復讐の誓約
胸を軽く締め付けられる感触によって、拡散していた竜貴の意識がゆっくりと輪郭を得てゆく。
僅かな正気を取り戻し、同時に一縷の願望を抱いて竜貴は背後を振り返った。
「――たか」
の、と言いかけた竜貴の声が途切れた。
肩越しに見えた背後の人物は貴乃よりも明らかに小柄で、しかも銀髪。ただ白衣を着ている、という点のみが貴乃の外見と合致している。
著しくSAN値(正気の度合い)が低下していた竜貴であったが、背後の人物が貴乃ではないと判断するには十分な差異。
背後から竜貴に縋りつき、体を震わせてすすり泣いているのはイリヤであった。
イリヤに声をかけるほどの気力も湧かず、抱きつかれたまま竜貴はのろのろと顔を正面に戻す。
ぼんやりとした眼差しを向けた先では、黒いドラゴンが貴乃を食らったときのように大きく口を開けている。
ドラゴンが二度目のブレスを放とうとしていた。
カッと黒い閃光が瞬き、都市艦上を直線に蹂躙する。乗員が断末魔を上げる暇もなく、戦車が再びブレスに飲み込まれて消滅した。
その光景を、被害を、竜貴は恐ろしいとは思わなかった。
竜貴にとって人生最大の恐怖は既に体験済みであり、それに較べればどのような脅威も苦痛も、たとえ自分の命を奪う存在であっても恐るるに足らない。
(目の前で貴乃を失った瞬間に較べれば――、一体何を恐れる事がある……)
他人が聞けばただの強がり、嘯きだと思っただろう。
しかし竜貴にとってそれは完全な事実だった。もはやドラゴンや身の危険に対する恐怖など欠片も感じてはいない。
代わりにふつふつと湧いてくるのは激甚な怒り。漲る復讐の意志。
竜貴は剣呑に荒んだ眼差しでドラゴンを睨む。
(貴乃を殺しておいて……テメェはのうのうと生きてるだと? ふざけんじゃねーぞ……。殺す、殺してやる。どんな手段を採っても、何に代えても必ず殺す。絶対に――絶対にだ!!)
竜貴は胸中で吼えた。この誓いは必ず果たすと。
(だから落ち着け。冷静になれ。そして考えろ。あのクソッタレのトカゲもどきをぶち殺す方法を――!)
「りゅー……き?」
怒りによって全身を強張らせた竜貴の変化を感じ取り、イリヤが躊躇いがちに名を読んだ。
荒れ狂いそうになる思考を御しながら内面に没頭していた竜貴がハッと正気付く。
イリヤの存在を認識したとき、竜貴の頭に閃くものがあった。
(――イリヤならば良いアイデアを考えてくれるかもしれない)
竜貴は元来、他力本願とは無縁な性向である。というより、自分に出来る事は極力自力で解決するタイプだ。
イリヤに頼ろうと考えたのも楽に逃げた訳ではなく、助力を求めるのが最適だと判断したからである。
平常時ならばいざ知らず、今は悠長に思案している時間などない。
ドラゴンが手の届く場所にいるこの状況が長く続くとは思えないからだ。
あらゆる心の贅肉を削ぎ落とし、ただ最善のみを追求する必要があった。
考えを固めた竜貴は素早く行動に移る。
胸に回されたイリヤの手を半ば力づくに引き剥がして立ち上がり、一歩前に移動してから後ろへと振り向く。
見下ろす形で向けられた竜貴の視線が、泣いて充血したイリヤの瞳を捉えた。
竜貴の殺伐とした雰囲気を敏感に感じ取ったイリヤがビクッと怯える。
大型犬を前に怯える子猫といった様子のイリヤに斟酌することもなく、竜貴は覆い被さるように腰を屈めた。
「ひっ……!?」
息を飲み、暴漢に襲われた婦女子のように身を硬くするイリヤ。
イリヤ視点からすると、竜貴の目が完全に据わっており、異常な状況も相まって貞操の危機だと誤解する余地が大いにある。
竜貴の意図は違うが、傍目には性犯罪直前の絵面であった。
イリヤの反応を無視し、竜貴は強引に彼女を横抱き(所謂お姫様だっこ)にして立ち上がる。
「いっ、いやぁ!」
イリヤは拒絶を露わにして手足をばたつかせる。
ただでさえイリヤは異性に免疫がない。知己といえど何の配慮もなく抱き上げられれば取り乱すのも無理はなかった。
そもそもイリヤは竜貴と特別親しいわけではなく、その付き合いはあくまで貴乃を仲介してのものだ。貴乃というファクターを取り除けば、ぎりぎり知人と言える関係でしかない。
その事実を正しく認識している竜貴は、内心でイリヤに謝罪しつつ駆け出した。
ドラゴンに遭遇するまで通過してきたルートを逆走してゆく竜貴。
目指す場所はイリヤの研究室だ。
都市艦防衛隊との交戦に注意が向いているドラゴンだが、いつ気が変わって再び竜貴たちを狙うとも限らない。
そんな状況ではおちおち相談などしてられないし、良案も期待できないだろう。
