笑
今年度の文芸部の新歓冊子に掲載させていただいた作品です。
ある日の学校帰り、僕は友人のA、B、Cと繁華街のゲームセンターに立ち寄っていました。大学受験があと数か月後に迫っているというのに、僕達四人はのんきなもので、ひたすら筐体のコイン挿入口に軍資金を次々と投入していました。
数千円規模投入したにも関わらず、結局、景品のゲーム機は手に入らずじまい。苛立って、つい筐体を蹴ってしまいます。
「くそっ、これなら次のお小遣い日まで待ってから買った方が安上がりじゃないか」
喪失感にがっくりと肩を落とした時、とんとんと誰かが僕の肩を叩きました。友達同士のなれなれしいものではなく、なんというか淡々とした感じです。無意識にクリアケースに貼られている「筐体を叩いたりしないでください」のシールに目が向かいます。
ついに見つかったか。
背筋に冷えていくような感覚が走りました。この時期にゲーセンなんて行っていたらどんな先生でも怒りますし、家にも連絡されてしまいます。思えば今日は定期試験最終日。開放感で羽目を外す生徒を見つけ出すため、巡回範囲を広めている可能性があることくらい、なぜ考えなかったのか。僕は自分の浅はかさをこの時、後悔しました。
観念した僕は振り向きます。
「すいません。つい出来心で――って、あれ?」
途端、僕は拍子抜けしました。
後ろに立っていたのは、学校の先生ではなく一緒にゲームセンターに来た友人Aだったのです。
「なんだ、Aか。驚かせるなよ。てっきり先生に見つかったかと思ったよ」
ホッと胸をなでおろした僕はAに笑って言います。
しかしAはにこりともしません。無表情そのものです。それはいつも馬鹿をやってヘラヘラしているAではありませんでした。初めて見るAに戸惑っていると、彼は小さな声で言います。
「おい、あの姉さん、おまえのことずっと見ているぞ」
抑揚の無い、機械みたいな声でした。彼は目立たないように右へ小さく人差し指を伸ばします。Aのことが気になりつつも、とりあえず僕は彼の指さす方向に目を向けます。隅に並んでいる、水色のプラスチック製のベンチ。そのうちの自販機の隣にある一台に座っていました。
くたびれたコートに身を包んだ長髪の女性が。
細い目に、大きな鼻と口。そして、ばらばらに細かく分かれた髪。いずれもべたついているように見えて、清潔感の欠片も見えません。
そんな彼女が、あちこちから効果音が大音量で響く中、雑踏に紛れて僕を見ています。
ありったけの笑顔で。それはもう顔の筋肉だけで笑っているんじゃないかと思うほど。目も大きく歪んでいます。
僕は身震いしました。学校では女子とまるで関わりを持てず、リア充と呼ばれている人達を羨んでいる僕でさえ、彼女は生理的に無理だ、気持ち悪い、目障りだと感じてしまいました。
その理由として真っ先に挙げられるのが、彼女の大きな口から覗いている歯です。それもすっかりと黄ばんでしまった、極めて不衛生なものだと……。
あまりの気味悪さに目を背くこともできません。
僕は震える声でAに訊きます。
「なあ、A。あの人いつからいた?」
返事がありません。
「おい、Aってば」と僕は隣に目を向けます。
Aが、いません。
すぐさっきまでそこにいたというのに、いったい何処へ?
