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青年は昼夜を往く


「何か飲む?何が好き?」

席につくと、シンディーは革張りのメニューを僕に見せながら言った。

「一番安いので」

僕の答えに、シンディーはむっとした顔をして、でもすぐに笑った。

「私の奢りだって言ったでしょ。お酒は飲める?」

「飲んだことないんだ。やめておくよ」

「そうなの」

シンディーはお酒が載っていたらしいページをパラパラッと捲って飛ばした。

「あなたいくつ?」

「たぶん18」

「なぁに”たぶん”って。名前はあっさり教えてくれたのに歳は教えてくれないの?」

シンディーは責めるというよりもからかうように笑って言った。彼女の目は笑うと三日月の形になった。エメラルドの月だ。

「ごめん。物心ついたときには家族がいなかったから、誕生日がわからないんだ」

正直に答えれば、笑顔だった彼女の顔が曇った。失敗したと思った。

「そうなの。…ごめんなさい。悲しいことを聞いたわ」

「いいんだ。家族はいないけど、仲間がたくさんいたから寂しくなかったよ」

シンディーの顔に笑顔が少し戻ったが、まだ心配そうだった。

「寂しくなかったの?あなた、見た目よりずっと逞しいのね」

「逞しい、のかな?元々いない人に対して”寂しい”って感情は抱けないだけだよ」

ちょうど通りすがったウェイターに、彼女は二人分の飲み物を注文した。

「私は17よ。あなたが本当に18だったら一つ違いね」

「そうなんだ?仕事仲間以外の歳が近い子とこんなに長く話すのは初めてだから、嬉しいな」

ピンクのテーブルクロスに視線を落としながら言った。テーブルの上にあるキャンドルの炎が、クロスに影をゆらゆら揺らしていた。

ふと視線を上げると、悲しそうな表情のシンディーと目が合った。

「ここでそんなこと言うの、あなたくらいよ」

泣きそうな笑顔だった。

「嘘がない人ね」

彼女の言葉に、僕は首を傾げた。

「目がとても綺麗だもの。新月の夜の闇みたいに濁りのない、綺麗な真っ黒な瞳ね。嘘をついたことなんてないでしょう?」

間近で彼女からじっと見つめられると、息苦しくなるような感じがして目を逸らしてしまった。

「嘘をつくとすごく悪いことをした気分になるから嫌なんだ」

「その言い方からすると、嘘をついたことはあるのね?」

「あるよ。仕事で失敗したときに、どうしても叱られるのが嫌で咄嗟に誤魔化しちゃったんだ。そしたらすぐに『目が泳いでる。嘘をついたな』ってもっと怒られちゃった。もう嘘は懲り懲りだよ」

