“マップタツ”
「それ……さえのお姉ちゃんのことですか?」
「え……えっと、すまんけど、その二人の名前は知らんのや」
さえの美貌に圧倒されながらも、その突然の問いかけに二郎は正直に答えた。一人目は廊下ですれ違った時に名前を聞いたが、その時にはもう近くにいなくて聞きそびれた。そして今日は、友だちの付き添いだったらしいけれど、お互いに自己紹介するようなこともなかった。
二人目の女の子は、今日初めて会ったばかりで、名前を知るなんてとても無理な状況だった。
「よしみお姉ちゃんは、東洞中高校に通っているの」
しかし二郎の言葉にも、さえは諦める様子はない。
「お兄ちゃんもそうなの?」
「あ……ああ」
「よしみお姉ちゃんは眼鏡をかけていて、髪をここで結わえていて……」
さえは熱心にさらに説明を続ける。そこまで説明されると、二郎も頷かざるを得ない。
一人目のあの娘が、このさえという女の子の姉であるかもしれないということを。もちろん確信は持てないが、さえの言葉を否定するほどでもない。
「みたまお姉ちゃんは、髪はこのくらいであんまり長くなくて……」
続けて二人目の説明をするさえ。しかしそこで説明が止まってしまった。
一応髪の長さは、つい先程会った女の子と一致するみたいが、それぐらいの髪の長さの女の子はそれこそごまんといる。ほとんど反射的に二郎は、さえに尋ねてしまう。
「他になんか特徴はないんか?」
その問いかけに、さえは少し返事をするのを躊躇った後、小さな声でこう答えた。
「…………大きいの」
「何がや?」
聞き取れなかった、さえの言葉。すかさず聞き返す二郎。
「……おっぱいが大きいの!」
「は?」
放たれたさえの言葉。虚を突かれる二郎。けれど、二郎の頭の中ではほとんど自動的に先程の出来事が再生されていた。ぶつかってきた二人目の女の子。その身体の感触。
「……あ、当たりかもしれんな」
「……お兄ちゃんのエッチ」
「そりゃ酷いで、さえちゃん。元はそっちが言い出したことやんか」
慌てる二郎を前にして、さえは初めて笑顔を見せた。
「やっぱりお姉ちゃん達に会ったんだ」
「いや、それはどうかわからんけど……そういう可能性もあるみたいやな……」
「いい匂いがしたんでしょ。同じ匂いだったの?」
「いや……その、よしみお姉ちゃんいうのが、なんやコンソメの匂いやな。で、みたまお姉ちゃんいうのが、肉の焼けるような感じの匂い。で、さえちゃんが甘い匂いやな」
それを聞いて、さえは再び黙り込んだ。手の中の缶ジュースをジッと見つめている。また泣き出すのかと二郎は身構えたが、やがてさえは上目遣いでジッと二郎のことを見つめる。
「な、なんや?」
「……それじゃ、お兄ちゃんが“かみがみのてき”なの?」
何を言われたのか、何を言っているのかも、少しも理解できなかった。
二郎は聞き返すことも出来ずに、呆然とさえを見つめ続ける。
すると、さえがしまったとでも言うように、ジュースの缶を取り落として、両の手で自分の口を塞ぐ。
それを見て、二郎はどういう事情なのかを大体察した。なにやら話してはいけないと言われていたことを話してしまったらしい。
それならそれで、この話題は打ち切ってしまおう、と二郎は考えた。正直、何が何だかさっぱりわからない。それよりは原点に立ち戻ろう。
「わかった。そのことはもう聞かん。それよりもなんで泣き出したんか、教えてくれんか? このままやったら、なんや俺のせいみたいで気になるんやけど」
「あ、それは……」
再び泣き出しそうになるさえだったが、グッと堪えて、目の前の人相は悪いけれど親切な男のために懸命に説明をしようとする。
「……今日、学校で嫌なことがあって」
うんうん、と二郎は無言で頷いた。
「それで、さえは……さえは……」
「その嫌なことをいきなり思い出したんか?」
二郎の言葉に、さえはブンブンと首を横に振った。
「嫌なことがあると、さえは思ってしまうことがあるの。お兄ちゃんとすれ違った時にも、さえはそのことを思っていたの」
「ああ、それでその時に俺が顔をしかめてもうたから……」
さえはコクリと頷いた。それを見て、二郎は頭をかいた。
「そりゃあ、まぁ、さっきも説明したけど、つまり甘い匂いがしたからで……俺にその“思っていること”がばれたと思うたんか」
再び頷くさえ。二郎はそんなさえの頭の上にポンと手を置く。撫でることはしない。ただ、置いただけ。そして静かな声で、罪を告白するようにこう告げた。
「……俺にもあるんや。嫌なことをがあると考えることがな。いや考えるだけやのうて、ほんまにやってしまうこともある。ちょっと前もやってもうて、そいで転校してもうたんや」
その言葉に顔を上げるさえ。その視線を真っ正面から受け止める二郎。
「やけど、さえちゃんよりは長う生きとるから、そういう時どうすればいいのかは、少しはわかっとる。聞きたいか?」
さえは再び頷く。
「よっしゃ。ええか、嫌なこと考えそうになったら反対のことを考えるんや。楽しいこと、嬉しかったこと、そういう事を思いだすんや」
「そ、そんな事言っても……」
「俺が会った二人がそうかどうかはわからへんけど、さえちゃんには姉ちゃんが二人いる。その二人のことは好きじゃないんか?」
さえはその言葉にブンブンと首を横に振った。
「なら大丈夫やろ。姉ちゃん達との生活の中に、楽しいこと嬉しいこときっとあるはずや」
その言葉にさえは、自分の姉達のことを思い出す。厳しいがいつも自分のことを一番に考えてくれる善水。明るく朗らかに、いつも笑顔を絶やさない命珠。
そして、いつかは運命を共にする姉妹。
「……楽しい……とか、嬉しいのかはよくわからないけど、お姉ちゃん達のことを考えれば……嫌な気持ちは……」
何かを――“マップタツ”にしたいという気持ちは和らいでいく。
「……そりゃあよかった。じゃあ、もう家まで帰れるな」
さえの表情が緩んだのを確認したのだろう。二郎は立ち上がり、さえに背を向けて公園から外に出ようとする。その二郎の学生服の袖を、さえがギュッと掴む。
「お、お兄ちゃんと話したことを思い……」
「な、なんや?」
突然の事につんのめった二郎が、それでも優しい声で応じる。
「……お兄ちゃんとお話ししたことを思い出して、それで……我慢してもいい?」
さえが顔を真っ赤にしてそう告げると、二郎は再びさえの前にしゃがみ込んだ。
「……嬉しい事言うてくれるなぁ。ほなら、これからは俺もこうやって、さえちゃんと話したことを思い出したて嫌な気分を追い払うことにするわ」
二郎は、凶悪な面相に精一杯の微笑みを浮かべて再びさえの頭の上に手を置いた。
それを見て、さえは元々真っ赤にになっていた顔をさらに朱に染める。
さえはその時、自分の中に知らない感情が湧き上がるのを感じ、そしてその感情さえあれば、これから先も嫌な思いを消すことが出来ると。
きっと姉達のこと思い出すより、もっと強く消すことが出来ると。
――そう確信した。