ある男の世界②
時刻は深夜零時。
流石に喫茶店は閉まっている。日本語で閉店と書かれた看板が下げられていた。英語じゃないのかよ、と思ったがスルーしておく。
だから俺は、店の裏口に回った。どうやらそこが家としての玄関になっているそうだ。木製の古臭い横スライド式ドアに手をかけるが、流石に戸締りがされていて家の中にまで運ぶことは出来ないようだ。
体を前かがみにしておぶっている人を落とさないように慎重に右手を動かし、インターホンを押す。
家の中から音は無い。
もう一度。
駄目だ。反応がない。 というかこの姿勢きつい。
ならば。
連打だ。
「うっさいちゅうねん! 何時やと思っとるんや!」
家の中からマスターの声がした。
勢いよくこちらに駆けて来ているのがわかる。
「よし! ここまでは運んだぞ! がんばれ!」
おぶっていた少女を慌てて座れせるように背からおろし、店の入り口から離れる。
近くの電柱の陰に隠れて様子だけ伺えるように玄関を覗き込んだ。
「どらあ! 新聞はいらんでえ! ……は?」
ピンクのパジャマを着たマスターが唖然とする。思考がフリーズしているようにも見えた。人は本当に驚くとああなってしまうのか。
「どうしたの奏、って! アリス!?」
音に驚き後を続いて出てきた幸耀さんも、寝ぼけ眼に眼鏡をかけて視界が回復した瞬間同様の反応を示した。
俺は、アリスの体を玄関前に置き去りにして来たのだ。
これは本人の希望だ。
流石に家まで歩ける体力は無さそうだから運んでくれといったもの。
ついさっきまで存在していた幽霊のアリスはもういない。今この世界にいるのは。
「奏! なんでアリスが!?」
「わ、わからへん! 玄関を開けたらここにいたんや!」
正真正銘。生きているアリスだ。
「お父さん。お母さん」
「あ、ああ。」
マスターが、抱きかかえていたアリスの目が見開くのを見て涙を流す。
幸耀さんは夢でも見ているのかのように一度目をこすって、それからアリスに声をかけた。優しく、笑いながら。
「おはよう、アリス」
「うん、長い間、ごめんなさい」
「何を謝っとるねん! このアホ!」
マスターが泣きながらさらに強くアリスを抱きしめた。乱暴に力を込めて。
アリスは驚いたように目を見開く。
「お母さん? 怒ってる、の?」
「知らんわアホ!」
もう涙で顔がぐちゃぐちゃのマスター。幸耀さんがその二人を包むように大きな腕で抱擁する。
やっぱりそうだ。
唯のアリスの誤解。怒られないから大切にされていない、距離を置かれているなんて、そんな訳がない。
本当に心の底から思いやってくれていたのだ。
「本当によく頑張ったね。アリス」
「うん、うん。ごめんなさい」
「泣きたいのはこっちや! わーん!」
マスターの声、そして不器用で誰よりも優しい少女の涙が、夜の町に流れた。
何故アリスやその家族がここまで苦しまないといけなかったんだろう。理由はわからない。
だって、アリスの悩みは一般的には悩みにならない。幸福自慢だと捉える人もいるかもしれない。
それでも唯一事実として、アリスはその誰からも理解されない苦痛に心を潰されていた。
雨粒が石を砕くように、あの家族の互いを思いやる気持ちが少しずつすれ違い、アリスの心に亀裂を入れていたのかもしれない。どんなものも摂取しすぎると毒になる。
それは、幸福なんていう概念も例外ではないんだろう。
これ以上考えると哲学的な考えに陥りそうなので、この辺で思考は放棄する。こんなことは授業に真面目に出ない不良でなく、頭のいい偉い学者が何通りでも答えを出しているはずだ。
まあ、俺から言える確かなことは。
この世界は、人が苦しむように出来ている。それだけだ。
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誰もいない夜の道を一人で歩く。
長い、長い一日の終わり。俺は自分の家に到着する。
家族の暖かさ。それをこれまでの人生で一番実感させられた一日。
そういえば喫茶店に鞄を置きっぱなしだ。明日取りに行く時にアリスのその後についてマスターに聞いてみよう。もしかしたら飛鳥が持ち帰ってくれてるかもしれないが、そうだったら今度何か礼をしないとな。
入り口を開ける。丁度母さんが出ていくところだった。胸元が見えそうなワンピースに、上からジャケットを着ている。玄関で片手に持てるサイズのブランド物のバッグを持った状態と鉢合わせた。
仕事にいくのかもしれない。何の仕事をしているのかは知らないが、暮らしていれば薄々と伝わってくる部分はある。
ああ、最悪だ。最後の最後にこの人に会うのか。
「……こんばんわ」
「こんばんわ」
挨拶を交わす。それは親子としてのものではない。同じマンションの住人にするようなそっけないもの。
俺は部屋に入ってベッドに潜り込む。どうしょうもなくどす黒い感情がマグマのように涌き出て止まらなかった。