夜を駆る青年の夢
夜の闇はどこまでも深い。肺の奥底まで凍りそうな冷たい空気を吸う度、夜を感じる。「真珠を砕いて散りばめたような星空」と表現したのは博士だったか、ヴィンセントだったか。記憶が曖昧だ。
夜は暗い。怖い。底知れない。でも、僕は夜しか知らないから夜しか愛せない。不安なのに夜にしか頼れない。
僕たちは夜に生きるコソ泥だ。
「奴を捕まえるまで休めると思うな!追え!」
しんとした闇夜に響き渡るヴィンセントの命令に駆り立てられるように、僕たちはアスファルトを走り続けた。追っているのは犯罪者の男1人。罰を受けさせるために追っているんじゃない。僕たちは彼の涙が欲しいだけ。
今夜のターゲットはなかなか粘り強い。走り続けたため少しずつ息切れし、自分の呼吸音が聞こえる。それに混じって何かが聞こえた。最初は小さくて何かよくわからなかったそれは、聞いたことがない誰かの声だった。
「コーディー」
優しく美しい声。誰だろう。ごめんなさい。僕は君を知らない。何度も何度も僕を呼ぶ優しい声が聞こえた。でも返事はできない。君が誰だかわからないから。知りたい。誰なんだろう。
「あっ」
声に意識をやっていたせいで、僕は盛大に転んだ。転んだ僕を一瞬呆れや落胆、驚きの入り混じった目で見ながらも、仲間たちは僕に構わず走り続けた。
「コーディー!ああ、くそっ」
僕をよく気にかけてくれるゴドフリーだけは足を止め僕を振り返ってくれたが、すぐにまた走り出した。皆走り去ってしまい、その場には僕だけが取り残された。人気のない深夜の港は、僕たちだけが雑音だったようですっかり静かだった。僕はただ呆然とアスファルトに仰向けになり、星空を見つめた。吐き出す息が白かった。
「コーディー」
皆行ってしまったと思っていたけど、さっきの声とは違う聞き慣れた声が僕を呼ぶ。仰向けのままの僕の視界に、ヴィンセントが現れた。ヴィンセントは無表情に僕を見下ろしている。
「お前は俺に何度くだらない注意をさせる気だ?」
いつもより声が低い。無表情のようで目の奥に不機嫌が滲んでいる。完全に僕の失態に怒っているとわかった。
「ごめんなさい」
「お前の”ごめんなさい”は聞き飽きた」
「言い訳をしてもいい?」
「許してもらえると思うな」
「わかってるよ。ただ聞いてほしいだけなんだ」
ヴィンセントは溜息を吐いて、月の色に似た金髪を気だるそうにかき混ぜた。数少ない街灯を反射して、彼の赤いピアスが光る。
「耳元で優しくて綺麗な声がしたんだ。誰かはわからない。聞いたこともない。でも、なんだか懐かしい気持ちになるような」
さっき聞こえた声について精一杯説明したが、ヴィンセントはつまらなそうな顔のままだ。
「優しくて綺麗?女か?」
「わからない。僕、女の子のことはよく知らないから」
ヴィンセントはやれやれと言う風にまた溜息を吐いた。
「よく知らなくても男か女かくらいはわかるだろ」
「……ごめん、自信がない」
ヴィンセントはいよいよ呆れたのか一際大きな溜息を吐くと、視界からさっと消えた。僕は慌てて起き上がってヴィンセントを探したが、思ったよりもすぐにヴィンセントの姿を見つけた。然程離れていないところで、ヴィンセントは僕に背中を向けて立っていた。十字架が突き刺さった月は涙を流し、”Good Night”の文字がその上に浮かぶ。僕らの黒いスーツの背に刺繍されているのがそれらだ。月明かりに照らされたヴィンセントの背中にも、もちろんそれらはあった。
「博士の意向か何かは知らないが、」
ヴィンセントが僕に背中を向けたまま言う。
「お前は何も知らなすぎる。厳しい言い方をすれば世間知らずだ」
「うん、そう思う」
僕は素直に頷いた。ヴィンセントの言うことはいつだって正しいからだ。
「これから先、ターゲットが女になるときもあるだろう。そんなときに”よく知らない”では困る。遊びでもいいから女のことは知っておいた方がいい」
「遊びって、内容は自由?女の子とトランプとかジェンガとかすればいいの?」
僕の言葉に、ヴィンセントは目を見開いた。そして、また溜息を吐き、面倒臭そうに目を片手で覆う。
「詳しいことは他の奴に聞け。俺はもう休む。お前も今日は寝床に就くといい」