再びベンチの方に目を向けます。
今度は彼女がいません。
「どうなってるんだよ……」
いよいよ怖くなってきました。
僕はBやCを呼んでAを探す、ということはせず、すぐにゲーセンを逃げるように出ていきました。背中に生ぬるい視線を感じながら。
その日は晩御飯も食べずに部屋に閉じこもりました。
翌朝。いつものように僕は三人を駅のホームで待っていました。
ただ、いつもとは違い、学校めんどうくさい、などと考えてはいません。途中で一人帰ったことの謝罪と、昨日のことで相談したい、特にAには、あの女性はいつからベンチに座っていたのか、あのあと何処へ行ったのかを訊きたいと思っていました。
というのも昨日、帰宅後に三人に連絡を取ろうとしましたが上手くいかなかったからです。三人のうちAとの連絡手段はもっぱらパソコンのメールです。知っての通り、パソコンのメールは携帯に比べてかなり使い勝手は悪いです。できることなら携帯で連絡を取りたいのですが、三人とも家の方針やら金銭的な都合で携帯を持っておらず、しかもパソコンのメール機能を使っているのはAだけです。家の固定電話で話したくても、クラスが違うため、緊急連絡網に彼らの番号はありません。そして訊こうと思っていても、いつも訊き忘れてしまっていました。
五分、十分と経っていき、改札を通る生徒の数が次第に減っていきます。僕は時計と改札を交互に見て、彼らが来るのを今か今かと待ちます。そスーツ姿の社会人の群れの中から彼ら三人の姿を探してみますが一向に見つかりません。
このままでは学校に遅れてしまう。
僕は窓口に行き、駅員を呼びます。
「今日、人身事故か何かで電車が遅れていたりとかしますか?」
駅員はあからさまにいやそうな顔をして、「ないよ」とぶっきらぼうに答えました。
これ以上は待っていられない。
この受験期に先生にマークされるのは嫌なので、僕は一人先に学校に行くことにしました。三人とはクラスが別なので、なかなか一緒になれる機会がとれません。この時、彼らと昨日のことについて話す数少ない機会が無くなったので少し残念に思いました。仕方の無いことです。
「大丈夫。また放課後に会える」そう言い聞かせて、学校の方向へ足を踏み出した、その時でした。
視界の隅に、あの笑顔がちらついたのは。
つい反射的に僕はその方向に目を向けてしまいます。
見つけました。いえ、見つけてしまいました。社会人で混み合う中、ただ一人たたずんでいる彼女の姿を。
僕はごくりと息を飲みます。背筋にぞわぞわと嫌なものが走ります。
彼女はこちらに笑いかけたまま、微動だにしません。慌ただしいラッシュアワーにおいて、彼女の存在は異質そのものでした。彼女は言うなれば、道端の吐瀉物。存在そのものを否定せずにはいられない、汚物の極み。その彼女と僕の両名はその場に留まっていました。無論、僕は足がすくんでしまっていたから動けなかったのであり、彼女のように笑顔を浮かべるような理由があったからではありません。
周りの大人達は僕ら二人を気にも留めずに次々と通り過ぎて行きます。こうなると僕と彼女を一直線に結ぶ何かがあるかのような錯覚さえ覚えてきました。
彼女の黄色い葉が右に、左に、とわずかに揺れ動いています。
僕は彼女の目を見ないようにしながら、三日月のような歯、薄汚れたコートに意識を向けていました。目が合ったら最後、と無意識のうちに思っていたからかもしれません。
ところで今、気付きましたが、彼女が着ているコート、よくよく見てみるとどこか見覚えがあるものでした。特に胸元にあるワッペン。
黒く塗りつぶされているように見えますが、その輪郭は自分でもよく見ているもの――うちの高校のエンブレムとそっくりです。
そんなまさか、いや、もしかしたら……っ。
気付けば、僕は改札へ走り出していました。
あんな化け物が自分と同じ高校に通っているのです。授業どころではありません。
僕は再び逃げるようにして家に帰ったのでした。
自分の高校は厳しいことで知られる、そこそこ名のある私立の学校です。当然、身だしなみにも厳しく、「髪が耳に掛かってはいけない」「スカートの丈は膝より下でなくてはならない」といった、制約を課していました。身だしなみを厳しくチェックする理由として、「大学受験という人生を左右する出来事を控えている身でありながら、他人に気を配れないような奴はろくでもないし、受験も失敗する」と担任は言っていました。ちなみに卒業したら、好きなようにしていいとのことです。
