第二章 佐藤二郎という男
一週間前に佐藤二郎はなぜか食べ物の匂いがする女の子三人と、次々と遭遇した。
確かに不思議な出来事であったが、万事穏やかに時を過ごすことを、信条とまでは言わぬまでも目標としている二郎にとっては、追求する程のこともないと判断する。
たまたま前日に食べていた、とか何とか理屈もくっつけることもできた。
もちろん、調べるためのツテがないわけではない。
校舎を一階昇ってコンソメの匂いをする後輩を捜せばいい。そして「さえという名前の妹はいるか?」と聞けば済むことだ。
多分、それで当たりだろう。あの眼鏡をかけた美人――美人だったということに後から気付いたのだが――はきっと頷くに違いない。
けれど、そこから先をどうするかというと、何とも思いつかない。
「君たちの匂いはいったいどういうわけだ?」
と聞けばいいことだ――とは二郎は考えない。さえという名の女の子の態度から見て、間違いなくそれは秘密にしておくべき事なのだ。
そこにズカズカと踏み込むつもりはない。
――なぜなら二郎にもまた、絶対に打ち明けられぬ秘密があるのだから。
向こうがそれを秘密にしているのなら、恐らく自分と志は同じなのだろう。穏やかに暮らしたい、という。で、あるならばわざわざ踏み荒らすような真似はしたくない。
そして今日の授業も無事に終わった。頭に一つも入らなかったのはいつものこと。取りあえずは平穏に終えることができた。それだけを喜ぼう。まもなくやってくる中間考査の事はその時に考えれば済む。
いざ帰ろうか、と腰を上げた時に自分を呼ぶ声が聞こえた。
「佐藤!」
自分の日頃の目標が正しいことを証明してくれるかのように、最初は遠巻きに見ていたクラスメートも、今では躊躇無く自分の名前を呼び捨ててくれる。
――この学校では上手く抑えていければいいのだが。
「なんや~?」
わざと意識して、隙のある声を出す。
呼びかけてきた声は、どうやら教室の前の方の扉付近にいるらしい。首を巡らせて相手を確認する。確か堂本という名だったか。短く髪を刈り込んだ筋肉質の男で、クラスの中では一番に自分に話しかけてきた相手だ。
つまり、大した跳ねっ返りであるということである。
「お客さんだぞ。知り合いなのか?」
その声に険がある。
「誰や?」
と、今度は本当に訝しんで扉の向こうに目を遣ると、知った顔があった。恐ろしく冴え渡った美貌の持ち主、さえが言うところの「よしみお姉ちゃん」で間違いないだろう。
「あ~、知り合いっちゅうか、本当のところ言うと名前も知らん。でも顔は知ってる」
曖昧に答えを返しながら二郎は扉へと近付いていった。それに連れて徐々に相手の姿が見えてくる。
そこには凛と立つ、一人の女生徒。空気の中で無秩序に漂っているはずの分子の運動までが整然と行進しているような、近寄りがたい空気。
「――先日は失礼しました、佐藤先輩」
そんな空気をまとったまま、女生徒は深々と頭を下げる。そして身を起こすと、真っ直ぐに二郎を見つめて、
「自己紹介が遅れました。私の名は禮餐善水といいます。もっとも“よしみ”の名だけは、妹からお聞き及びと思いますが」
慇懃無礼とでも言うべき言葉遣い。しかし言い終えた瞬間に、かすかに笑みを浮かべるその様子は、まさに花が咲いたよう。その清冽さに心を奪われてしまいそうになる。
だが二郎はそんな善水の笑みに気圧されることなく、逆にどこか愉快そうな笑みを浮かべていた。
それもそのはずで、二郎にはその時、善水の胸中が“視えて”いたのだ。これが二郎の秘密の一つ。普段は視ようとしなければ、ここまでくっきりと視えることはまずないのだが。
なんと、この澄ました美人の後輩は、あろうことか自分に×××された上に、×××までされる姿を想像していたのだ。それはもう、妄想と呼んでも差し支えない内容だった。