「でもまだターゲットが、」
最後まで言う前に、少し離れた空に閃光弾が上がった。
「お前以外の奴らが無事捕まえてくれたようだ。今夜も博士の期待を裏切らずに済んだ」
ヴィンセントは笑顔のまま、
「お前以外は」
と付け加えた。僕はただ、
「ごめんなさい」
とうな垂れた。
「お前みたいな奴を、クソの役にも立たねぇって言うんだぜ」
「ごめん」
夜食を頬張りながら、ゴドフリーはフォークで僕を指し示した。
「大体、お前みたいな失敗しかしねぇような奴が厳罰も何も無しで済んでんのが奇跡だぜ。前から思ってたけどよ、お前ってヴィンセントに好かれてるよな?」
「好かれてるんじゃなくて、諦められてるだけじゃないかな」
自虐気味に言うと、ゴドフリーは笑った。
「なるほどな。それだったら納得だ。俺たちなんか所詮無駄に口が達者な消耗品なんだからな。取り返しのきかない失敗すりゃあポイだぜ」
僕と目が合うと、
「お前はラッキーなだけだ」
とゴドフリーは付け加えた。フォローしてくれたんだと思う。
ゴドフリーは夜食のミートボールスパゲッティをがつがつと食べ続ける。フォークに容赦なくぐさっと刺され口に運ばれるミートボールを、僕は黙って見つめていた。
ここは月涙夜盗・本部。
ヴォルフラム博士が身寄りのない孤児たちを掻き集め設立した秘密結社
だ。所属しているメンバーは博士を除いて18〜25歳ほどの青年たち。僕も含めここにいる皆は、博士に拾われた当初はいわゆる少年というくらいの年齢で、かつては博士の身の回りのお世話や雑用だけをしていた。しかし、皆が18歳を迎えたのを機に月涙夜盗は発足した。僕たちの仕事は、博士の発明のために悪夢から流す涙や悪人が流す涙を収集すること。博士が僕たちに指示している行動理念は“常に紳士然と”だ。僕たちは皆、背中に月涙夜盗のトレードマークが入った黒いスーツに身を包み、胸ポケットにはそれぞれのレベルに応じてブロンズか銀の懐中時計を入れている。レベル分けは各々の仕事の成果によって一年に一度博士に判定される。レベルは名前で一目、または一聴瞭然。アルファベット順で早い頭文字ほどレベルが低く、後ろの頭文字ほど重役ということ。僕はコーディーでCだから、月涙夜盗で一番下だ。ゴドフリーはGだから中堅より少し下。ヴィンセントはVで、僕たちの中でトップ。更に、レベルで約10人単位の小隊に分けられ、仕事はその小隊ごとに違う。僕が所属する新月隊はレベルが下の青年たちで構成されているため、隊長は最優秀のヴィンセント。中堅の三日月隊の隊長は気難し屋のナタン、優秀な満月隊の隊長は大らかなメイナード。他の隊とは仕事がまず一緒にならないから、僕が把握しているのは隊長の人の名前くらいだ。僕たちは昼間は休み、夜に行動する。それぞれが好みの武器を持ち、ターゲットから涙を盗むのだ。あくまで“紳士然と”。
「ゴドフリー」
黙ってシーフードサラダを食べていた僕の呼び掛けに、ゴドフリーはコップの水を飲みながら片眉を上げた。
「どこに行けば女の子と遊べるかな?」
ゴドフリーは噴水のように水を吐き出した。近くで食事していた同じ隊のハリーたちが「おい!飛んだぞ!」「ふざけるな!」と口々に怒鳴った。
「大丈夫?何か喉につかえたの?」
咳き込むゴドフリーを心配して聞けば、ゴドフリーはちょっと待てと言わんばかりに手を突き出した。
「ごほっ…おい、変なモンでも食べたのかコーディー?」
「今日は朝はサンドウィッチ、昼はパスタ、夜はこのシーフードサラダしか食べてないよ」
自分の手元のサラダを示しながら言えば、「そういう意味じゃねぇ」とゴドフリーは頭を抱えた。
「今まで純粋すぎてむしろ心配だったくらいだけどよ、急にそんなこと言われるとビビるぜ。やっと女に興味が湧いたか?ハリーにでもエロ雑誌見せられたのか?」
ゴドフリーの言葉に、ハリーは飲んでいたコーヒーカップをテーブルに置き、赤縁眼鏡の奥からこちらを睨むだけだった。
「雑誌があるんだね?でも違うよ。興味が湧いたんじゃない」
「『雑誌があるんだね』って…お前って本当に俺たちと同じ環境下で育ったのか疑わしいよな」
「ヴィンセントが『遊びでもいいから女のことは知っておけ』って言ったんだ」