そうであるなら、彼女について先生はどのように考えているのでしょうか? 何日も風呂に入っていないとしか思えないような格好をしている彼女は? そこにいるだけで十分、周囲の人に不快感を与えるというのに。
彼女が僕の高校の在校生であることを知って、僕は次の日学校を休みました。もちろん仮病を使って、です。あの、吐き気がするような凶悪な笑みを向けられたら、たまったものではありません。
吐き気がする、頭が痛いと訴える僕を両親は心配しながらも、職場へと出かけました。
僕はベッドから出ると、机上のパソコンに手を伸ばします。
「返事は、まだか」
受信メール一覧に新着の未読メールはありませんでした。Aはパソコンを開いていないのでしょうか? いつもはすぐ返信が来るというのに……。
考えても仕方ないので、僕は匿名掲示板のサイトを開きました。
そんな生活を続けて、今日で三日目。さすがにこれ以上仮病を続けていたら、親にも学校にも怪しまれます。僕は「気分がよくなってきたから明日からは学校に行く」と言って、両親を安心させました。
この三日間、お昼や間食を買うために外出していました。もしあの女がうちの生徒であるなら授業のある時間帯は出てこないだろうと考えていたからです。ですが、実際に外に出ていろいろ行ってきましたが、どういうわけかふと、誰かに「見られている」ような気がしていました。その度に背筋がむずむずして、不快感に苛まれます。そしてそれは至る所で起こっていました。公衆トイレ、公園やコンビニ、そして家の玄関でさえも――
「もう四時か……」
あるゲームのプレイ動画を一通り見終わった時、部屋には橙色の光が差し込んでいました。今日もAからの返信はありません。僕はパソコンの電源を切ると、机の脇に押しやられた教材の山に目が向きました。こうして休んでいる間に授業はどんどん進行し、クラスメイトは志望校合格へ刻々と近づいています。それなのにこの三日間、自分はいったい何をやっているのか? 授業に出ていない分は家で勉強すればいいと高をくくっていましたが、この体たらく。
「浪人しよっかな」
そんなことを呟いてみる僕。自分は悪くない、学校の教え方が悪い、一年余分にやれば自分だって、と考えているとふと小腹がすきました。
僕は着替えると、自転車にまたがりました。
すっかり陽は沈み、駅前の商店街には木枯らしが吹いています。駐輪場に自転車を停め、僕は上着の襟を立て直しました。コンビニへ向かう途中、いくつもの広告が目に入ってきます。
難関大学、絶対合格!
志望校は譲らない!
道行く高校生が口にするのは模試の判定や、受ける併願校の名前ばかり。僕は急いでコンビニへ向かいました。
「いらっしゃいませ」
蛍光灯に照らされた店内を循環し、冷たい外気を押し出す暖かい空気。ホッと一息ついた僕を女性店員の明るい声が迎えます。ショートボブでコンビニの制服をきっちり着こなした彼女がにっこりと営業スマイルを僕に向けました。それがマニュアルにのっとった機械的なものだとわかっていても、ついつい頬を緩めてしまいます。僕はキャンディー、チョコレート、ポテトチップス、と次々と手にとっては買い物カゴへ放り込んでいきました。
次は飲み物です。ガラス戸の取っ手を引いて、冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを取っていきます。
「これだけあれば充分だろ」
好物の炭酸飲料をいくつか放り込み、ガラス戸を閉めます。
乱暴に閉めたからでしょうか。在庫が少ない列のペットボトルが一本、ガコン、と倒れてきました。放っておいてもよかったのですが、胸の内に沸々と後ろめたさや罪悪感が湧いてきたので、仕方なく再度ガラス戸を開けました。そして倒れたペットボトルに手を伸ばし、
と、そこで僕は手を止めます。元に戻すのが面倒になった、という類のものではありません。おかしいのです。
冷蔵庫はひんやりしているはずなのに、どうして手を伸ばした先は生暖かいのか?
