ラッキーアンラッキー
禮餐命珠が通う中学は、洞中第九中学校という実に事務的な名前が付いている。洞中市が九番目に設立した中学校という、それ以上でもそれ以下でもない、単純な意味を持つ名前だ。
通称もこれまた単純に九中になる。
そして、この九中は東洞中高校とは道を挟んで建っていた。登校時間、あるいは放課後ともなると、この道は両校の生徒が入り交じって、最寄りの駅――団地群の真ん中にある商業地区の、そのまた真ん中にある万里駅――へ向かう制服で溢れかえることになる。
そんな下校のピーク時間からは少しばかりずれた放課後、命珠は校門から出て、その道を人の流れに乗るようにして駅に向けて歩いていた。
道とは言っても、散歩道に近いものなので車が乗り入れてくることもほとんどないし、新緑の眩しいこの季節、友人達とおしゃべりしながら歩くのは実に気持ちが良い。
そう、命珠には友人が多くいた。
それも姉のように小難しい事を考えることなく、ごく普通に。今も放課後の教室で馬鹿話に花が咲いて、万里駅の近くのドーナツ屋に場所を変えようという話になったところだ。
「あ、お小遣いピンチかも」
「あたしはお腹~~、ってははは、笑い事じゃないな」
「いいよいいよ。今日だけ今日だけ」
とりとめのない会話。いつも通りに不幸自慢。そんな女子中学生の中心に命珠はいた。
位置的に中心にいるという意味ではない。雰囲気、いや“格”とでも表現するべきなのだろうか。命珠は女生徒の中で飛び抜けた存在で、それであるが故に中心でもあった。
そしてそのことを、命珠もごく自然に受け入れている。
――自分が生贄であること。
命珠はそれについて深くは考えていない。自分自身の意志を言うのなら、もちろん反対だ。好きこのんで命を差し出すつもりはない。
ただ姉の善水が、今はその現状を受け入れようとしている。行方不明になっている父との繋がりを絶ちたくないがためだろう。父がいなくなってからの姉の苦労は、命珠も良く理解している。
だから今は姉に協力する。協力して、父が見つかればそこから今の事態を打開する方法を考える。先に生贄にされそうになってしまった時は……
まぁ、何とかなるだろう。
そんなわけで、命珠は自分自身の生活を手放すつもりはない。それはもちろん友達だけのことではなく、姉と妹のことも含まれている。
特に会話に加わるでもなく、笑いながら友人達の会話を聞いていたら、やがて散歩道は終わり、洞中市を南北に貫く大きな幹線道路と交差する交差点に差し掛かる。
とは言ってもいきなり殺風景な風景に切り替わるわけではない。
幹線道路の脇には街路樹が連なっており、歩道の側にはツツジが植え込まれていた。ちょうど今頃が花の盛りだ。赤紫、薄桃色の花が春を競っている。
子供の頃は、あの花の蜜を吸おうとしてよく姉さんに怒られたなぁ、と命珠はふと過去を懐かしむ。今度さえ坊にも教えてあげよう。
どこからか鴉の鳴き声が聞こえる。昔からここは鴉が多い。それなのにこの市の鳥は百舌鳥なのだ。
――どちらにしろ趣味が悪い。
そんなことを考えながら友人達から少し遅れるようにして、そのままツツジの植え込みに目を向けていると、緑の葉の中に白と黒の“何か”が割り込んできた。
突然のことで少し驚いたが、単純にどこかの野良猫がひょっこり顔を出しただけだ。
一瞬の緊張が解け、少し撫でさせて貰えないだろうか、とまで命珠が考えた時、その野良猫は再び命珠に緊張を強いた。
いきなり車道に飛び出したのだ。考えるまでもなく非常にマズい。命珠の背後からは車のエンジン音。そうでなくても交通量の多い幹線道路。
――助けるしか!
