
「ごふ!」
今度は加減なしで母さんの腹を蹴る。
うめき声を上げながら吹き飛んだ母さんはそのまま動かなくなった。
背中を触ると、自分の手が真っ赤に染まる。
「くそ、くそくそくそくそくそ!」
歯を食い縛って痛みに耐えるけれど、そんなレベルの痛さじゃなかった。
次第に意識が朦朧としてくる。
「すみません! 刺されました! きゅ、救急車を、呼んでください!」
電話に声が入るように、床にのたうち回りながら全力で叫ぶ。
朦朧とする意識の中、母さんが絶望したような顔で俺の真横に伏している姿が目に焼き付いた。