奥から空気が吹き付けてくるというよりも、まとわりついてくるようなこの感じは……ッ。
思わず手をひっこめました。支えを失ったガラス戸がひとりでにバタン、と閉まります。僕は右拳を左手で覆い、冷蔵庫の奥へ視線を向けました。
前へ、後ろへと単振動を繰り返す、倒れたままのペットボトル。その向こうから、見えない何かが漂ってきているように見えます。右手はなんだかねっとりとした感覚を覚えており、気持ち悪いことこの上ありません。
冷蔵庫を挟んだ向こうに誰かがいる。
その場で数秒間立ちつくしていましたが、やがて「気のせいだ」と考えるようになりました。気のせいにしたいのです。僕は冷蔵庫から視線をそらし、レジへ向かいました。一歩一歩と足を進めるその間、ずっと背筋にチクチクとした、あの感覚が。
「ありがとうございました」
会計を終えた僕は急ぎ足で駐輪場へ向かっていました。にもかかわらず、先の店員の表情は頭から離れようとしてくれませんでした。
引きつったような笑みと、微かに震える髪。彼女の目はチラチラと僕を、というより僕の背後を見ては目をそらし、見ては目をそらし、と繰り返していました。
彼女が何を見ていたかわかりませんが、あの何かに怯えた、丸くて大きな目がすごく印象的でした。それだけに彼女が見ていた自分の背後というものが恐ろしく思うようになったのです。あの時、僕の後ろには何かがいたのです。自転車に飛び乗ると、僕はペダルを強く踏みました。
ペダルを勢いよく漕いでいくうちに、閑静な住宅街に入りました。どの家も室内の光が漏れないようにカーテンで遮っており、十メートルごとに立っている街灯の、冷たく白い光だけが道路を照らしています。そのため駅前の煌びやかな商店街と違って、視界はあまり良好ではありません。街灯が映し出す光の丸が暗い夜道に並んでいるだけです。
夜風に当たっていたおかげか、右手の不快感はすっかり消えていました。背筋からも悪寒のようなものは無くなっています。
もう大丈夫だ。
僕は肩の力を抜きました。ここはあのコンビニからだいぶ離れています。あの何かがたとえオリンピック選手並の速さで走れたとしてもそう簡単には追いつけないでしょう。そもそもこの長距離をコンスタントに自転車並みの速さで走り続けることが出来る人間は普通いません。いたら、それは人間ではありません。超人です。
「超人」と口に出してみた途端、プッと笑い声が僕の口から吹き出てきました。くくくとそれは笑いを堪えた声になり、やがて笑いとなりました。なんだかおかしくなってきたのです。僕はいったい何をこんなに恐れて、何をこんなに必死になっているのか。自分が馬鹿みたいに見えます。馬鹿であることは間違いありません。
笑いながら自転車を走らせる僕は川沿いの道に出ました。傍から見れば十分に不審者ですが、もうそんなことどうでもいいように思えます。
僕はT字路を右に曲がりました。
バババババ、と突然発狂したかのような、けたたましいエンジン音が僕を「現実」に引き戻しました。
向こうから何かがやってきます。
原付バイクです。丸い旧式のライトが点いたり消えたり、エンジンに合わせるように断続的に点滅しています。
かなり非常識な原付です。そして、僕は目を凝らして、それのさらなる非常識に「あっ」と叫びました。
運転手はヘルメットを被っていませんでした。長い髪をばさばさとたなびかせています。エンジンの振動で身体全体が、とりわけ顔ががくがくと大きく揺れ動いています。それはさながら壊れかけた、機械仕掛けの人形。
あの女です。
笑っています。目と口を大きく歪ませながら。
わかりません。まったくわかりません。何がそんなに嬉しいのかさっぱりです。
悲鳴を上げる僕を嘲笑うように、彼女は原付のエンジンをより一層轟かせます。ガガガガガ、それはエンジンというより彼女そのものでした。
このままでは殺されてしまいます。彼女はもう目の前に迫ってきています。いつもと全く同じ笑みを浮かべて。
Uターンで先ほどの曲がり角に戻る暇はありません。一か八か。僕はとっさに自転車のハンドルを大きく切り、車体を傾けます。
ほんの一瞬でした。
原付は自転車の横を掠ることもなくあっという間に通り過ぎて行き、間一髪で彼女の猛進を避けることに成功したのです。
道路に倒れた僕は急いで立ち上がり、自転車を起こして逃げる態勢を整えます。あの女はUターンして戻ってくるに違いありません。ぐずぐずしている暇は、
「あ、れ?」
いつからでしょうか? あのけたたましいエンジン音はいつの間にかに消えています。僕は彼女が走って行った方向へ目を向け、唖然としました。
いないのです。
向こうまで続いている、目の前の道路の何処にも彼女の姿どころか影すら見当たらないのです。すぐそこの角を曲がったようにも思えません。あの原付は間違いなく直進していました。自分の横を通り過ぎた後もしばらくはエンジンを轟かせていました。それなのに、まるで初めから何もなかったような、この静けさはいったい……。
川のせせらぎが先ほどの出来事はすべて夢だと言っているようでした。
背筋にぞわぞわっと悪寒が走ります。コンビニ内で感じた、あれです。後ろを振り返ってみますが誰もいません。ですが、背筋のあれは消えません。
一刻も早く家に帰らなければ……!
