第238話 第二学年夏期休暇13
ハギに『神鳥』を紹介した日から三週間ほど経った。あれから毎日、ハギはあの空間へ行き、『神鳥』に餌を与えているらしい。ライアが何故か報告してきたが、まあ一度は『リセット』しないと危険だとは思う。
「ハギの為の血も作らんとな。そんで──」
考え事を一端止めて、安全の確認のとれたカドゥルーの血液──の入った注射器を一本取り、腕に注射する。
「………っ」
注射はどちらかというと苦手だ。暴力とはまた異なる鋭い痛みは、あんまり慣れない。騒ぐほどの痛みではないが苦手である。
「後、九本か」
十二本作った注射器を週に一度注射していっている。これが三本目で、完全に注射が終わるのは九週間後。先は長い。注射には副作用があるから、その感覚を増長させているのかもしれない。
俺は寝台に寝転ぶ。最近は咳も息苦しさも頭痛もないため比較的楽ではある。もっと言うと、全身を常に走っていた痛みもない。
そして同時に、感覚も薄れていっている。
「………俺はまだ、人の成りをしてるのかね」
天井に向けて伸ばした右手の甲を視界におさめる。
記憶にある人間の姿の手の甲はしている。多少痩せ気味ではあるが、形は人のソレだ。
しかし胴体や顔面といった自分で見ることの難しい部分が、人間のような形をしている自身は、正直ない。
何せ感覚がないのだ。グーに握っても体温は感じないし、握ったという感覚すらもわからない。
「俺はまだ、泣けるのかね。笑えるのかね」
最近は感情の起伏も少なくなってきた。喜びや悲しみ、怒りといった感情を感じなくなってきていると自覚している。
そんな自問をしていると、不意にノック音がした。
「入っていいぞ」
「失礼します。マスター」
優雅にお辞儀をして、ライアは俺の部屋に入る。
「気分はどうです」
「最悪………何だろうな。顔色はどうだ?」
わからない。それが本音だ。
何せ愉快不愉快さえもわからないのだ。気分なぞもう一週間はわからない。
「飄々としておられます」
「表情も喪ったか」
「そう推測されます」
今週喪ったのは表情らしい。
しかし寂寥のような感覚はない。あるとするなら『無』。感心もそれ以上むかず、感情も動かないからこそ、きっと『無』と表すのが的確だ。
「衝動、喜怒哀楽、表情………なあライア。次は何を喪うと思う?」
「……さあ? 情、では?」
「そうかもな」
今までの俺なら、きっと笑って賛同したことも、今や笑うことすらできなくなった。いや、笑うとはどうにしていたのだろうか。
「笑顔、出来てるか?」
「不出来ですが、できていますよ」
そうか。
空虚に、そんな俺の台詞は響く。
ライアは静かに瞳を閉じ、淡々と話し始める。
「──ハギには言わないのですか?」
「言わない。どうせ気付かれるんだ。ライアが言いたきゃ言えばいい」
「………変わられましたね」
「変わったのか」
「ええ」
変わったのだろうとはわかる。強い衝動も喜怒哀楽もなくなって、どうも無気力になっているのも自覚はしている。
「人の原動力は、心にあったのか………それが亡くなった俺は、果たして人間と定義していいのかね」
「私も人間ではないのでわかりませんが、心を持つ人形は心を持っても人形であるように、心を喪った人間もまた心を喪っただけの人間なのでは?」
「そうか」
ライアは己を『人形』と定義する。命令されないと動けないからだ。
では俺は己を何と定義するのだろうか。『人間』かはたまた『精霊』か。
「──ではマスター。そろそろ」
「ああ、頼む」
俺は思考を止めて、気持ちを切り替える。
「皮肉だな。やはり」
「ですが、ハギを悲しませたくないと仰ったのは、マスター本人です」
「ああ、知っている」
しかし、知っているだけだ。
過去の俺が、黒谷啓が、愛している存在を悲しませたくないと、俺に枷を嵌めたのだから。
「それとライア。俺はもうゾンビみたいなものだ。黒谷啓であって黒谷啓ではない。黒谷啓の残骸と言い換えてもよい滓なんだ。俺はマスターじゃあない」
「ええ、存じております。しかしアナタはマスターです。黒谷啓と呼ばれる存在です。記憶も経験も本人で体験しているのですから、哲学的ゾンビでは少なくともない。アナタはアナタの意思でこの場にいるのなら、まだあなたは人間で、アナタは私のマスターなのです」
そうか。
「じゃあ、いつか死ぬ日を看取ってくれ。それで契約は終了──ハギは任せるからな」
「ええ、契約が長引くことを願います──」
俺は授業を聞く。『黒谷啓』の行動を知る。
──そうして生活している内に、夏休みは終わりを迎えていた。
またちょっと哲学的ゾンビとは違うんですけどね。
更新です。次回からハギ視点や拓哉の視点が多くなるかもです。