「あはは!」

シンディーは口を押さえながら大笑いした。見た目より大胆に笑う子なんだなぁ。

「本当に素直な人ね。本当に18歳?子供みたいに純粋ね」

どう反応したらいいかわからずそわそわしていたら、

「やだ。今のは褒めたのよ。失礼に聞こえたかしら?」

と彼女が言ったので、慌ててクビを横に振った。不意に彼女はテーブルの上の僕の手に触れた。手の甲に浮き出た筋をなぞる。

「手はちゃんと大人ね」

彼女の真っ赤な唇がきゅっと弧を描いた。僕とは正反対な卵のように白く滑らかな彼女の手に少し驚く。爪が赤かった。

「爪、怪我してるの?」

「え⁉︎」

彼女は慌てて自分の目の前に手をかざして見た。念入りに角度を変えて確認した後、首を傾げた。

「怪我なんてしてないわ」

「爪が赤いよ?」

僕の顔と自分の手を交互に見つめ、彼女は唸ってから「ああ!」と声をあげた。

「もしかしてマニキュアのこと?やだ、見たことないの?こういうお洒落なのよ。お化粧と一緒」

「ごめん、オケショウもよくわからない」

それを聞いたシンディーは眉を八の字に下げた。

「とにかくこれは怪我じゃないわ」

シンディーは僕に見えやすいように手をテーブルに置いた。見れば見るほど、ゾッとするほど赤い。白い彼女の手に浮くほど赤い。

「そうねぇ、なんて言えばいいかしら?そう、赤い絵の具みたいなものを塗ってるのよ。お化粧もマニキュアも、女の子が自分を綺麗に見せるためにしてるの」

「赤だと血みたいでドキッとするよ。赤じゃないと駄目なの?」

「違うわ!」

シンディーはまた大笑いした。

「赤は私が好きな色なの。皆が皆赤いお化粧やマニキュアをするわけじゃないわ」

彼女は自分の赤いワンピースやカチューシャを示しながら言った。

「赤は綺麗で好きよ。あなたは血みたいって言ったけど、林檎やサクランボや苺だって赤いわ」

「ああ!そういえばそうだね!」

僕が驚くと、彼女はまた声に出して笑った。

「そうかぁ。君に言われて気づいたけど、赤って可愛い色なんだね」

「受け取り方の違いよ。さっきの貴方みたいに血の色だから嫌いって人もきっといるわ」

彼女は真っ赤な唇を尖らせた。赤い唇はオケショウというやつなんだろうか。

「貴方は何色が好きなの?」

彼女からの質問に僕は視線を宙に彷徨わせた。高い天井から月や星を形どったライトがぶら下がっていたことに、今気づいた。

「あまり考えたことないなぁ」

困ってそう漏らしながら視線をシンディーに戻せば、彼女は頬杖をついて楽しげに僕を見つめていた。何か答えなければ、と思った。

「夜空の色は好きだよ」

「黒?紺色?」

「白い星がキラキラしてる黒い空だよ」

「色じゃないわ。複雑すぎるもの」

彼女は頬を膨らませた。「リスみたいだね」と言ったら、彼女は吹き出すように笑った。

「私も夜空の色は素敵だと思うわ。明け方の紫の空も。空の色は移ろいやすいわね。貴方はそうじゃないといいけど」

彼女の言葉が理解できず首を傾げると、

「意味がわからないうちは安心ね」

彼女は不敵な笑みを浮かべた。


シンディーと他愛もない話をした。好きなものの話、苦手なものの話…いろんなことを話した。それは一時間にも数十秒にも感じる貴重で楽しい時間だった。

しばらくすると飲み物が運ばれて来た。ウェイターが静かに僕と彼女の前にグラスを置く。

「うわぁ。面白い色。初めて見た!」

僕を見て、彼女は「ふふ」と笑った。僕の前には青い色の半透明の飲み物、彼女の前には赤い色の半透明の飲み物が置かれていた。

「貴方のはブルーレモネード、私のはチェリージュースよ。貴方きっと青が好きだと思ったんだけど、外れだったわね」

「ううん、ありがとう!好きだよ」

彼女は一瞬目を丸くした後、ふわりと笑った。

「コーディー」

不意に彼女が僕の名前を呼ぶ。僕はドキリというよりギクリとして、彼女をただ凝視する。そんな僕に、彼女もびっくりしてしまったようだ。

「え?何?そんなに驚くこと?」

ただ名前を呼んだだけよ、彼女はそう言って困ったように笑ったが、僕は自分の心臓がドクドクと暴れているのを感じていた。

「前にどこかで…会った…?」

混乱する頭のまま質問すれば、彼女は不思議そうな顔で2、3回瞬きした。そして、すぐに笑い出した。

「貴方って本当に面白いわ!今度はナンパ男のモノマネ?」

ナンパという聞き覚えのある知らないワードが気になりつつも、僕の言葉を冗談だと思ったらしい彼女に慌てて弁解する。

「違うよ。笑わせようと思って言ったんじゃない。本当にー…」

「シンディー!」

遠くからシンディーを呼ぶ男の声。見れば、あの受付係りの髭の紳士がシンディーを手招きしていた。

シンディーは小さく溜息をつき、僕に微笑んだ。

「ごめんなさい。お得意様が来ちゃったみたい。もう行かないと」

彼女は席から立ち上がり、去り際に僕に何かを差し出した。

「もしまた来る機会があったら私を指名してね。他の女の子を選んだら妬くわ」

ハート型の真っ赤なカードに白字で”Cindy”と印字されていた。それを僕は「うん、また」と言いながら受け取った。

僕がシャツの胸ポケットにそのカードを仕舞うのを見届けると、シンディーは満足そうに笑む。

「さよなら」

シンディーはすぐに店の奥へと消えてしまった。

テーブルの上には飲みかけのグラスが二つ。氷が溶けてだいぶ色が薄くなってしまったそれを口に運ぶと、酸っぱくて甘い、味わったことがない味がした。



ショーハウス”夜の夢”を訪れた翌日は、なんだかいつもより早く目覚めてしまった。いつもなら昼の12時過ぎに目覚めるのに、10時半には僕は皆が自由に過ごしている大広間に降りて行った。途中の階段でヴィンセントとすれ違った。目が合うとヴィンセントは眉を下げて笑った。珍しいその笑い方に、僕は違和感を抱いてしまった。ヴィンセントはいつも自信有り気に笑うのに。

