暴君の名は
「しっかし、濃い霧だな……」
談笑しつつの食事を終えた頃、ガラス一枚を隔てた外の様子を眺めながら竜貴がぽつりと呟いた。
濃霧が訪れる事は、正午前に軽度の要警戒情報として携帯端末にメール着信があった事で把握していた。
自分のみならず周囲からも同時にメール着信音が響いた為、皆が皆、驚きと不安を露わにして携帯端末を凝視していた光景を竜貴は思い出していた。
竜貴は詳細を流し読みした際、メール文面に踊る「原因不明」の四文字に漠然とした不安を抱いた。得体の知れない恐怖を覚えた、と言い換えてもいい。
それは大多数の人が共有した感情だったろうが、それから一時間が経過した今でも危惧を残していたのは、竜貴を含めてごく僅かな人数しかいなかった。
視界がほとんど通らないほどの濃霧に都市艦が襲われる事態は珍しいが、初めてというわけではない。
また、住人は皆、都市艦の性能と運営に多大な信頼を置いている。記録的な台風などが相手ならまだしも、霧如き現象でその浮沈を危ぶむような者はいない。
原因不明な点はさておき、脅威と見做すような事態ではなかった。
お腹がくちくなり、生理的に催された眠気や気だるさによって自然と会話が途絶えていた場に、竜貴の呟きは良く通った。
食卓を囲う皆の視線が竜貴に集まる。
「ほんとにね。早く晴れて欲しいな」
同感だとばかりに貴乃が言った。そして竜貴の視線を追うように憂いの眼差しを外に向ける。
貴乃の表情に一瞬目を奪われた虎騎が、心の動揺を抑えつつ脳天気な口調で同調する。
「んだな。景気悪い天気だとナンパも成功しねーし」
「広報の気象データが正しければ、あと十五分ほどで濃霧海域を抜ける……はず」
空になった特盛り用の丸皿を未練がましく見つめながら、イリヤもまた話題に乗った。
(このまま、何事もなく過ぎてくれればいいが……)
奇しくも一時間前の父親とほぼ同じ危惧を抱いた竜貴は、濃霧の空の先を見通そうとして目を細めた。
△
海上より遥か高みの大空にあって、彼はいささか飢えていた。
もう半日以上も飲まず食わずで飛び続けている。疲労はないが、時間と共に空腹感が強まるのだけは如何ともし難かった。
しかし陸から遠く離れた海洋の上空に彼の食料となるような生物は存在しない。
海鳥の類はいなくもないが、そんな食いでのない小さき存在は元より彼の眼中にはなかった。
海中に餌を求める事も不可能ではないが、その選択は端から切り捨てている。
大空の主たるこの身を、塩水で濡らすなどあってはならない。
彼にとってそれは王者たる矜持であった。
背に三対の翼、頑丈な鱗に包まれた強靭な四肢と太い胴体、長く伸びる首と尻尾、四本の角が生えた蛇のような頭部。脚部から頭部までの全長は四十メートルを超え、体重もその巨体に見合った破格さだ。
西欧の宗教や伝承に語られる竜のシルエットを備えた彼は、全身を黒光りする鱗で覆われた暗黒竜であり、世界に四体しか存在していないと謳われる《神竜種》の一柱であった。
陸海空全てにおける生態系の頂点に君臨する竜族にあって、神竜種はその頂点に位置する種族である。
また、神竜種は人間の知識にあって《エンシェントドラゴン》または《知恵ある竜》と呼ばれ、まさしく神の如く崇められたり、畏れられている存在であった。
偉大なりし彼の真名は《ステラ・ヴォルタス》という。
しかし、太古に告げた名が悠久の伝承によって変質し、現在は《暗黒竜テラヴォルト》という名で巷間に流布していた。
暗黒竜が遠路遙々目指しているのは南海に浮かぶ絶海の孤島である。
時速四百キロメートルを超える速度で半日飛行しても到着していない、という事実からわかるように、最寄の陸地から約一万二千キロメートルも離れた洋上に位置している島だ。
絶海の孤島、という表現に偽りはないのである。
その存在を知るごく僅かな者からは《竜の島》《幻の楽園》などと呼ばれ、ほぼ伝説扱いされている島である。
地球人類に比べ、文明レベルが低いこの世界の人間たちでは未だ到達していない未開の地。
厳密に言えば、人魚種が少数住み着いていたりするのだが。
暗黒竜がこの島――竜の島に向かっている理由は、端的に言って子作りの為だ。
個体差はあるが、竜族には数十年周期で発情期が訪れる。それは神竜種といえど例外ではない。もっとも、周期は数百年単位と非常に長いものであったが。
暗黒竜が竜の島を繁殖場所に選んだのは偶然や気紛れなどではなく、ちゃんとした理由がある。
《竜の島》という俗称から予想出来るように、この島は竜族の住処である。
もっとも、さして大きな島ではないため生息数はさほど多くないが。
