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サクリファイスでフルコース  作者: 司弐紘
第二章 佐藤二郎という男
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“さえ”の暴走

 ――そう、バスケットの中身はクッキーだった。


 プレーンな黄金色のクッキーと、焦げ茶色の恐らくはココア風味のクッキー。そしてその二つが混じり合った、マーブル、渦巻き、市松模様のクッキー。

 しかし二色では極彩色の前菜、メインディッシュと比べれば水墨画の印象だ。それに加えてどうしてもクッキーだけでは見劣りしてしまう。

 さえもそれは自覚しているのか、顔を伏せてどこか恥ずかしそうだ。

 だが、さえの年を考えると、ここまで出来れば充分と見るべきだろう。


 二郎は深く頷いて、まずこう切り出した。

「さえちゃん。言うとくが俺はクッキーにはうるさい男やで」

 そして、おもむろに手を伸ばして渦巻き模様のクッキーを手に取り、口に運ぶ。


 サク……


 心地よい音が、前歯から二郎の全身に伝わっていく。そして鼻腔に広がっていくバターの香ばしい香り。そしてココアの甘い香り。口中に広がる甘さ……だが甘過ぎはしない。

 何よりも特筆すべきは、その口触りだ。溶けるようだ、と言うのが一般的な誉め言葉だとすると、このクッキーにはその前に一段階ある。まるで触れた先からホロホロと崩れ落ちるように、焼き込んだクッキーの粒子が舌の上でダンスを踊る。

 文句なしに旨かった。今までのメニューに負けないほどのグレードだ。


 どうやって誉めようか――簡単に言うと、どういう風に嘘をつくか――と悩んでいた二郎だったが、そんな心配は完全に杞憂だった。問題にすべきなのは、この感動をどうやってさえに伝えるかだ。

 さえの方に目を向ける。祈るように両手を合わせて、顔を伏せていた。

 こんな泣きそうな女の子に、難しい言葉はいらない。


「うまいぞ、さえちゃん。これ、丁寧に粉ふって作ってくれてるなぁ。俺のためにありがとうな」


 そう言って、いつものようにさえの頭の上にポンと手を置く。

 それが合図だったかのように、さえは常日頃からは考えられないような機敏な動きで顔を上げた。それどころかスカートを翻して、テーブルの上に駆け上がる。


「ちょ! さ、さえ! 何してるの!?」

「うっわ~~、ラブ・イズ・ブラインドが極まってるわ」

命珠みたま! 何でそこ英語なの!?」

 姉二人のわかりやすい動揺を無視して、命珠は食器をカタカタと蹴散らして四つんばいのまま二郎へと迫る。この時二人の目の高さはほぼ同じ高さになった。

 二郎とさえ。

 二人の視線が真っ正面からぶつかり合う。

 鷲の巣頭に隠された二郎の漆黒の、それでいて深い色の瞳。

 さえの光彩の輝く、それでいて潤んだ大きな瞳。

 そして、さえは叫ぶ。


「さえは決めた! さえはお兄ちゃんがいい!! 食べられるなら絶対にお兄ちゃんじゃないといや!!」


 その一瞬――善水よしみと命珠の時間は止まり、二郎の目は大きく開かれた。

 そして次の瞬間、二郎のボサボサ頭が力を失った。好き放題に暴れ回っていた髪が、突然重力に従ったのだ。真っ直ぐになった艶やかな黒髪は意外なほどの長さで、どこかしら女性的でもあった。

 そして、何かが破裂するような鋭い音がどこから聞こえてくる。鴉たちがガァーガァーと嫌な声で鳴いていた。


「な、何?」

「先輩!?」


 善水の叫び声とほとんど同時に、二郎は椅子ごと仰向けにひっくり返っていた。そのまま二郎は頭を抱えて、食いしばった歯の隙間から苦しそうな呻き声を上げている。


「先輩! 先輩!」

「ちょ……二郎さん!」


 善水と命珠が慌てた声を上げる中、さえ一人がテーブルの上で取り残されていた。ただ、理解できたのは二郎が倒れたということ。そして、それが自分のせいであるらしいということ。

