友華の世界③
「よっこいしょ、っと!」
重い辞書を四冊同時に棚から机に運ぶ。
勢いよく置いたので長机がギシリと音を立てた。
使われなくなった机を譲り受けた物なので、そろそろ寿命なのかもしれない。
「先生、ここ分からないんですけどー」
「国語嫌いだなあ」
腰を叩いていると、近くに座っていた子供たちがプリントと睨めっこしながら質問してきた。
「そうだろうと思って辞典を運んできたのよ。ほら、人に聞く前にさっさと読みなさい」
「え、先生教えてくれないの?」
「自分で調べた方が頭に残るわよ。ほら、調べなさい」
「調べるならスマホ使う」
「あ、私も!」
「だーめ、偶には本を使いなさいな」
こういう時に直ぐにスマホを取り出すのは現代っ子の悪い癖だ。
背後から流れるように強奪する。
スマホいじりクソガキのたかしくんが、ムッと不満げな顔を隠そうともせずに私に向けてきた。
「何で取り上げるの!? そっちの方が早いじゃあん!」
「お黙りクソガキ。答えをただ調べるだけなら、小学校の勉強なんて必要ないわ。分からないときは本を開いて自分から情報を取り入れて成否を考察するの。それが知的好奇心を駆り立てるし、本を読む癖がつくわ」
「そんな癖いらねーし!」
「黙りなさいクソ坊主。思考力のない人間は、将来社会で奴隷のようにこき使われるだけよ。生きるために働いているのに、仕事で鬱になって心の病気にかかっちゃうわよ?」
「これそんなに大事だったの!?」
軽く脅しをかけたら渋々ながら辞典を手に取った。
子供は何だかんだ素直でいいな。でも中学生とかになったら、反抗期になって町ですれ違っても無視されるのだろう。
成長よ止まれ。
「あ、友華先生そろそろ時間だよ!」
「あら心ちゃんありがとうね。すっかり忘れていたわ。皆今日はもうご飯よ」
「「「はーい」」」
私は今、自宅で学童のようなものを行っている。
放課後に家庭の事情で家に帰りにくい子供や、親が夜遅くまで仕事で忙しい子供の面倒を見ているのだ。
そのついでに宿題を教えたり、夜ご飯を子供たちに手伝ってもらって作ったりしている。
学童といってもそこまで規模の大きいものではなく、正式に来ているのは五人。飛び入り参加も多いので今日は八人の子供の面倒を見ている。
「今日のご飯は肉じゃが、白米、ほうれん草のおひたし、牛乳よ」
「先生、水にしてもいいですか?」
「駄目よ、ガキはミルク飲んで背を伸ばしなさい。勉強よりも大事な事じゃない」
「先生、情報社会に生きる子供なのでその程度の嘘は見抜けます」
「ふ。男子どもはよく聞きなさい、モテるのはどんな子だと思う?」
私の質問につとむくんが答えた。
「えっと勉強や運動が出来たり、明るい子じゃないのか?」
「それは高校生までよ、結局背の高い男は何をしても絵になるしモテるの。高身長細見と、低身長デブ。女子はどっちと付き合う?」
「それは、高身長です」
「そうよね。いい男ども? 身長百七十センチ以下の男に人権は無いわよ」
「偏見が凄い!」
テキパキと準備をしながら子供たちに冗談を言って話題を提供する。
最初は自分と年の離れた子供に接するのが苦手だったけど、コミュニケーションにも随分慣れたものだ。
そうこうしている間に机に私を除いた全員分の食事が並ぶ。
「はい。それじゃあみんな手は洗ったかしら? ――それでは、いただきます」
「「「いただきます」」」
まるで保育園のような光景だけど、私にとってこれは立派なやり甲斐だった。
子供は好きだし、毎日いろんなことが起きて楽しい。
多分私にとって、人生で二番目に幸せな時間を過ごせている。
――――――――――――――――――
時刻は午後八時。
子供たちも全員帰って、部屋の後片付けも終わった。
鼻歌混じりに台拭きをしながらチラチラと時計に視線を送り続ける。
もうすぐ、一日で一番楽しみな時間が来るから自然と気持ちが高まっているのだ。
遠くで会議があるから今日はいつもより帰りが遅いと言ってたけど、もうすぐ帰宅する筈。
「ただいまー」
玄関先からその声が聞こえた瞬間に、まるで数年会っていなかったかのような勢いで私は駆け出す。
リビングのドアを開けて玄関に向かうと鞄を靴棚において、革靴から足を抜いている人物がいた。上がり框に腰を下ろして私に背を向けているので、その背中に勢いよく抱き着く。
「お帰りなさい! あなた!」
「どわあ! と、友華、急に伸し掛かって来るな……」
優作さんは迷惑そうに目を細めて振り返る。
その反応は不服だったので、頬を膨らませながら拗ねるフリをした。