僕は自転車に飛び乗ります。
家に向かっている間、不快感は消えることはありませんでした。むしろ僕を圧迫してくるくらい、ますます強くなっていきます。
あの女が見ています。ずっと僕を。
「外に出たら殺される、殺される、殺される」
気付けば、カーテンの隙間から日光が差し込んでいました。帰宅後、理由も言わず自室に閉じこもってから、かなりの時間が経っているわけですが、僕には一瞬のように感じます。
今日は仮病をやめると決めた日です。今日こそは学校に行くつもりでした。が、いざ外に出ようとしても昨日の出来事がフラッシュバックして、ドアノブを回すことすら出来ません。なので、僕は制服を着たままリビングをうろついていました。
Aからの返信はまだありません。いえ、返信できないような状態なのではないかと思っていました。自分同様、あの女に目をつけられ、執拗な嫌がらせを受けているに違いありません。いえ、もしかしたら行為がエスカレートして。最悪の場合……。
僕は受話器を取り、壁に貼り付けたクラスの連絡網を見ながら番号を押していきます。
プルルルルル、プルルルルル……
「早く出ろ、早く出ろ」
僕は受話器を耳に押し当てながら、相手が出るのを待ちます。無意識にリビングの窓の方へ視線が行ってしまいます。こうしている間に彼女が来たらああああ。
「もしもし、Yです」
受話器から聞こえてきた、担任の先生の声を聞いて僕はひとまずほっとしました。ぐずぐずしている暇はありません。僕は急ぎます。
「すいません、先生。誠に勝手ながら、今日の授業を休まさせてください。現在、両親は仕事でいないので僕が連絡をします。身体の具合が良くなりました。今日から学校に行けると思っていました。でも、そういうわけにはいかなくなりました。定期試験が終わった三日前、僕はある人にストーカーされているんです。病気で休んでいる間もずっと見てきますし、昨日に至っては原付で」
「おい、ちょっと待て。落ち着いて」
「これが落ち着いてられますか! 僕はあの化け物に殺されかけたんです。そいつはうちの高校の生徒です。黒ずんだコート着て、脂べたべたの髪をした、気持ち悪い女です! うちの高校は『規律ある文武両道の進学校』でしたよね? なんで、あんな奴野放しにしているんですか? あいつはうちの学校にとって害悪以外の何物でもありません。とっととあいつを退学にするなり、刑務所に送るなりしてください! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」
最後の方は何を言っているか自分でもわからなくなってきたが、とにかく僕はまくしたてました。しかし、先生からの応答はありません。無言です。僕は続けます。
「先生、たしかに生徒を退学にさせるのは簡単ではないのかもしれません。ですが、現に僕の友人が被害を受けているんです!」
「何?」と先生の声色が変わります。
「いったいどういうことだ? 詳しく言ってみろ」
「はい。三日前、僕は友人のA、B、Cと一緒に帰っていました。その時、Aが僕に言いました。あの女が僕を見ている、と。見てみると、さっき話した気味の悪い女がいたんです。すごい不気味な笑顔をしている奴です。その時はそれで済みましたが、その日からA,B、C、と会うことはおろか連絡が一切取れないんです。家の方に電話しようと思っていても彼ら三人は他クラスなので連絡網に番号がありません。きっとあの女が何かしたんです。殺したんですよ! たぶん、いえ、絶対そうに決まっています。僕も殺されかけました。昨日、夜に外出していたらまたあの女に遭ったんです。ただ、向かい合ったわけではありません。女は単車に乗っていたんです。それもエンジンをうるさくしながら、僕の方に突っ込んで。危うく轢き殺されるところでしたよ。あんなやつを放置してはいけません。今に僕以外の生徒にも危害を加えてきますよ。何かしらの手を打ってください。手遅れになる前に。今すぐに!!」
興奮のあまり、口下手な僕は息を切らしていました。
言いたいこと、言わなければいけないこと全て話しました。
あとは先生の返事を聞くだけです。
僕は黙って待ちます。受話器から先生の声が聞こえてきたのはその数秒後でした。
「なあ、そのA,B、Cは何組にいるんだ?」
「二組です。僕の隣のクラスですよ。それがどうかしましたか? 早くあの女を」
「いいか。とりあえず落ち着け」
まるで危機感が感じられません。
僕は無性に腹が立ってきました。
「落ち着け? こんな非常時によくそんな悠長なことが言えますね。いったい何を考えているんですか?」
「いいから」
「いいも悪いもありますか! どうにかしてください。このままじゃ殺されます。殺されるんです! 早く助けて」
「落ち着けと言っているだろうが!」
突然の怒鳴り声に、僕は思わず受話器を耳から離します。そのおかげか、少し頭を整理することが出来ました。
そうだ、落ち着かなければ。こういう時だからこそパニックになっちゃいけないんだ。僕は二、三、深呼吸をします。
落ち着け、落ち着け。すう、と空気が肺を出入りしていくうちに僕の身体は幾分か静まりました。
「すみません。もう大丈夫です」
「そうか」先生はしばらくしてから、ゆっくりとなだめすかすように言いました。
「今から話すことを、落ち着いて、よく聞いてくれ」
「はい」
僕は受話器に押し当てている耳に意識を集中させます。こういった非常識なことが起きた場合、どう対処すればいいのか。人生の先輩、指導者とも言える彼の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、受話器を握る手に力を込めました。
そして、先生は言いました。
「何なんだ、他クラスって。お前たちの代は一クラスだけだったじゃないか」
「……はい?」
想像もしていなかった言葉が聞こえてきました。お前たちの代?一クラス?