いささか強引ではあったが、竜貴の行動は緊急避難として適切だった。
また、避難場所にイリヤの研究室を選んだのは当然理由がある。
それは比較的近場であり、イリヤが落ち着ける環境で、特殊な機材が多数ある(と思われる)からだ。
行きにかかった時間の半分でイリヤの研究室前に辿り着いた竜貴は、抵抗を諦めて大人しくなったイリヤを床に降ろす。
ドラゴンに対する恐怖とは別の意味で怯えきったイリヤはまともに立っていられず、竜貴の支えを失った途端に崩折れた。
申し訳ない気持ちを強めながら、竜貴はイリヤに声をかける。
「突然乱暴にして済まなかった。誓ってイリヤに何かするつもりはないから、安心して欲しい」
「……」
イリヤは無言だが、その表情には安堵の色が浮かぶ。
「あのままだと危険だからな……っと、言い訳はともかく、どうしてもイリヤに助けて欲しい事があるんだ。一方的で悪いが聞いてくれないか?」
竜貴は性急に言い募った。
未だ若干の不審と恐怖を残してはいたが、イリヤは一応の平静を取り戻して聞き返す。
「……何?」
「俺の復讐に手を貸してくれ。貴乃を食い殺したあの黒……クソトカゲをぶち殺したい」
「!」
強い眼差しでイリヤを見下ろし、竜貴は率直に頼み込んだ。
イリヤが驚愕で目を瞠る。
「正確にはそのためのアイデア、アドバイスが欲しい。ああ、実行は俺一人でやるつもりだからそこは安心してくれ」
「……」
「急かして悪いが時間がない。チャンスは今しかないんだ。頼むイリヤ、この通りだ!」
言い終えるが否や、竜貴は勢い良く土下座した。
イリヤは再び驚きを露わにし、腰を浮かせて竜貴へと両手を伸ばす。
しかし竜貴に触れる直前でぴたりと手を止め、悲しげな表情を浮かべてイリヤは手を引っ込めた。
「りゅーき、顔を上げて」
「……頼まれて、くれるのか?」
イリヤの真剣な声に承諾の意志を感じ取りながら、竜貴が顔を上げる。
その時には既にイリヤの表情は一変しており、強い意志が白皙の顔に宿っていた。
コクリと頷いてイリヤは肯定を示す。
「現状、アレを確実に殺せる手段はない。だけど可能性なら提示できる」
「それでいい。教えてくれ」
イリヤの研究室前の廊下で二人は正座して向かい合い、簡潔に言葉を交わす。
外では戦闘が続いているのか、爆発音や地響きが散発的に発生していた。
「アレの防御力は異常。外側から物理攻撃で殺傷するのは現実的じゃない。だから内側、つまり体内への加害が最適。具体的には毒殺と内部爆殺」
「なるほど、道理だな」
「もちろん問題はある。毒にせよ爆薬にせよ、アレに飲み込ませる手段の確立が必要。また、それを成功させても殺傷できるかは未知数」
「ああ。だが後者の問題は気にしなくていいだろう」
何が何でもドラゴンを殺してやる、と固く決意している竜貴であるが、時間や情報が足りてない現状では採りうる手段に限界がある、と理解もしている。
人事を尽くしての結果なら、どんなものであれ受け容れる覚悟が竜貴にはあった。
「うん。とりあえず、道具は私が用意できる」
「つまり、解決すべき問題は前者だけか……」
「私に良案はない。りゅーきに考えて欲しい」
素っ気無い口調とは裏腹に、イリヤの表情は切なげだった。
嘘をついている、と竜貴は直感したが追求しようとは思わなかった。
イリヤの案が言いたくても言えない内容だと悟ったからだ。
「……ああ」
イリヤの顔から視線を外し、竜貴は天井を見上げた。
埋め込み型のLED照明を眺めながら両腕を組んで考え込む。
だがそれは半ばポーズで、実のところ竜貴には既に腹案があった。
それは思いつく限り最も成功率が高いが、命を代価にする捨て身の作戦。
イリヤが考えたのも恐らくこれだろう、と竜貴は当たりをつけた。
貴方の命を俎上に乗せた作戦です、とは確かに提案しづらい。
長考すれば別の良案を思いつく可能性はあったが、それによって失う時間を竜貴は惜しんだ。
(……よし)
竜貴は決断し、腕を解いて顔を下ろした。
イリヤと視線が絡み合う。
まるで内心を見透かそうとするように、イリヤはじっと竜貴を見つめていた。
「方法は考えた。早急に道具の用意を頼む、イリヤ」
「……わかった」
目を伏せて、イリヤは小さな声で承諾した。そして立ち上がり、パスワード入力と網膜認証を経て研究室ドアを開ける。
研究室の中へと消えてゆくイリヤを見送りながら、竜貴は言うべきか迷っていた台詞を飲み込んだ。
(着替えも忘れるなよ、なんて言えないじゃないか……)
親友とは違い、竜貴はデリカシーを知る男だった。