 その二つだけで、さえには充分だった。


「……やだーーーーー!! お兄ちゃーーーん!!」


 さえが再び叫ぶ。ピシュっという何かが裂けるような音が聞こえる。


「……あ、あかんで、さえちゃん」


 呻き声に紛れ込みそうな、二郎の弱々しい声。

「……お兄ちゃん……?」

「俺はもう大丈夫や。……やから、それはあかんでさえちゃん。ちょっとびっくりしてしもうただけやから、落ち着き」

 手をついて立ち上がりながら、さえをなだめる二郎。その髪は見慣れた鷲の巣頭に戻っている。


「ただ、さえちゃんもいきなりすぎるで。まずテーブルから降り。それから俺はお腹一杯になるまでさえちゃんのクッキー貰って、それから、そやな、またゲームして遊ぼうか。今日はとことんつきあったるわ」


 そして、無理矢理に笑顔を浮かべる二郎。額から頬に掛けてびっしりと汗をかいて、眼窩は栄養失調患者のように落ちくぼんでいるが、それだけにその笑顔はさえの、いや三姉妹の心を打った。


佐藤二郎という男。


 神々の敵――という可能性が高く、父親に繋がる情報を持っているかもしれない男。禮餐家の三姉妹を生贄として貪り食らうかもしれない男

 だが、その佐藤二郎は優しく、そして強い男だった。

 それは“かもしれない”などという曖昧な言葉が付かない――確かな事実だった。


 その後は、ほぼ二郎の言葉通りに事は進んだ。二郎は何とバスケットの中のクッキーを半分以上平らげてしまう。その健啖振りにさえもやっと笑顔を取り戻した。

 それからはゲーム、とはいってもテレビの一つもないこの家で、TVゲームは逆立ちしたって不可能だ。だから皆で遊ぶとなるとボードゲームやトランプということになる。


 その方面の担当は命珠。次から次へと部屋から見たこともないようなボードゲームやカードゲームを持ち出してくる。昼間にやった「ボナンザ」というのも随分変わっているな、と二郎は感じたが、今やっているボードゲームは内容が実に酷い。

 一言で言うと絶海の孤島にいるペドロさんを上手く操るというゲームなのだが、ペドロさんの行き着く先はどう転んでも“死”なのである。


「なんや、えらいえぐいなぁ、このゲーム」

「まぁまぁ、ドイツ人の考えることだから」

「……それ、フォローになっとるか?」

「みたまお姉ちゃんは、こんなゲームを一杯持ってるんだよ」

「で、三人の中で一番弱いのよね」

「さえ坊、そういう言い方だとおかしなゲームしか持ってないみたいじゃない。それに姉さん、持ち主が一番強くなくちゃいけないなんて決まりはないわ」

 同時に反論する命珠の目の前で、ペドロさんが海の藻屑と消えた。命珠の指示が奇をてらいすぎたせいなのが原因だ。


「あ~らら」

「ね、命珠は一か八かが多すぎるの」

「遊び方までお説教されるいわれはないわ。さ、次のゲーム行くわよ」


 次に出てきたのがアメリカを線路で繋ぐゲーム。地道な努力と人の考えを読んで嫌がらせをすることが重要なゲームで、さえの現在の状態を考えて、交渉が重要な要素になるゲームは遊ばない方向らしい。

 その選択が功を奏したのか、このゲームのバランスの良さもあってなかなか白熱した勝負になり、三戦してさえが二勝、善水が一勝した。


「二郎さんは正直すぎるよ。もう少し妨害工作を試みなくちゃ」

「そういうたまさんは、邪魔ばっかりしすぎとちゃうか」

 と言うのが、一勝も出来なかった二人の言い訳と敗因である。


 その内にさえの瞼が落ち始めた。普段の就寝時間が近付いている上に、昨日からはしゃぎ過ぎでもあったのだろう。

 さえ自身は必至になって起きていようとしたが、ついには睡眠欲がさえの意志を凌駕する。座り込んだままで、その小さな身体が船をこぎ始めていた。


「……よし、じゃああたしが部屋まで運んでくるよ。姉さんは後かたづけと、コーヒーでも……」

「激しく納得がいかないけど、仕方ないわね。先輩?」

「ようやっと“後で”の時間になったわけや」


 二郎は腕時計に目を落とした。

 針が示す時刻は、九時を少し回ったところ。窓の外に広がる中庭にもすっかりと闇の帳が降りていた。

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