「どうかしたの?」

僕の率直な問いに、ヴィンセントはふぅと息をついた。溜息というほどは呆れていない。

「今日は随分早いんだな」

「目が覚めちゃったんだ。ヴィンセントはいつもこんなに早く起きてるの?」

「不眠気味か?あまり酷かったら博士に薬を処方してもらえよ」

ヴィンセントは僕の質問には答えず、そう言った。僕は慌てて首を振る。

「いや、そんな大袈裟なものじゃないよ。今日はたまたま目が冴えて」

「だよな。お前はストレスなんかなさそうだし」

いつもの自信有り気な笑みに戻ったヴィンセントに「ありがとう」と伝えると、彼は「今のは貶したんだよ。たまには怒れ」と言った。

僕が反応に困っていると、ヴィンセントは階段を登り始めた。

「博士に呼ばれているんだ。また夜、仕事のときにな」

「うん、またね」

脇目もふらず真っ直ぐ階段を登り博士のいる最上階へと消えるヴィンセントの背中を、僕は見えなくなるまで見つめていた。


「昨日は楽しめたかよ」

まだ寝惚け目なゴドフリーはコーヒーをちびちび飲んでいた。

「うん、思っていたより女の子は恐くなかったよ」

「フハッ!」

近くに座っていたハリーが笑った。

「相変わらず笑い方がキモチワリーなテメーは」

ゴドフリーが呆れたようにハリーに言う。

「よかったじゃねぇか。お前に女を見る目があったってことだぜ?女は大体恐いからな」

ハリーは楽しげだった。

シンディーとの時間を思い出す。よくしゃべって、よく笑う子だったな。僕より一つ年下かもしれないのに、不思議と大人びて見えた。そんなこと言ったら彼女はきっと僕が幼すぎるって言うんだろうな。

「よく笑うし、たまに切なそうにもするよね」

思い出したことをそのまま二人に伝えた。

「それは商売女だからだろうな」

そう言ったハリーを、ゴドフリーは無言で睨んだ。ハリーの言った意味がわからずゴドフリーを見たが、また気にしないように言われそうだからさっと視線を逸らした。

「また来る機会があったら彼女を指名してって言われたんだ」

「そうか。あそこは3回行かねぇと会員証出ねぇんだよ。だから残り2回俺か誰か他の会員証持ってる野郎に連れてってもらわねぇとな」

ゴドフリーの説明を聞いて、ショーハウスの制度って複雑なんだなぁと思った。

そのとき、僕らのいるテーブルがふっと翳った。視線を上げると、ゴドフリーの背後には岩山のような大きな体の男が立ち、僕とハリーの背後には細身の男が立っていた。

「俺が連れてってやろうか」

細いのにやたらドスのきいた声を出した僕の背後の男はそのまま僕の隣に腰を下ろした。乱暴に腰掛けたので、椅子が喧しく音を立てた。

「…ナタン」

向かいのゴドフリーが緊張の面持ちでそう呟いたことで、やっと僕の隣の人物がナタンだとわかった。いや、それともゴドフリーの背後の岩山がナタン?

「俺がナタンだ、タコ野郎…っ」

僕の視線の動きで察したのか、隣の男は早口で言った。ああ、こっちがナタンでよかったのか。改めて隣を確認すると、少し癖のあるウェーブがかかった黒髪で、琥珀色の眼で忌々しげに睨むナタンと目が合った。目つきがあまり良くなく感じるのは、彼の目が三白眼なせいかな。目の下にはクマも湛えて、僕なんかよりよっぽど睡眠薬が必要に見えた。僕らと同じスーツのワイシャツは第一ボタンまできっちり留められ、トルコ石を使った十字架のネックレスを首から下げていた。

「話があんだよ。メシ一緒に食おうぜ」

ナタンの言葉に僕が「喜んで」と返事をしたら、テーブルの下でゴドフリーに脚を蹴られた。


-続-

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