世界に一冊だけの本~A book for my little lady~
――2017年10月、社会人一年目の私は、初めて有給休暇なるものを取得した。
どこの会社でもそうらしいが、新入社員が有給を取れるようになるのは入社半年が経ってからだとか。
つまり、その権利が発生した直後に取得したというわけ。これは当然、同期の中で最短記録である。それだけ聞けば、お前は一年目からやる気がなさ過ぎるだろうと、お叱りの言葉を頂戴するかもしれない。
でも聞いて欲しい。別に私は遊びのために有休を取ったわけではない。
――父が死んだのだ。つまり忌引き。これ以上ない程、正当な権利の行使である。総務部の禿げ散らかした部長さんも、嫌味一つ吐くことが出来なかった。
まあ、この理由で嫌味を言ってくる上司がいれば、パワハラで訴えてやるのだが。良い小銭稼ぎになったかもしれない。もっとも、現実には真っ当なお悔やみの言葉を頂戴した。そりゃそうだ。
しかし、お悔やみの言葉を頂戴し、快く送り出されては座りが悪い。というのも、私は父の死をちっとも悲しんでなかったし、葬儀そのものはメインの用事ではなかったから。
ガタンガタン、と車体が揺れる。私は今、のどかな田舎を走る電車の中にいた。平日の昼間、田舎の電車ということもあって、私がいる車両は貸し切り状態。
それをいいことに、私はどっかりと座席に腰掛ける。気だるげにふかふかの座席に身を預けながら、手の中で弄んでいる鍵に視線を落とす。
それは、私が相続した別荘の鍵であった。遺産相続、それこそが私のメインの用事であったのだ。
父は途方もない資産家であった。名前を言えば、ああ、あの! と反応する大人も多いことだろう。
そんな資産家の父には、三人の子供がいる。正妻との間に設けた二人の息子と、愛人との間に設けた一人娘。この一人娘が私だった。
私を呼び寄せた正妻と、腹違いの兄たちは、揃いも揃って私に葬儀には顔を出すなとのたまった。なので、父の死に顔を一目拝んだ後、早々に退散することになったのだ。全く、遠方ということも相まって、三日間のお休みをもらったというに。
しかし、葬儀に参加させないなら、どうして私は呼び出されたか? それは遺産相続のあれこれのためである。
私は、愛人の娘ではあるが、一応認知されていた。だから、遺産を相続する権利を有する。父の遺した遺言書にも、キチンと私に触れられていた。
実を言うと、この遺言書の中身は、私にとって意外なものであった。てっきり、私のことなんてちっとも触れてないと思っていた。喩え、法律で相続の権利を有するとはいえ、父は当たり前の如く私を無視するとばかり。
何せ、私と父の関係は良好とは言い難い。会った回数は数えるほどだ。うん、本当に数えることができる。
初めて顔を会わせたのが、私の十三歳の誕生日。それから毎年、十九歳の誕生日まで、一年に一回だけ顔を合わせた。つまり七回だ。
二十歳の誕生日の時分には、既に父は病床に伏せっており、入院生活を送っていた。私の方から父の下を訪れることはしなかった。
ガタンガタン、車体が揺れる。私はぎゅっと手の中の鍵を握り締めると、瞼を閉じる。座席の柔らかさを感じながら、父と初めて顔を合わした誕生日を思い起こした。
「日向、この人がお前のお父さんよ」
母が私に言った。十三歳の私に。その日の私は、母に半ば強制的にめかし込まされ、可愛らしいワンピースを着ていた。そのワンピースの裾を揺らしながら立ち上がると、母の後ろに立つ男の顔を見た。――父だ。
何が気に入らないのか、むっつりとした顔で押し黙っている。私もまた口を開くことなく、じっと父の顔を見たものだった。
「ほら、お父さんに挨拶なさい」
「……初めまして」
母に促されて渋々挨拶をする。父は一つ頷くと、ここで初めて口を開いた。