と決意した瞬間には、鞄を捨てて命珠の身体は車道へと飛び出していた。
同時に頭の中で駆け抜けるべきルートを考える。向こう側に駆け抜けるのは論外。何しろ向こう側に行くまでには逆車線も駆け抜けなければならないのだ。
死んでしまえば生贄どころの話ではなくなってしまう。
となると野良猫を抱えて弧を描くように走って、今の歩道に復帰するのが現実的だ。
一気に加速する命珠の身体。
命珠は運動神経が良い、と言われている。
命珠自身は身体の動かし方を知っているだけだ、と思っている。
この二つの表現にどれほどの違いがあるのかはわからないが、命珠の中では明確な違いがあった。
しかし今はそれも些細な問題だ。
当然のように背後で鳴り響くクラクションの音。予測していたので慌てることはない。全力を出して前傾姿勢を保ったまま、左手で野良猫の首根っこを捕まえる。
今までと同じように、今日も身体は思った通りに動いてくれる。
そのままイメージ通りの弧を描いて駆け抜けた。
視界の隅に自分を見て複雑な表情を浮かべている友達の顔が見える。仕方ない。しばらくはヒロイン役という“生贄”になることに甘んじよう。
そのまま歩道にいる友人達を追い越す。問題ない。車からのクラクションの音は止んでいる。思い通りに動く身体は、そのまま歩道への復帰を保証してくれていた。
――抱えた野良猫が突然暴れださなければ。
スピードを出していたのが災いした。
ほんの一瞬、足がもつれただけなのだが転倒は免れそうにもない。
命珠が心の中で舌を出す。
(……これは派手な擦り傷コースだね)
姉さんに怒られて、さえ坊に余計な心配をかけてしまう。
我ながらドジな話だが生きた証人――いや、証猫――免じて何とか勘弁して貰おう。
と、身体どころか思考までバランスを崩しかけた命珠。
それでも擦り傷だけで歩道には復帰できるだろう。取りあえずの最悪は回避できる。そんな命珠の潔さに何者かが感心したのか、
――救いの手が差しのばされた。
学ランに包まれた腕。
歩道に飛び込んできた命珠の身体――プラス野良猫一匹――を左手一本で受け止める。
バランスを崩していた命珠は、その腕を頼りに身体を立て直した。二つの足がしっかりと地面を掴む。
助かった――とまずは大きく息をつく命珠。
そして助けてくれた相手を見上げる命珠。お礼を言わなければならない。
だが命珠はそこで一瞬、硬直してしまった。
まず相手の目つきが尋常ではない。先にこの眼を見ていれば、どれほどの無理な注文を身体に要求してでも、この男の腕の中に飛び込むことを回避していたに違いない。
そしてボサボサなどという表現では追いつかないほど、千々に乱れた髪の毛。
間違いなく危険人物。
無理からぬ評価とも言えるが、その危険人物が命珠と眼があった時にまず言った言葉はこうだった。
「……ありがとう」
紛う方無きお礼の言葉。その理由が咄嗟には命珠には思いつかない、実はこの猫の飼い主……というのは想像できない、というか想像したくない。
理由を探すように周囲を見回したところで、命珠は自分がかなりはしたない格好になっていることに気付いた。スカートの後ろの部分がめくれ上がって下着――詳しく描写すると、年の割に充分に発育した命珠の臀部を包み込む、ピンと張りつめた青と白の縞模様の――がチラッではなく、モロに露出していた。
傍らの男からも充分に見えてしまったことだろう。
命珠は慎重に身体を離すと、落ち着いてスカートを元に戻す。そして――
「どういたしまして」
とすました声で声で答える。
そんな命珠の言葉と仕草に、相手は自分がどんな状況になってしまっているのか、すぐに理解したようだ。
慌ててワタワタと手を振って、
「ちゃ、ちゃう! そういう意味やない!」
おや、意外と悪い人じゃないのかも知れない。しかも関西弁で慌てられると、普通に聞くよりは随分と間抜けに思えてしまう。
「ごめんなさい。ちょっと冗談。本当はありがとう、助けてくれて」
命珠は意識してにっこりと笑顔を浮かべた。
その笑みに安心したのか、相手の男もホッとしたような笑みを浮かべた。なるほど笑うと表情から険が取れる。もしかすると結構いい男なのかも知れない――髪の毛を何とかすれば。
「命珠~~! 大丈夫~?」
背後からはのんびりした友人達の声。どうやら命珠が無事らしいのがわかった事と、その運動神経を信頼して、慌てる事もなかったらしい。
「んじゃ、怪我もないみたいやし、俺は行くわ」
もちろん、こちらの方も運命の出会いなどに発展しそうもない。
命珠自身はもっと些細な出来事でしつこく声をかけられた経験もあるが、今度の相手はそんなこともないらしい。第一印象は最悪の部類だったが、これは本当にいい人だったのかも。
命珠は心の中で頭を下げる。
しかし、その瞬間おかしな事が起こった。相手の男が鼻をひくつかせ始めたのだ。そしてそのまま眉をひそめる。
「……なんや、この匂い? 肉の焼ける……匂い……か」
命珠に向けて放たれた言葉ではない。半ば――というか、完全に独り言だ。
しかし命珠は周囲の空気が一変したのを感じた。
日常から非日常へ。
――娘を生贄に捧げる狂気の父親の世界へようこそ。
逃げる。
思い通りに動く身体が、一瞬にして世界から逃げることを選択する。
見も知らぬ凶悪な面相の男から、後ろに飛びずさって。
その命珠の行動は改めて相手の注意を引いてしまった。再び目が合ってしまう。
「命珠!」
友人達の声に緊迫感が増す。どうやら目の前の男に何かされたと勘違い――完全に外れとも言い難いが――したらしい。
その空気を察したのか相手はくるりと背を向けると一気に駆け出して、ツツジの植え込みの向こうに姿を消してしまった。さっきの命珠の冗談が効いてしまっていたのかも知れない。
「大丈夫だった? 命珠!」
「変なコトされたんじゃないでしょうね?」
追いかけてくる友人達の声。追いついてきたいつもの日常。
「……大丈夫大丈夫。怪我もしてないし、変なコトされたわけでもないよ」
そうして再び作った笑顔を浮かべる。その笑顔を見て友人達の表情にも笑顔が戻る。
まるで鏡を見ているように、命珠は自分が今浮かべている表情を確認してしまった。
笑顔――。
とても笑っていられる状況ではないのに、笑っている自分。
――そうだ、結局自分の日常は作り続けなければならなかったんだ。