ああ、世界は美しい④
腹筋を痛めたのか、笑い終わったら息を荒くしたままお腹を押さえる。
「はあ、はあ。本当に、お前のそういうところが……」
「そんな笑うなよ。純粋に気になったんだから」
「ええ、ごめんなさい。ふう。それで、さっき言ったあらゆる物事は不安定な基盤の上に成立しているっていうことの意味は分かったかしら?」
目尻から流れる涙を指で拭いながら尋ねてくる。
「ああ。なんとなく」
「そう。これが最後の質問よ。我思う、故に我あり。この言葉の意味は知っていて?」
「お前なあ……。流石に俺でも聞いたことくらいあるよ。考えているってことは、自分はこの世界にいるんだっていうことだろ」
「本来はもっと壮大な意味よ。今言ったようにあらゆる分野において、人間が考えている以上その根源には不確定な要素、黙認している部分を残しているの。でも、デカルトの言ったこの言葉はそんな世界に絶対的な何かを見出すための考え方の一つよ。私たちの認識がすべて虚構に満ちていても、証拠も何もないことだったとしても、それについて真偽を疑っている自分がいることは唯一絶対の真であるということよ。この世界が泡のように脆くても、その中で何かを疑っている、思考している誰かがいるのだけは絶対の事実。そういう考えだと私は思っているわ」
また話が難しい方に行ってしまって、一瞬理解が遅れたが何とか友華の言わんとしていることを自分なりに受け止める。
デカルトな。あれだよ。あの有名な。
「えっと……、つまり、えっと、うん。わかった」
受け止められなかった。
話が長すぎて元々勉強が嫌いな俺の頭が無意識にシャットダウンしてしまった。
その反応に対して友華は残念がった様子もなく、頬杖をつく。
「真面目な話、お前はこれからの人生で多くの困難にぶつかると思うわ。それはもう、一人の人間には身が余るほどのね。そんな時に、お前は絶望の淵に落とされることもあるでしょう。――でも、自分を卑下することだけは駄目よ。他人が何と言おうが、お前がおかしいと思ったら徹底的に疑い満足するまでしつこく挑戦するの。諦めずに、お前がお前を信じ続ければ、もしかしたら何かを成し遂げることが出来るかもしれないわね」
にっこりと。
友華は優しい顔で微笑んだ。
先輩としての威厳を放棄して、タメ語で喋りかけてくることを好む上級生。
才色兼備にして、その発想はいつも常人の斜め上を行く。
そんな頼もしすぎる一つ上の先輩は、どこか哀愁を感じさせる表情を浮かべていたのだ。
何故そんな顔をしていたのか、理由はわからない。
「それが。伝えたかったことなのか」
「ええ。自分で自分を褒める方がきっと人生は幸福になるもの」
そう言って友華は立ち上がる。
部室の入り口にいた俺にゆっくりと近づいてきた。
「幸せか……。何かお前とこんな話するの珍しいから、少し歯がゆい気分になるな」
「ふふ。私を忘れないように、引退前に真面目な話をしておきたかったのよ」
友華は手を伸ばせば触れあえそうなほどの距離まで近づいてきて、その足を止める。
自然と視線は重なり、透き通るような瞳に写っている俺の姿がぼんやりと確認できた。
こいつも真面目な話をする時があるのか、なんて事を考えてしまったけどそれを言ったら怒りそうなのでぐっと胸の奥に留めておく。
というか、朝から頭を使ったから、どっと疲れた。
いつものように、軽口でも叩いて帰ることにするか。
「忘れないようにって、お前みたいな奴引退したくらいで忘れるはずないだろ」
「……そう。ふふ、ありがとう」
からかうつもりの言葉で、友華は泣きそうな程目を潤ませてしまった。
わけが分からなかったが反射的に、慌てて弁明に入る。
「わ、悪い! そういう空気じゃなかったか!?」
「いいわよ。そんなこと気にしていないわ。――ん」
唐突に。
それまで当たり前のように流れていた時間が嘘のように。
俺の唇に柔らかい何かが当たった。
友華の瞳は閉じて、俺の顔と友華の間の距離は先ほどよりも近づいていた。