「ああ。しかし、挨拶が正確ではないな。お前が赤子の時分に、一度顔を合わせたことがある」
「はあ……」
だからどうした、だ。きっと十三歳の私もそう思ったろう。
「お前にこれを」
そう不愛想に言って、父は包装された長方形の物をすっと差し出す。
それは誕生日プレゼントに違いなかった。そっけなく手渡されるプレゼント。父は笑み一つ浮かべることすらしない。
「ありがとう……ございます」
私はぎこちなく礼を言うと、差し出された物を受け取る。そうして伺うように父の顔を見上げた。
もっとも、私の無言の問い掛けに答えたのは母である。――『まあ、良かったわね! 日向、開けてごらんなさいよ!』、と。何とも場の空気にそぐわぬ明るい声で。いやはや、涙ぐましい努力である。
私はビリビリと無造作に包装紙を破る。中から出てきたのは、当時一世を風靡していた海外児童文学の新刊であった。
それは、丁度私が欲しいと思っていた本。だけど、重厚なハードカバーで、値段は2000円近くしたはずだ。まだ、中学一年の私には、いささかお高い買い物であった。
なので、古本屋に売りに出されるのを待っていたのである。
その本がピンポイントでプレゼントとして贈られる。情報をリークした者がいると考えるのが自然で。勿論、下手人は一人しかありえなかった。
「お前は小説が好きだと、雅に、お前のお母さんに聞いた」
「はい。そうです」
私は素直に首肯して、しかしその後に言葉を付け足す。
「最近では、明治や大正の日本文学がお気に入りです。漱石に、太宰に、芥川に……」
澄ました顔で、贈られた本とは真逆のジャンルを口にする。父は少し困惑したようだったが、私の言葉に応える。
「そうか……。私も夏目漱石や太宰治の小説なら、いくつかは読んだことがある。例えば……」
「そうですか――」
父の言葉を遮り、私は自身の言葉を被せる。
「――なら、尾崎紅葉の『金色夜叉』をご存知ですか? あの時代の小説の中では、一等お気に入りの本なのですが」
そんな私の言葉に、父は二の句が継げなくなってしまった。
情報をリークされていたのは父だけではなかった。両者の橋渡し役になろうと奮起する母は、尋ねられれば簡単に父のことを話してくれた。
私は初顔合わせの前に、相対することになる父の情報を集めていたのである。曰く、彼を知り己を知れば何とやらだ。
仕入れた情報によれば、自他共に認める本の虫である私と違い、父は読書とは縁遠い人種であるらしかった。ならば、漱石や太宰は知っていても、尾崎紅葉の『金色夜叉』は知らないだろうと、予想したのだ。それでわざと、父が返答に窮するであろう問い掛けをしてみせたのだった。
何故、そんな意地の悪い振る舞いをしたのか? それは父の振る舞いに内心強く憤っていたからだ。
プレゼントを無愛想に、億劫そうに差し出した父。その顔をよくよく私は見ていたのだ。
子供なんて、プレゼントの一つでも贈っておけばそれで満足するだろう、という魂胆が見え隠れするようだと思った。どれ、一つ、愛人の娘のために手ずから贈ってやるか、そんな傲慢さが透けて見えるようだと思った。
だから強く憤ったのだ。そんなことで私の好意を勝ち取れるとでも? ああ、馬鹿にするのも大概にしろと思った。
とまあ、そんなわけで、私の先制ジャブは見事に決まり、初顔合わせは終始ぎこちないまま終わることとなったのである。
しかし、それでも翌年以降も父はめげずに私の誕生日に顔を出した。……その敢闘精神だけは認めないでもないけど、ね。
何より、毎年贈られる本そのものには罪はない。有難く頂戴した。一度も外すことがないので、中々嬉しいプレゼントではあった。
というのも、私自身が母に積極的に情報をリークしたからである。ほら、下手な本を贈られても困ってしまうので。
