054 もう気づいてます遊薙さん
藍奈は結局、20時ちょうどに帰宅した。
母さんと父さんもそろそろ帰ってきそうなので、ややこしいことになる前に、僕は遊薙さんを送っていくことにした。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「ちょっとじゃなくてもいいですよ」
「ちょっとだよ」
藍奈とまるで意味のないやりとりをしてから、僕は靴を履き替えて家を出た。
玄関の前で待っていた遊薙さんが、笑顔でこちらを向く。
夜と遊薙さん。
この組み合わせは、相変わらずものすごく絵になっていた。
「おまたせ」
「うん。行こっ」
遊薙さんは、当たり前のように僕に右手を差し出した。
「なに」。
いつもの僕なら、きっとそう言っていたはずだ。
けれど今の僕は、何も言わずに彼女の手を取ってしまう。
遊薙さんは、本当に幸せそうに、こぼれるように笑った。
二人の間に、一つの共通認識が生まれつつあるのが、僕にはわかってしまった。
「今日もありがと、桜庭くん。楽しかった」
「ううん、こちらこそ。夕飯まで作ってもらって、悪いね」
「それこそ、気にしないで。ちゃんと藍奈ちゃんや茜さんの分も作ってあるから、食べてもらってね」
「ありがとう、本当に」
不思議な気分だった。
なんだか、心の中が満たされていくような気がする。
けれどそれと同時に、自分のことがどんどん嫌いになっていくような気もしていて。
結局僕は、何も決め切れないまま、ただ中途半端に彼女を受け入れてしまっているのだ。
そして拒絶することもできないくらい、彼女に惹かれている。
それを自覚しながら、遊薙さんに白状できずにいる。
本当に、ダメなやつだ。
ダメダメで、情けないやつだ、僕は。
「桜庭くん?」
「なに」
「私、またデート行きたいなぁ。今度は映画館がいい」
「……ダメだよ、デートは」
「えーぇ」
断られたのに、遊薙さんは嬉しそうだった。
彼女の気持ちが、手に取るようにわかる。
でもきっと、僕の気持ちだって、彼女には伝わってしまっているのだろう。
手を繋いだまま、僕らは並んで歩き続けた。
遊薙さんが、時折甘えるように僕の手を引っ張って、自分の太ももにぶつける。
それからまた二人の間に手が戻って、握る力を強めたり弱めたりしながら、ただ揺れている。
僕は、どうすればいいんだろう。
恋愛は苦手だ。
それに、嫌いだ。
だけど僕は、こうして彼女を、好きになってしまった。
彼女も僕のことが好きだ。
僕と、一緒にいたいと言ってくれる。
でも、きっと僕らは、一緒にいても幸せになれない。
ずっと、そう思っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
僕の思い込みなんじゃないだろうか。
僕は、そうやって断言ができるほど、恋愛を知っているのだろうか。
一度のトラウマや思い込みで、拒絶しなくてもいいんじゃないだろうか。
もう一回くらい、試してみてもいいんじゃないだろうか。
遊薙さんなら、僕の気持ちもわかってくれるんじゃないだろうか。
もうあんなことには、ならないんじゃないだろうか。
そう思う。
まだ信じ切ることはできないけれど、半分くらいなら、そう思える。
そしてそう思えるということが、僕にとっては驚くほどの変化だった。
「……ふぅ」
でも、今日のところはダメだ。
ゆっくりでいい。
何日か時間をかけて、ちゃんと向き合って行こう。
受け入れて行こう。
それでもやっぱり、試してみようと思えたら。
その時こそは、きっと。