どんな理由でこんな事を妄想しているのかは知らないが、自分がそんな行為に及ぶなど、到底無理な話なのに。恐らく自分は女性と肌を接することなく、一人で死んでいくしか仕方ないのだろうと、世の中にそういう行為があると知ってから後、二郎は覚悟を決めている。
そのために女性と接する時に、一定の距離を置くことにしている。そのために逆にもてていた時期もあるが……
女性とは不思議な生き物。そして世の中は皮肉に出来ている。
「何か……おかしかったですか?」
二郎の思考を打ち破る、善水の鋭い声。笑ったことで気を悪くさせてしまったようだ。
「……いや、今更自己紹介ッちゅうのがおかしくてな。確かに君がさえちゃんのお姉さんらしいな。俺の方の自己紹介はええやろ」
平穏さを保つために適当にごまかす。横に立ち尽くしたままの堂本の眼もある。
「んで、今日は何の用や? 今度は付き添いっちゅうわけでもないみたいやし」
尚も流れ込んでくる、善水の思考。しかし、それはもう“視える”というほどはっきりと意識できるものではなかった。ただ、怒り――それだけがはっきりと伝わってくる。
さて、さえちゃんとのことを誤解していなければいいのだが。
「実は、今日私の家でパーティ……というほど大した事をするつもりもないのですが、とにかく夕食をご一緒いただけないかと思いまして」
横からも怒りの感情がわき上がってきた。なるほど、こんな美人なら学校の中でも有名人なのかも知れない。その有名な美人が自分のような転校間もない素行の悪い者を夕食に――しかも自宅に――誘ったとなれば、理不尽さを感じても無理はないだろう。
どうしたものか。行けば行ったでしばらくは平穏さが遠のくに違いない。断れば断ったで、結果は同じに思える。
「さえに優しくしていただいたそうで、そのお礼も兼ねて。あの子が楽しみにしています。急な申し出ですが……何かご予定がおありでしたか?」
もちろんそんなものはない。物理的な意味で不都合はないわけだ。
それに事態がこうなってしまった以上、結果が同じになるなら……人の手が作ったご飯に心引かれるし、さえちゃんを悲しませるのも本意ではない。
「いや、予定はない。したら、夕方頃にそちらに邪魔させてもろうたらええんかな?」
「いえ、このままご同行していただけますでしょうか」
なるほど。一緒に肩を並べて下校とは、とことんまで追いつめるつもるらしい。
「佐藤、さえ……ちゃんというのは禮餐さんの妹さんか」
その時、そのまま側で二人のやりとりを見ていた堂本が二郎に話しかけてきた。
「あ? ああ、そうや。小学生の女の子や。姉ちゃんに負けず劣らずの美人やった」
言ってしまってから、二郎は失敗したことに気付いた。もはや心を視るまでもなく、怒気――いや、殺気か――が増大したのを感じる。
だが堂本は善水の殺気に気付かずに、こんな言葉を口にした。
「“将を射んと欲すればまず馬を射よ”か、うまくやったな」
間違いなく、これは軽口なのだろう。
わかっている。
自分に対する多少ではない羨望と嫉妬、あるいはこれを機会に、この美人の後輩とせめて挨拶を交わす間柄になりたいという下心、総じて言うならそんな他愛のない一欠片の言葉だ。
悪意などはない。それも視えている――だから騒ぐな俺の心。
突如、二郎は右手で音が出るほどに自分の額を叩く。
そのあまりの音の激しさに、堂本が一歩後ずさった。
「お、おい、佐藤……」
「――そりゃあ失礼やぞ、堂本。さえちゃんはさえちゃんやないか」
唇の両端を意識して横に引っ張りつつ、二郎は一息にそう言った。これで笑ったように見えるだろうか? 軽口に聞こえただろうか?
――穏やかに、穏やかに。
「お、おう。そりゃあそうだ……俺が悪かった」
怯えた様子で、堂本が言い繕う。
「すまんなぁ、俺も細かいこと言ってしもうて」
二郎は頭をかきつつ逆に堂本に頭を下げて、その身を起こしながら善水の方へと向き直る。
「……ほしたら行こか。案内頼むで」
「は、はい」
そこには、何だか棒でも飲み込んだような表情を浮かべた善水がいた。