「成尾駅~、成尾駅~」
私ははっと目を開く。目的の駅に電車が滑り込み、停車した所であった。プシュと、音を立てて電車のドアが開かれる。私は座席から立ち上がると、一人駅のホームに降りた。
細長いホームには、二つの空いた椅子に、茶色の錆が目立つ看板、薄汚れた灰色の庇があるばかり。人の姿はない。
ぐるっと、ホームの上から周囲を見渡す。田んぼに、平屋の伝統的な日本家屋、その傍には今時珍しい小さな焼却炉が見て取れるではないか。
おいおい、ダイオキシンを垂れ流す気ですか? いやいや、流石に使用はしてないでしょう。
その他と言えば、どの方面を見渡しても青々とした山が目に入る。
好意的に表現するなら長閑な風景、直截的に言うなれば欠伸が出そうなど田舎だ。
「とんでもない所に来てしまったわね」
ぴーひょろろと、私の呟きに鳶が返事する。うん、多分鳶だ。鳥の違いなんぞ分からんが、この手の鳥は鳶と相場が決まっている筈だ。
ふるふると首を振る。ともかく突っ立っていても仕方ない。私は足を動かす。
ホームを降りる階段の前には、驚くべきことに改札が無い。代わりに、箱が設置されている。尋ねる駅員もいない無人駅なので推測でしかないが、どうやらここに切符を入れるものらしい。なんともアナログな。
そしてその箱の傍には、真新しいステンレス製のポールが立つ。腰元辺りの高さで、ポールの上にICカードをかざす為の読み取り機があった。いかにも、取っ手付けました感が強いその様は、この時代に取り残されたようなホームの中では余りにシュールである。
ピッ、とかざす。ふむ、動作不良は起こさないか。良かった、良かった。
階段を下りきると、四つ折りにしたA4用紙を引っ張り出す。広げたそれは、駅から目的地である別荘までの地図である。弁護士先生に渡されたものだ。
そう私は、相続した別荘を確認すべく、このど田舎に足を運んでいた。別にすぐに確認する必要性はなかったが、葬儀に参加できなくなって時間が有り余っている。どうせなら、この有給を利用して別荘を一目見ておこうと思い立ったのだ。
「んー、こっちね」
地図を頼りに歩いていく。幸い複雑な道程を辿る必要もなく、迷うことなく進むことができた。暫く田んぼを横目に歩いていると、砂利の敷かれた急こう配の坂が右手に現れる。
地図と周囲の景色を見比べる。どうも、この坂を上り切った先に、件の別荘があるらしい。
ジャリ、ジャリ、小石を踏みしめながら坂を上って行く。上る。上る。一番上に上り切った瞬間、ふわっと、歓迎するように心地よい風が吹き抜けた。
開けた視界の先に、瀟洒な西洋風の家屋があった。坂の下にあった家々とのギャップが酷い。――坂を上れば、そこは別世界でした。さしずめ、そんなところか。それにしても……。
何ともこじんまりした別荘だ。小さな庭に、可愛らしい西洋風の家屋。
一人で使うには広いだろう。二人で丁度良い塩梅かもしれない。三人でも少し厳しいが我慢できるだろう。ただ、四人家族の使用には堪えられまい。
そんな規模の別荘であった。私の予想を大胆に下回る。なるほど、私に対する悪感情を隠しもしなかった正妻が、すんなり相続を認めるわけだ。
ど田舎の、ささやかな別荘……か。父らしい。毎年贈られた誕生日プレゼントと同じだ。愛人の娘如きには、何ぞ、適当なものを呉れてやればいい。そういうわけだろう。
眉根が下がる。ズキリと胸が痛んだ。ぎゅっと胸元の服を握り締める。
……胸が痛む? 何だ、私は期待していたのか? 父の遺言書に私のことが触れられていたから? それで、ひょっとすると、父は私のことを……なんて。
「馬鹿だなあ……」