ゴドフリーやハリーたち周囲でそれを聞いた皆は、目を見開いた後爆発するかのように笑い出した。
「ヴィンセント直々にそんなこと言われたのかよ!」
「よかったな、上司直々に女遊び指令される会社なんて世界広しと言えどウチくらいだぜ!」
ゲラゲラ笑う周囲を、僕はぽかんと眺めるしかなかった。そんなに可笑しなことだろうか。ヴィンセントが僕のためを想ってしてくれた助言だと思うんだけど。
「僕にはまだ早いのかな?だから笑ったの?」
「早くはねぇだろ。お前いくつになったんだよ」
「そろそろ19になる頃だとは思うけど…」
僕たちは物心ついた頃から孤児だったから、自分の正確な生年月日を知っている者の方が少ない。
「遅いくらいだよな。卒業させてもらえ」
ハリーがヒヒヒと笑いながら僕の脇腹を小突いた。ハリーの言葉の意味がわからずゴドフリーを見つめれば、「無視しろ」と言われた。
「遊ぶったってどうすんだよ。コーディーに街でナンパでもさせる気か?」
ハリーの向かいに座っていたフレッドが言う。「ナンパって何?」とゴドフリーに小声で聞いたが、「知らなくていい」と小声で返された。
「いきなりレベルが高すぎるだろ。それより、ターゲットが女のときコーディーに行かせればいい」
ハリーが言えば、ゴドフリーが
「仕事じゃ駄目だ。失敗したときに博士やヴィンセントを怒らせるだろ」
と即座に否定した。ハリーもフレッドも「確かに」と頷く。
その場がしんと静まり返る。皆考え込んでいるようで、口を一文字に結び唸っていた。ごめんね、僕のことで。
「”夜の夢”にでも行くか」
ゴドフリーがポツリと言った言葉に、おおーっと感嘆のような声が起こった。
「しょうがねぇな。俺も付いて行ってやるよ」
ハリーが僕の肩をがしっと掴んだ。
「本当?ありがとう」
お礼を言ったらゴドフリーに舌打ちされた。
「来なくていい。コーディーと俺の二人で行ってくる」
「ケチケチするなよ。お前らだけずるいぞ」
フレッドが言うと、周囲で聞いていた他の皆も口々に一緒に行きたいと言い出した。そんなにいい所なのかな。
「大所帯で行ったら目立ってしょうがねぇだろ。俺たちとは別の日に勝手に行けよ」
ゴドフリーの言葉に、その場が落胆の声や溜息で満たされた。
「皆行きたがってたね。そんなにいい場所?」
僕らは深夜に車でショー・ハウス”夜の夢”に向かっていた。ゴドフリーが運転する車の助手席に僕は座っている。
「そりゃあいい場所だぜ。格安のサービスから高級なサービスまで受けられるから、初心者でも行きやすい。女のレベルも高い。この辺りじゃ一番の店だ」
色とりどりのネオンライトにゴドフリーの顔が照らされ、車で通り過ぎる度色を変えた。
「レベル…料理が上手とか、裁縫が得意とかってこと?」
ゴドフリーが怪訝そうな顔で一瞬僕を見た。脇見運転危なくないのかな。
「違うけど、まぁ、そう思っておけよ。そういう女も中にはいるだろうしな」
交差点の赤信号でブレーキを踏むと、ゴドフリーは溜息をついた。
「たく、しばらく車使ってなかったせいか、うちの隊の車バッテリーあがってたんだぜ」
「え、じゃあこの車は?」
ゴドフリーはフロントガラスに貼られているステッカーを見るように顎でしゃくった。ステッカーには”三日月隊専用車”の文字。
「三日月隊の人たちが貸してくれたんだね。後でお礼を言わきゃ」
「お前は暢気でいいな」
ゴドフリーは投げやりに言う。
「満月隊に借りられたらよかったんだが、奴らまだ仕事から帰ってないんだよ。だから仕方なく、三日月隊で一番気の優しそうなリュシアンに頼んだらすんなりキーを渡してくれたんだ。そこまではいい。ただ借りたのがナタンの耳に入ったら面倒だ」
ナタンは三日月隊の隊長で、実力だけならヴィンセントの次に優秀らしい。
「ちゃんと話したことないからわからないけど、ナタンってそんなに厳しいの?」
「厳しいっつうか、丁寧に言えば”こだわりが強い”んだよな。はっきり言えば”性格悪い”」
「ナタンのこと嫌いなの?」
「嫌いってほどじゃねぇけど…いや、お前相手に社交辞令はやめておこう。嫌いだ」
ゴドフリーははっきりと言い切った。
「俺らの上司がヴィンセントでよかったぜ。怒ると恐いが、無茶は言わないもんな」
