“さえ”の厄日
禮餐家の末娘は、二人の姉からさえと呼ばれている。いや、すぐ上の姉は“さえ坊”と呼ぶが、とにかく“さえ”である。
さえは今、小学校からの帰り道をとぼとぼと一人で歩いていた。ずり落ちていきそうなランドセルのベルトを両手の親指でたくし上げながら。
一緒に帰ってくれる級友は居ない。皆、先に帰ってしまった。さえは日直の仕事に加えて居残りで算数の問題を解いていたからだ。さえは簡単に言うと、お勉強があまりできない。特に算数がよろしくない。未だに繰り上げ算がいまいち理解できていなかった。
そんなこんなで、一時間ほど掛かって問題を解いて、さらに先生のお情けを貰って何とか校門から出ることが出来た。
さえが通う小学校は、姉二人が通う学校からは随分と離れている。二つの学校の間の散歩道を抜けて、さらに幹線道路を乗り越える。
そして商業地区を脇に見ながら坂道を登って、その途中にある中路小学校がさえの通う学校だ。団地に対応するために建てられた学校で、大きいこの小学校の中では、さえもまた多くの児童達の中に埋もれてしまう。
しかし、それでもクラスという小さな単位にさえを放り込んでしまえば、結果は自ずから明らかだ。飛び抜けたさえの美貌は、同性異性を問わず、さえを遠巻きに囲ませてしまう。
さえはいつも一人でいる。それがさえの普通であるのだ。
ただ今日は少しばかり変化があった。
居残りしていたさえに、クラスメートの一人、山崎一哉が話しかけてきたのだ。
なんだろう、と思ってシャープペンシルの手を止めて算数のプリントからさえが顔を上げると、そこにはニヤニヤ笑いを浮かべる一哉の姿があった。
「……なに?」
ほとんど話をしたことがない相手だ。さえは警戒しながら尋ねてみる。一哉はボールを小脇に抱えていて、どうやらグラウンドで遊んでいる途中で、何かの用事があって教室に戻ってきたらしい。
「また、居残りさせられてるのか、れいさん」
間違っても小学生は教えて貰えない漢字二つで出来ているさえの名字は、クラスメートに呼ばれる時は、どうやっても平仮名だ。もちろん自分でも漢字で書けないさえに文句はない。
とりあえず挑発的な口調からロクな用件でないことはすぐにわかったので、無視することにした。
「おまえ、そんなんで大丈夫なのか?」
しかし一哉は構わずに、再び話しかけてくる。さえはめんどくさそうに応じた。
「だから、なに?」
「そんなんでおまえ、お姉ちゃん達と同じ学校に行けるのかよ」
それは例えば、さえがもう少し年齢を重ねていれば鼻で笑ってしまう類の、小学生のような――実際小学生なのだが――稚拙なアプローチ方法だった。
しかし、今のさえは小学生。一哉と同じ目線になって真っ正面から言い返してしまった。
「うるさい。あっちへ行け」
半ば涙目になって、それでも眦を決して、一哉を睨みつけるさえ。こうなっては一哉も自分の失敗を悟らざるを得ない。口をへの字に結んで踵を返すと、脱兎のごとく教室から逃げ出した。
事件としてはそれで終わり。さえにとっては、少しも目新しいことではなかった。
けれど、さえの心には一哉の言葉が植え込まれてしまった。
――姉と同じ学校に行けない。
学歴社会のこの日本において、年齢が二桁になる前から先が見えてしまった自分の学力に改めてとどめを刺された思いだ。
一哉の言葉が、頭の中で何度も繰り返されて、帰り道を進む足も重い。
そうやってさえが視線を落として歩いていると、その視界の端っこに、傾き始めた太陽が作る長い影が入ってきた。
さえは顔を上げる。するとそこには学生服を着た男の人。一番上の姉と同じぐらいの年齢だろうか。あちらこちらと爆発したようなとんでもない髪型をしている。それに、何だかとても苦しそうだ。肩で息をしている。
さえはホッと胸をなで下ろした。大人の男の人は、自分のことをじっと見つめてくることがあるから、それに比べれば、自分に関心がないようにみえる人の方がずっと安心できる。
このまま行くとすれ違うことになるけれど、逃げ出す必要もないみたいだ。