馬鹿だ。大馬鹿だ。弁解の余地もない。これは全面的に私が悪いだろう。草葉の陰で父も大いに呆れていよう。何を今更、と。だって、そもそも最初に父を突き放したのは私ではないか。それなのに……なのに、心の奥底でそんな期待を抱いていたというの? なんて、身勝手な……。
――成尾の別荘と、家具を始めとした別荘内の全ての物。そして、それらの相続税を支払うに足る現金を、娘の日向に譲る。
それが父の遺言書で私に触れた記載の全て。父の遺産を鑑みるに、なんと微々たるものだろう。つまり、父の中に占めていた私の存在は、それっぽっちのものに過ぎないのだ。
はあ、重い溜息が零れる。私は重たい足を動かし、別荘の正面玄関まで進んだ。ずっと手の中で弄んでいた鍵を差し込む。ガチャリと開錠すると、ぎっと扉を押し開けた。
――瞬間、むわっと嗅ぎ慣れたにおいが鼻腔を擽る。紙とインクのにおい。本屋や図書館特有のにおい。
「……どうして?」
不可解さを覚えながらも、正面玄関をくぐる。バチンと壁際のボタンを押して電気を点けた。カーテンも閉め切られ、光源一つなかった別荘内が露わになる。視界に飛び込んできたその光景に、私は唖然とさせられた。何せ、別荘内はおよそ居住のための空間とは言えない有様であったのだ。驚くべきことに、家具が一つもない。いや、これには語弊がある。一種類だけ家具がある。本棚だ。本棚のみがある。それが所狭しと、別荘内に連なっていた。それこそ正に、本屋か図書館といった具合に。
「何なの、これ……」
呆然としながら、歩を進める。本棚と本棚の間を通り抜けながら、収められた本の背表紙に目を走らせていく。夏目漱石の『こゝろ』『坊ちゃん』『草枕』……太宰の『人間失格』『駈込み訴へ』……国木田独歩の『武蔵野』……明治、大正の文豪の作品が並ぶ。更に進めば、アンデルセン、ゲーテ、シェイクスピアらの海外古典の名作が。かと思えば、小野不由美、森見登美彦、東野圭吾らの現代の人気作が並ぶ。
のべつまくなし掻き集めたと見える本、本、本、大量の本。一体何冊あるのだろう? 大量の本の山に圧倒され、目が回りそうだ。
更に歩を進める。すると、今まで見たぎっしり本が詰まった本棚と異なり、空きが目立つ本棚に行き当たる。そこには色褪せた本が並ぶ。私はぎょっと目を見張り、思わず足を止めてしまった。何故なら、どう見ても平成の世に出版された本ではない。ばかりか、昭和ですらなさそうだ。パラフィン紙でしっかりと保護されたそれらは、もしかしなくても当時出版された古書の類であろうか?
恐る恐る手を伸ばす。人差し指をかぎ爪のようにして、並ぶ古書の一冊に指を掛ける。すっと静かに抜き取ると、頁をペラペラと繰ろうとして……繰れなかった。未開封のアンカットだ。信じられない……。
当時の本は、今のグラビアの袋とじのように数頁ずつを袋とじにしていた。このような製本法をアンカットという。新品のアンカットを読む際にはペーパーナイフで切り開きながら読み進めたのだ。
なので、ペーパーナイフで切り開かれてないこの本は、未読のまま現代まで残っていることを意味する。もちろん、大変珍しいものだ。例えるなら、何でも鑑定団に箱付どころか、未開封の超プレミア玩具が出てきたようなものである。
果たしてこれ一冊でいくらの値が付くのか? 見当もつかない。まさか、この本棚に収められている本は全て、同様の希少本だとでもいうのだろうか?
――成尾の別荘と、家具を始めとした別荘内の全ての物に、それらの相続税を支払うに足る現金、これを娘の日向に譲る。
父の遺言書が思い起こされる。――別荘内の全ての物、と記されていた。今にして思えば、あの言い回しに意図的なものを感じる。つまり、ぼかしながらも、これらの本に言及していたのではないか?
でも、どうして……? どうして父は、これほどのものを私に?
