少し不思議な思い出話⑩
「なあ、今朝の話聞いたか?」
「孝宏先輩のやつだろ? 聞いた聞いた」
「最悪だよな」
次の日、私はいつものように学校にいた。
昨夜は不良に犯されそうになり、正直本調子ではないけれど約束があったから。
また明日。
先輩と別れ際に交わした、その言葉が私の胸に深く刻まれていた。
今日も当たり前のような日々がやってきて、昨夜のことは悪い夢のようだったと笑い話にする。それが私が望んだ世界の形だった。
でも。世界はひたすらに私に冷たく、現実を突き立ててくる。
「えー、今朝の話だが、本校の学生が他校の生徒と喧嘩し大怪我をさせたのは皆知ってるな? 誰がしたとかの犯人捜しはやめるように。以上だ」
帰りのホームルームで先生が噂を広めないように注意するが逆効果だ。
まるで原稿を読んでいるように無気力にそう言った初老の教師は、我関せずといった感じで教室の外に出ていく。生徒からなにか質問されることが面倒だったのだろう。
後は自然な流れで、直前に先生が口にした噂について教室中から話が持ち上がる。
その中でも一番多いものが。
「孝宏先輩がやったんじゃないか?」
どこからが発端かは不明だが、既に殆どの生徒はそう思っていた。
「ねえ、なっちゃん。孝宏先輩、本当にそんなことしたの?」
今日はその話題に触れていなかったみっちゃんが、私に聞いてくる。
「……してないよ。する筈がないじゃん」
「そうだよね! びっくりしたあ」
安心したように胸を撫で下ろしていた。
その姿に、私はただ罪悪感を募らせていく。
少しだけ前のことを思い返した。
それは今朝、学校に登校したとき郷田先輩に呼び出された時のことだ。
「なあ、昨日。孝宏に何があったか知ってるか?」
「……いえ」
人目の届かない体育倉庫の裏で、私は反射的に嘘をついた。
郷田先輩は詳細こそ知らないけれど、大方何があったのか予想はついているようで私の反応を見て目を細める。
「孝宏な、いま入院してるよ」
「え?」
先輩の口から発せられた、最悪の現実に思考が停止する。
「昨日他校の不良グループとやりあったらしくてな。相手も全員怪我したが、孝宏はかなりの深傷でしばらくは学校に来れないそうだ」
「あ、や、いや…」
郷田先輩がゆっくりと、私に近づいてくる。
空手部の絶対エース、孝宏先輩。
そんな人を三年の最後の試合の前に、私の行動のせいで怪我させてしまった。いまの時期に入院するのなら、試合に出るなんてまず無理だろう。
それがわかるから、私は震えた。
薄々何かに勘づいている郷田先輩に、私の責任だと紛糾されれば立ち直れなくなるから。孝宏先輩と二度と顔を合わせられなくなるから。
「枕崎」
「は、はい」
先輩に肩を掴まれる。
そして。
「頼む! 今日はあいつの見舞いに行ってくれないか!」
「へ?」
そんな予想もしていなかった提案をされた。
「何でそうなるんですか……。私が何か関わってること、気付いてますよね!?」
「ん? ああ、そりゃまあ」
「じゃあ何で……」
「お前がどんだけ関わってようが、あいつは下らない理由でこんなことしないしな。何かやむを得ない事があったんだろ。だから、この件で一番あいつと話せそうな枕崎に見舞いに行ってほしいんだ。病院の場所は教えるから!」
手を合わせてお願いされる。
その余りにも純粋な態度に、私は本当に少しだけ救われた気がした。
空手部も今回の件で大きな被害を受けているのに、責めるどころかお願いされるなんて。この人の人徳を私は大きく見くびっていたようだ。
「ふ、ふふ」
「な、何だ? なにかおかしいこと言ってたか!?」
「い、いえ! すみません、その、あはは!」
昨夜から続いていた緊張が緩んで、私は自然と自分でもおかしいくらい笑っていた。
今日の放課後、孝宏先輩に会いに行こう。
沈んでいた気持ちが少しだけ浮かび上がり、自分が何をしたいのか何をするべきなのか決めることが出来た。
「ありがとうございます、郷田先輩」
「……おう!」
最後にもう一度お礼を言う。
郷田先輩は一瞬間があったけど、いつも通りの快活な笑顔で返答してくれた。