「そうだね。僕もヴィンセントのこと好きだよ」
ゴドフリーは目をまん丸くした。
「恥ずかしがらずにサラッとそういうこと言えるのはすげぇよな」
何がすごいのかよくわからず、僕は曖昧に相槌を打った。
「しかし、帰ったらうちの車のバッテリー交換しなきゃならねぇし、余計な出費がかさむぜ」
「ゴドフリー」
「ガソリン節約のために車使わなかったのが裏目に出たな」
「ゴドフリー、赤だよ!」
ゴドフリーは急ブレーキをかけたが既に遅く、ゴドフリー側の後部座席に青信号で進んできていた車が勢いよくぶつかる振動と音が響いた。茫然自失なゴドフリーはハンドルを握ったまま固まっていた。
「余計な出費がかさむね」
「お前しばらく黙ってろ」
あの後、すぐに車をレッカーしてもらい修理を頼み、そのまま徒歩で”夜の夢”までやって来た。
「ナタンにバレないといいね」
「バレねぇわけねぇだろ。小言言われる心の準備だけしておけ」
受付でゴドフリーは会員証のようなものを提示して、
「俺は何度か来ているんだが、コイツは初めてなんだ」
僕を指差しながら言った。ゴドフリーに隠れて見えなかった受付係りがヒョイっと首を曲げ僕を見た。くりんとカールした口髭を蓄えた紳士だった。
「どのようなタイプがお好みで?」
受付係りからの質問に、ゴドフリーが僕を見た。
「ああっと…優しくて、怒鳴らない人」
ゴドフリーが頭を押さえた。
「皆優しいですが」
苦笑いの受付係りに、ゴドフリーは言う。
「コイツ店の中一周させてもいいか?気になった女を選ばせる」
「承知致しました。では、ごゆっくりお楽しみください」
受付係りに送り出され、僕とゴドフリーは短い廊下の先のショー・ルームに入った。劇場のような半円形のステージが真正面にあり、そこでドレスを着た女の人がたくさん踊っている。ステージから一段下がり、ステージを取り囲むように無数の椅子とテーブルが並んでいる。テーブルでは客らしき男の人と女の人が話したりお酒を飲んだり、思い思いに過ごしていた。
「ゴドフリー、一緒にいてくれる?」
「はぁ⁈別にワニと握手してこいって言ってるわけじゃねぇんだから、相手くらい自分で見繕えよ」
「僕初めてなんだよ?」
「初めが肝心だ」
がんばれ、と肩を叩き、ゴドフリーは行ってしまった。僕は所在なさげにその辺をウロウロするしかなかった。賑やかなステージでは相変わらずヒラヒラのドレスを身に纏った女の人たちが踊っていて、脚を高く上げる度裾が翻った。目のやり場に困って、目を逸らしたときに誰かとぶつかってしまった。
「きゃっ」
「ごめんなさい!」
高い悲鳴と共にその場に転んでしまった人に謝った。慌てて手を差し出す。
「別にいいのよ。謝るなんて変な人ね」
差し出した手を取らず自力で立ち上がったのは、白いブラウスの上に赤いワンピースを重ね着した、肩までくらいの黒いウェーブヘアの女の子だった。頭には赤いリボンが付いたカチューシャを付け、瞳は緑色だった。肌が抜けるほど白い。
「どうして?悪いことをしたんだから謝らないと」
僕の言葉に、女の子はふふっと笑った。
「笑わせようとしてるのね。成功よ。面白かったわ」
女の子は僕の服が汚れたり皺になったりしていないかチェックしながらポンポンと払った。
「お客様に失礼をしたわ。今日のお会計は私の給料から天引きしてもらうから、お金は結構よ」
「そんな、僕がよそ見してぶつかったのに」
女の子は目を丸くした。
「馬鹿正直な人ね。タダより安いものはないわよ」
「君、ここで働いてるの?」
「当たり前でしょ。客に見えたの?女の客なんてまずいないわよ」
女の子は僕の頭の天辺から足の先まで見て、
「あなた初めてなのね。お気に入りの女の子は見つかった?」
と、楽しそうな声で言った。
「君」
僕は女の子をじっと見つめながら言った。
「君と話したい」
女の子は僕の手指に指を絡めた。強く握ったら千切れてしまいそうなほど、細く白い指だった。
「”君”じゃないわ、シンディーよ」
「僕はコーディー」
名乗ると、シンディーはクスクス笑った。
「すぐに名前を教えてくれた人は初めてよ。やっぱり変な人ね」
笑うシンディーに手を引かれるまま、僕たちは端の方の席に腰を下ろした。
-続-