「何を言っているのかわかりませんが」
「誰だ、そのBやCというのは。お前の友達か? うちの生徒か?」
「そうですよ。いつも一緒に登校して、いつも一緒に帰って、いつも一緒に遊んで」
「そんな卒業生はいないぞ。うちの学校には」
今度は卒業生。混乱する僕をよそに先生は続けます。
「なあ、ひょっとしてお前のその友達っていうのは――」
駄目だ、話にならない。なんだか馬鹿らしくなってきました。
「そうですよね。出来の悪い劣等生の戯言は聞く耳持たず、ですよね」
自嘲気味に言うと、先生は「いや、そういうわけじゃ」と今頃になって慌てだしました。
「もういいです。先生には失望しました。やっぱり学校なんてあてにならない! 初めから警察に連絡しておけば」
よかった――そう喉まで出かかったところで、僕は息を飲みました。窓を凝視したまま、身体が固まってしまいました。窓の向こうに見える、この家の駐車場。そこには僕の自転車が停められています。そして、その横には普段見かけないものがありました。あの女の、原付です。
「おい、A。大丈夫か? おい!」
受話器が手からすべり落ちます。
もうだめだ。遅すぎた。
逃げなくては。二階の自分の部屋へ。
僕は床に落ちた受話器を拾うことなく、這うようにしてその場から離れました。受話器からは先生の声がかすかに聞こえてはいましたが、もはやどうでもいいです。
「親御さんからは高認とって大学生になったと聞いたが、どうだ? 大学は上手くやれているか? もしそうでないなら高校に来い。何かしら助けてあげられるかもしれない。おい、A.聞いているか? おい!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
駅にいる薄汚いホームレスのような悪臭が室内に充満しています。もはや自分の部屋なのかわからない空間の中で僕は床に額を押し付け、ひたすら謝っていました。なぜ謝っているのかわかりません。ただ、他にしようがありません。だから、僕は謝っていました。
「ごめんなさい、何でもしますから命だけは助けてください。お願いします」
臭いが急に強くなりました。
顔を上げると、文字通り目と鼻の先に彼女の顔が。
「うわああああああああ」僕は悲鳴を上げて、部屋の隅へと逃げます。尻餅をつきながらも逃げようとする僕を、彼女はぴったりとついてきます。自分の顔を僕の顔から距離を離さないように。
逃げ場を失い追い込まれた僕はわめきながら、彼女の顔を払いのけようとします。何度も彼女の顔をべち、べち、と引っぱたきます。その度にべたべたした肌の感触が手に染み込み、どんどんと自分が腐っていくように感じてきました。彼女はびくともしません。
やがて体力を使い果たし、僕はついに壁にもたれかかりました。もちろん目の前には彼女の顔があります。長年磨いていない黄色い歯、べたついた肌や髪、そして怖いくらい吊り上がった笑顔。鼻はすっかり 馬鹿になり、臭いはあまり気にならなくなりました。
最後の力を振り絞って僕は叫びました。
「何が、何がそんなに可笑しいんだよ!」
彼女は何も言いません。
彼女はずっと笑っていました。
〈笑〉
読んでいただきありがとうございました。