一度振り払ったはずの期待が鎌首をもたげる。本当に……そうなのだろうか? 私は古書を本棚に直す。心乱されながら、再び歩を進める。
考えが纏まらない。取り敢えず、今は別荘内を見て回ろう。
壁のように聳え立つ本棚群を抜けていく。奥へ、奥へ、奥へ。ふっと、不意に壁の終わりがやってくる。開けた空間に出た。そしてその最奥に一際目立つ飾り棚があった。
イメージはあれだ。海外のお高いウイスキーなどを飾っている飾り棚。一番上の段がショーウインドウのようなガラス張りになっている。その中にはたった一冊の本が飾られていた。息を飲むほど美しい本だ。私はそっとガラス戸を引くと、おっかなびっくりその本に手を伸ばす。
手触りの良い皮の装丁は――私お高いのよと、まるで高慢なお嬢様のように自己主張してくるみたい。その上に金糸銀糸で麗しい花の刺繍がなされている。本当に、息を飲むほど美しい装飾本であった。
表紙をめくる。またも驚かされた。よくある機械的な字体ではない。優美な字体がさらさらと流れるように記されている。その最初の一文に目を走らせた。
――未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に……。『金色夜叉』の冒頭。どうやら、この装飾本は『金色夜叉』であるようだ。
流麗な字体に吸い寄せられるように文字を追っていく。パラリ、パラリと頁を繰る。
――すごい! 字体が均一じゃない!
なんと、場面、場面で字体が使い分けられていた。
冒頭からしばらくは、雅俗折衷の美文を更に引き立てんと、華麗な字体が流れるかの如く。と思えば、貫一とお宮がじゃれながら帰る場面では、二人の心情を写しとったかのように、活き活きと飛び跳ねるような字体で。
ほう、と息が漏れる。文字を追う目が、頁を繰る手が止まらない。いよいよ、前編で一番の見せ場たる熱田の場面に差し掛かる。そう、貫一がお宮を蹴り飛ばす、『金色夜叉』で最も有名な場面だ。
『吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ』
貫一の慟哭に呼応するように字体は荒々しく乱れる。今にも貫一の涙で紙面のインクがにじみ出すのでは? そんなありえざる予感を覚える。
背筋が粟立つ。体が、心が震わされる。
――何なのだろう、この本は?
先程の古書のように紙が変色しているということもなく。白く綺麗なままだ。どうも、製作されてから然程年月を経ていないように思われる。
本当に何なの、この本は? 分からない。分からないが、もっと読んでいたい。
この美しくも妖しい本にすっかり心を奪われた私は、夢中に中身を読み進めていく。すると、中ほどで飾り気のない白い便箋が挟まれていることに気付いた。
私ははっと正気付く。一つ小首を傾げると、パタンと装飾本を閉じて小脇に挟む。そうしてから、その二つ折りにされた白い便箋を開く。
「あっ……」
そんな言葉が口につく。そこには厳めしい筆跡で短い文章が綴られていた。
『この本が、特別な誕生日に相応しい贈り物にならんことを祈る。
――追伸 お前の一等好きだという『金色夜叉』を読んだ。私は本のことはよく分からんが、それでも悪くはなかった。少し大げさなきらいがあるが、生々しく心が締め付けられるような話だと思った』
「なんて……不器用な」
ああ、なんて不器用な人なのだろう。……思えば、常にむっつりとした父は、人付き合いが何とも苦手そうに見えた。
そんな人が、偶にしか会えぬ愛人の娘に、上手く接することが出来る道理が、どこにあったというのだろう? ましてや、思春期の私は、余りに意地の悪い対応ばかりしたのだ。
――『金色夜叉をご存知ですか?』、そんな意地の悪い言葉で突き放したことが悔やまれる。あの日、父は娘の興味のある事柄で、何とか会話の糸口を掴もうとしたのではなかったか? それなのに私は……。
そして父は、そんな仕打ちをした娘の言葉にも関わらず、後生大事に記憶に留め続けていたのだ。
だから、まだ新しいこの本はきっと、父が私の為に作らせた本なのだ。
「父さん……」
一度も口にしたことのない言葉が自然と零れ出る。私は便箋を『金色夜叉』に挟み直すと、胸元にこの世でたった一冊の『金色夜叉』を抱き寄せた。
胸の中に熱いものが込み上げてくる。私は慌ててハンカチを取り出すと、目頭に押し付けた。
――父の遺した『金色夜叉』を涙で濡らさぬように。