「何よ、可愛いお嫁さんが抱き着いたのよ? 興奮しないの?」
「今日は仕事で色々問題が起こってな、疲れたんだよ」
「あら、念願の校長になったのに早速屁理屈かしら?」
「そうじゃないけどさ。でも、友華もあんまり走らないでくれ。お前だけの体じゃないんだから」
そう言って優作さんにお腹を優しく擦られる。
このお腹には今はまだ小さい命が宿っているのだ。
「大丈夫よ。今日も子供たちの相手を余裕でこなせるくらいには元気だわ」
「っはは、そうか」
優作さんが立ち上がったので私も靴箱の上にあった鞄を持って、横を歩く。
子供たちとの時間も大切だけれど、私にとって人生で一番幸せを感じるのはこの人の隣にいる時だ。
それまでの疲れなんて一瞬で吹き飛ぶくらい、安心するし心が和む。
「なあ、友華。今日で結婚して五年経つよな」
「ええそうね。ちゃんと覚えてるからケーキを買ってるわ」
リビングのドアに手をかけた所で優作さんが動きを止めた。
薄っすらと笑みを浮かべながら、私に質問を投げかけてくる。
「お前は今、幸せか?」
そんなの考えるまでもない。
「ええ、もちろん。お前はどうかしら? 優作さん」
からかうように私も聞き返してみる。
答えが分かっているからこそ、安心して聞くことが出来た。
優作さんはぐっと前に突き出した私の顔に、一瞬優しく唇を重ね頭の上に手を置いてくれる。
この人は幾つになっても変わらないな。
「ああ、世界一幸せだよ」
無邪気に子供のような笑顔を浮かべて、私の旦那は笑っていた。
私は時間を覆すことは出来なかったけど。
結果として自分の最愛の人と一緒になることが出来た。
幸せな家庭、充実した生活。
現状に文句のつけようなんてない。
でも。
優作さんの隣で幸せに浸っていると、ふとした瞬間に思うことがある。
私がいなくて優作さんが生きていた世界があったように、世界が多くの状態を持っているなら。
どこかの世界では私も優作さんも生きていた時間が存在したんじゃないだろうか。
その世界で私は自分の力に気づくこともなく、ごく普通の高校生活を送っただろう。私にとっての幸せとは、その世界では何になっていたのか。
まあ、今はそんな事気にしても仕方がない。
私は幸福を掴んだ。先輩も、私との生活を本当に大切にしてくれる。
辿れなかった時間の事なんて、どうでもいい。
後悔ばっかりの人生だったけど、私は今死ぬほど幸せな毎日に包まれているのだから。
「それじゃあ優作さん、手を合わせて」
「おう! 今日も美味しそうだな!」
「そりゃまあ、お嫁さんの絶品料理だからね」
「そんじゃ食うか」
「無視しないの。まったくもう……。せーの」
「「いただきます」」
私はこれからも、お腹の子供と優作さんと一緒に幸せを育んでいく。
―――――――――――――――――
「おっはよう、優作!」
学生服の上からでも衝撃が伝わるくらい孝宏に勢いよく叩かれた。
こいつに通学路で会うのは珍しい。
昨日は三者面談で母さんに自分の将来の夢が教師であることを伝えて、納得はされなかったが串木野先生がその場を上手く流してくれた。
でも、母さんとの居心地の悪さは前よりも大きくなったような感じがするんだよなあ。
「おう、孝宏。お前は朝から元気だな」
「お前の元気が無いんだよ。昨日三者面談だったろ。上手くいったのか?」
「まあ、ボチボチって感じだ。納得はされなかったけど、干渉もしてこないみたいな」
俺がそう伝えると何故か孝宏は安堵したようにほっと胸を撫でおろす。
「そうか。よかったな!」
「満面の笑みで言うな。良くは無いだろ、気まずくなったし」
少しだけいつもと雰囲気が違う孝宏は、頷いて心底楽しそうに笑った。
人の不幸話でここまで笑顔になるなんて、こいつも相当なひねくれものだな。
「ま、生きてりゃその内解決するよ」
変な事を言う奴だ。
からかっている訳ではなさそうだし、本気で俺の事を考えての言葉だろうけど。
その言葉には偉く重みが感じれらる。
「何言ってって、お前泣いてないか!?」
「ああ、悪い目にゴミが入ってさ……」
朝から孝宏と不思議な会話をしてしまったが、今日もいつものように学校が始まる。
三年の二学期に入っているので、卒業までもう時間はない。
俺は夢のために残りの時間をどれだけ有効活用出来るのだろうか。
生きるとか死ぬとか、そんな現実的じゃない話は置いといて。
今は唯、目の前の現実に精一杯取り組んでいかないといけないだろう。
俺はいつも通りに、何の変哲もない通学路を歩き出した。
友華編は以上になります!




