七十一話・友華の世界
この話をご覧にいただく前に【三十三話】をお読みいただけますと、内容がより分かるようになっております。
「さてと、それじゃあ行ってくるわね」
夏休みの早朝。
校長にそう言って玄関先で鞄を手に持つ。
何度と繰り返してきた光景だけれど、これも今日で最後だ。
「大丈夫なのか? 先日は肝試しで腰を抜かしたばかりだろう?」
「体は若いから大丈夫よ。一晩も寝ていたら回復するわ。それに、今日ばっかりは何が何でも学校に行かないといけないのだし」
「……最後の挨拶か」
「ええ。優作先輩だけには会っておきたいの。文化祭が終わった辺りから少しずつ私の記憶も消えているみたいだし」
オカ研が出来た経緯は私が校長にお願いして少ない部員数でも設立させてもらったのだけれど、それさえも孝宏先輩以外忘れかけているようだった。
優作先輩と飛鳥先輩がオカ研に入部していない理由すら忘れているのも、親に同意を貰えたらでいいと私が発言してしまったからだろう。
その発言を忘れられたら、当然自分が何で入部していないのかも漠然とする。
「貴様の能力は、他人にバレたら記憶からいなくなるのではなかったのか?」
「ゲームみたいにわかりやすい決まりならよかったのだけれど、私でも把握しきれていない何かがあるみたいね。もう体に触れられただけでも、記憶が飛ぶようになってるわ。優作先輩が余計な事を言おうとした時は、役に立ったけれど」
八十年間毎日のように着続けた制服。
うん。凄いパワーワードだけれど、この服とも今日でお別れだ。
私の時間の旅は今日で最後にするのだから。
「貴様は元の時間への戻り方を知っているのか?」
「質問の多い人ね。知らないわ、取り敢えず先輩を助けるのは諦めてもう一度時間を戻ってみようかしら。何十年かかるか分からないけれど、きっと方法は見つけられると思うわ」
「……そうか。達者でな」
「直ぐにまた会うわよ。一年前のお前と」
「……そうか」
玄関の扉を開ける。
ここに戻ってくることは無い。
私はこれから学生としてでなく、元居た時間に戻るために新たな人生を歩むのだから。
「それじゃ、行ってきます」
「……ああ」
最後に見た校長の顔は少し悲しそうだった。
そう見えたのは、私の思い過ごしだろう。
結局最後までサングラスを外してくれなかった、それも校長らしいけど。
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風が心地いくらいに肌を撫でていく。
こんな日に限って空が澄んでいるから、いつかの光景を思い出させられる。
「よし……」
時刻は午後四時半。
学校の屋上から町を見渡すと、綺麗な夕日が幻想的に差し込んでいるのが見えた。
この場所に来ると、嫌でも一番最初の時間移動を想起してしまう。あの時自分が抱いていた覚悟、情熱、その全てが長い年月を経過して薄れてしまった事に少し落胆した。
「それにしても、さっきは絶対やりすぎたわよね」
思い出しただけで頬が赤くなるし、心臓が壊れたように激しく動く。
ここに来る前に部室に優作先輩を呼び出して昨日の仕返しにタライ落としをお見舞いし、えっと、最後だったから唇も奪ってきた。
「――っ!」
あの時の私はどうかしていた。何であんなに積極的に先輩に迫ったのだろう。
確かに最後だしもうどうでもいいやとは思っていたけど。
話してみると改めて先輩のかっこよさに気づかされて自分を抑えられなくなった。
「こ、この記憶はさっさと先輩から消えてほしいわね……」
屋上のフェンスを越えて三メートル程歩いて淵に立つ。あと一歩で自殺は完了。
一年前に逆戻りだ。
「はあ、校長にはああいったけれど、いざ先輩と話すと決心も揺らぐわね。今更になってこうも未練が強くなるなんて」
普段なら誰かに私が能力者であることを話して時間を戻るのだけれど、今回だけは別だ。自分への戒めのためにもう一つの過去への戻り方である自殺を行う。
優作先輩を救おうと思い続けていた私はここで終わり。
「っと、その前に」
スマホを取り出して操作し耳に当てる、コール音を聞きながら町を眺めていると五コール目で反応があった。
『もしもし友華ちゃん? どうかしたの?』
「よかった繋がって。実は孝宏先輩にお願いがあるの」
電話の相手。孝宏先輩は私がその呼び方をした時点で察してくれたのか、重たい声色になる。
『もう、行くの?』
「ええ、優作先輩の事は諦めるわ。それでね、私がいなくなった後にこの世界の私が入学するじゃない。そっちの方に私が持っているメモ帳を渡してほしいのよ。この能力の詳細が書かれたメモ帳だから、そのくらいはアドバイスしてあげたいのよ」
『それはいいけど……。どうせなら今日一日でアリスちゃんや鈴音ちゃんの救い方とかも詳しく書いておけば?』
「そこまではしないわよ。だって、どうしても優作先輩は救えないのだし。それでも、私は私に希望を持たせたいの」
『相変わらず友華ちゃんはドSだね。そんなに自分を苦しめたいの?』
「ええ。でも確かに苦しかったけど、先輩たちと馬鹿みたいに騒げるのはこんな絶望でも無ければ出来ない体験だったから。後は頼むわ」
『……了解。元気で』
「ええ、お前もね。孝宏先輩」
電話を切る。
これでこの世界には思い残したことは無い。
過去に戻って本当の私がいた世界に帰る方法を探り続けるだけだ。
何十年、何百年かかるか分からないけれど、時間の仕組みを解明して私は自分の世界に戻ってみせる。
優作先輩のいない退屈な、空虚な世界に。
そこに戻って何になる。
なんて考えもよぎるけど、目標が無いと私の心は崩れてしまうから。先輩を救えない以上、目標になるのはそれくらいしかないのだ。
「じゃ、行きますか」
一歩足を踏み出そうとする。
でも――。
「何で」
自分が思っている以上に、私は弱い人間だった。
「何で、こんなに震えているのよ……」
死への恐怖からじゃない。
自分の心を殺す事への抵抗が、あと一歩を踏みとどまらせる。
「今更、自分だけ甘えたこと考えないでよ。私は負けたの、全部を捨てて戦って。もう、限界なの……。どうして?」
足がどうしても動いてくれない。
足だけが他の生物になったように、私の意思を聞かなくなっていた。
その時だ。
屋上に大きな風が吹く。
その風に押されて体勢を崩した私の体は、屋上から離れた。
「――っ!?」
意図しない状況で落下する形になって驚いたけど、これでいい。
これで私は先輩を諦めるから。
これ以上あの人たちが死ぬところを見ないでいいから。
このまま落ちれば――楽になる。
「……嫌」
「友華あああああああああああああああああ!」
落下する私の腕が突如伸びてきた誰かの手によって掴まれた。
あり得ない。
この状況も。
そこにいる人物も。
「何で、お前が……」
「黙れ! なにふざけたことやってるんだよ! さっさと、上がってこい」
そこには、校長がいた。
私の腕を掴んで引き上げようとしている。
「私は、このまま死んで過去に戻るだけよ! 離しなさい!」
「駄目だ! 見守ろうと思ったけど、お前はもう限界だ! だから、その為に俺が来た!」
下を向いて踏ん張っていたから、校長のサングラスが取れる。
初めて、この人の顔を見た。
そして、私はこんな状況だというのに呆然と、露になった校長の顔を注視する。
「ゆ、優作、先輩……?」
髪が無いから定かではないけれどその顔が、私がずっと救いたかった先輩に酷似していたから。