天国
「ついてきて」
女は今にも壊れそうだった先程とはうってかわって、機械的な声で呼び掛けてくる。俺は女の後を追ってその不思議な世界に下りた。女から目を離したときには父は既にいなくなっていたので俺はついていくしかなかったのだ。
周りを山に囲まれた何処か江戸時代の城下町を思わせる町並み。上から見えていた明かりはすべて蝋燭らしい。その証拠に星一つない無表情な空を遮るものはない。暗くてよく見えなかったが、下りていくとだんだんと見えてくる。わかってくる。ここは俺の家と同じように、時代が止まっているということに。
「なぁ、ここって異世界だったりする?な、ないよな。んなことありえねぇーし」
警戒心を解くように口調を砕いてみたものの、その瞳はいっこうにこちらを向かない。
「ここは異世界ではない」
無機質な答えだけが返ってくる。だが彼女が続けた言葉に俺は半ば唖然とした。
「ここは人間が作り出した、言わば極楽浄土の地天国である」
彼女の妖艶で感情の見えない口許が微かに歪む。畏怖からの寒気が俺の背中をなぞる。
信じがたい事実に動揺する暇もなく、上からもはっきりと見えたあの鳥居が見えてきた。今までよく見ることのなかった艶かしい紅色。そこに佇む彼女は恐ろしいほど美しく映えていた。ほっそりとした白い指が彼女の背後にそびえる城をとらえる。
「正面からあの建物へ入られよ。愚男がそなたを待っておるはずじゃ」
ゆるりとした所作で彼女は俺から遠ざかる。その背中を眺めながらふとある質問が浮かんだ。
「なぁ、名前聞いてもいいか?」
「......忘れた。名前など」
「じゃあ勝手に呼んでもいいよな?......ユア、さん?」
その名にハッとしたように彼女は振り返る。けれど俺はその視線を受け止めることなく、城の門をくぐった。