さえと、学生服の男はもうすぐすれ違う。お互いがお互いに感心がない。そのまま視線を合わせることもなく、運命が交錯することもない。
それで済むはずだったこの邂逅に一つの変化が加わる。さえと学生服の男の距離があと三歩といった距離まで近付いた時、男がいきなり立ち止まったのだ。
そして、何を気にしてのことか元々のしかめっ面をますます苦しそうに歪めた。
――まるで、さえの“何か”に気付いてしまったかのように。
その瞬間に、何かがさえの中で弾けた。そして思わず立ち尽くすさえの横を、学生服の男が首を傾げて、通り過ぎる。
時限爆弾のカウントダウン開始。そしてきっかり三秒後――
「……うわぁぁぁぁぁぁぁん!」
さえはどうにもたまらなくなって、大声を上げて泣き出してしまった。
「な、なんや!?」
通り過ぎたばかりの学生服の男は、突然に背後で炸裂した泣き声に飛び上がらんばかりに驚いた。そして、先程すれ違ったばかりの女の子が泣き出しているのを見つけると、今度は左右に首を振って、泣き出した原因を見つけようとする。
ところが、そんな都合の良いものは見つかるはずもない。結局、彷徨った視線は自分の元へと帰ってくる。原因は自分、という認めたくない結論に。
「ちょ、ちょっと待ちぃな、自分。俺か? 俺が悪いんか?」
哀願にも似た、学生服の男の声だったが、
「うわーーーーーーーん!」
さえは一向に泣きやまない。
学生服の男は、このままでは体裁が悪すぎると思ったのか、さえをなだめすかして何とか近くの公園まで連れて行くことにした。なぜかさえは、それに素直に従った。ぐずぐずと泣き声を漏らしたままであったが。
さえには少し引き返すことになり、学制服の男にとっては少し進むことになったが、寄り道には変わりがない。二人がやってきたのは、通学路から少し離れたところにある、児童公園。
縦長の敷地の中に、すべり台、ブランコ、シーソー、ジャングルジム、砂場と一通りの遊具は揃っているが、なぜか子供達の姿はない。鴉だけが公園の中央辺りで、三羽ほど戯れている。
時間帯が悪いのか、ゲームに夢中になっているのか。理由はともかくとして、それは学制服の男にとっては幸いだった。変態扱いされる危険性は随分と減ったからだ。
取りあえず、さえをブランコに座らせると、自販機に向かう。
「少しは落ち着いたか? ジュースはようわからんかったけど、これやったら無難やろ」
といって差し出されたのは、オレンジジュース。炭酸飲料が苦手なさえにとっては有り難かった。素直に受け取る。プルトップはもう開けられてあった。
「先に言うておくわ、俺は佐藤二郎言うねん。身元ははっきりしとる。ちょっと前に東洞中高校に転校してきてん」
そのおかしな自己紹介に、さえは視線を上げて、改めて学制服の男――佐藤二郎を見つめた。相変わらず目つきは苦しみに満ちているが、一所懸命笑おうとしている。
「さえは……れいさんさえ……です」
「さよか、さえちゃんか」
と二郎は答えたものの、そこから先が続かない。さえはそう言ったきり黙り込んでしまうし、二郎の方も小学生の女の子相手に話題を提供できるほど器用な男でもない。
結果として、二郎はずっと気になっていたことを口にするしかなかった。
実はそのために、二郎は先程のすれ違いの時に顔を歪めてしまい、結局それがさえを泣かせてしまったのだが、二郎がそれを知るはずもない。
「……なんや自分、お菓子でも食うてきたんか? さっきも思ったんやけど、えらい甘い匂いが……」
そこまで言って、二郎は自分の失敗に気付いた。さえが再び今にも泣き出しそうに表情を歪めたからだ。
「や、や、こりゃあかんかったんか? なんか失敗してその匂いが付いてもうたんか? すまんすまん。今日はなんやら色んな匂いのする女の子と会ってなぁ、それで俺も不思議に思うてしもうて」
その二郎の言い訳の効果は絶大だった。まずさえが泣く事を撤回する。それどころか、真っ直ぐに二郎を見つめ返してきた。そして二郎は、目の前のこの女の子がとんでもない美貌の持ち主であることに今更ながらに気付いた。