生態系の頂点に位置する竜族が外敵の脅威によって数を減らすことはまずない。
そのため、生殖能力が低い竜族であっても、時間の経過と共に個体数が増えてゆくのは必然と言える。
竜族は巨体に見合った食欲を満たすため、どうしても広い餌場を必要とする。
あまりにも多くの竜が島に住み着けば、食料資源があっという間に枯渇してしまうだろう。
神竜種や人族に比べ知性の低い竜族であっても、その程度の道理は弁えていた。
竜の島で生まれた竜族は、ある程度成長し大陸まで外洋を飛んで渡れるほどの体力を付けた時点で、新天地に縄張りを求め島から出奔する。
そうして後進に生存圏を譲ることで、島の環境と秩序は維持されてきた。
結果的に竜の島で暮らす竜族は皆若い……いや、むしろ幼いと言える個体ばかりとなるのは自明の理だが、それだけだと繁殖を行える成熟した竜がいなくなり、今度は過疎化を招いてしまう。
そのため、島に残って繁殖を担う成竜も僅かながら存在したし、島外から繁殖目的で訪れる個体もいて、小さな竜の国は維持されていた。
暗黒竜が竜の島を訪れるというのは、子供しかいない小さな村に世界最強の大人が単身乗り込むようなものだ。
しかもその目的が繁殖の為であるから、人間的な良識を持つ者からすれば、暗黒竜の嗜好がろくでもないと判断するだろう。
事実、齢と経験を経た成体の雌竜より、生殖能力を得たばかりの幼竜を組み敷くのが彼の好みだった。
――図体がでかいばかりの老竜の雌どもは経験があり、我を知るがゆえに大人しく服従する。我が命ずるまま、いや何も望まずともこぞって尻を差し出すばかりで全く詰まらぬ。
その点、何も知らぬ若竜共は身の程を弁えず抵抗するゆえ、実に犯し甲斐がある。我が種を孕める者などおらぬだろうが、精々愉しませてもらおう……。
暗黒竜はこの先訪れる愉悦に想像を巡らせ、強まる空腹感を紛らわせていた。
光景が代わり映えしない水平線の先に、いつ島が見えてくるかと心待ちにして飛んでいた暗黒竜の視界に、妙な物が飛び込んできた。
暗黒竜は目を眇め、無詠唱の竜語魔法によって強化した視力でもって洋上に浮かぶ点のようなものを凝視する。
それが何であるか全容を把握したとき、暗黒竜の内心に驚愕の嵐が吹き荒れた。
――大きい。なんだあれは。まさか島なのか。しかし動いている。生物なのか。だがあんなモノは知らぬ。鯨の類とてあそこまで巨大にはなるまい……。
様々な推測や憶測が暗黒竜の脳裏を駆け巡った。
――正体が何であれ、あれほどの大きさの存在であれば我にとって脅威足りうるやもしれぬ。
冷たい戦慄が暗黒竜を襲った。同時に強い憤怒を感じた。王者たる自分を脅かす存在など決してあってはならない、と。
全力で彼の存在を排除すると決め、四肢に力を漲らせる。更に蝙蝠の羽に似た三対の翼に風の精霊を纏わせて飛行速度を底上げする。
暗黒竜が全力戦闘に臨もうなど実に千と数百年ぶりである。そうさせるだけの脅威を、彼は視線の先から感じていた。
だが亜音速で近づき、細部の様子が判明してくるにつれ、暗黒竜の戦意は困惑に取って代わられつつあった。
――アレの表面にわらわらと蠢いている小さき者共……まさか、人族?
最近彼が目にした人間とは随分異なるいでたちをしているが、全身の輪郭やサイズからして間違いない、と彼は断定した。
そうと解れば話も違ってくる。
暗黒竜は己の推測に大幅な修正を加えた。
――あれはまさか……人の造りし物だというのか。
小賢しい人間が船という人工物でもって海洋を行き来しているのを暗黒竜は知っている。それゆえの関連付け。
だがここまで巨大な船を見た事はかつてなかった。あれではまるで海に浮かぶ巨大な城塞ではないか。
異なる結論を得てもそれはそれで驚愕を覚える暗黒竜。
船の上には赤茶けた大地と小さな森のような地形も見えており、城塞というよりは明らかに島、といった様相だが、金属的な鈍色を照り返す建造物の林立が暗黒竜に城を連想させた。
――だがいかに巨体であろうとも、人が造りし船如きでは我の脅威にならぬ。
無謀にも暗黒竜に戦いを挑んだ人間は久しくいなかったが、仮に人間がどれほど数を揃え、技術を結集したとしても、所詮は彼にとって一蹴できる程度にしかならないと判断していたし、それは実際正しかった。
安堵と失望を同時に抱いた暗黒竜は、好戦的な気概のままに一つの思案を抱く。
――身の程知らずの人間共を腹の足しにしてくれよう。
暗黒竜はさほど人肉を好んではいなかった。
特別美味いわけではなく、骨ばかりで肉付きも悪い。人間を狙う利点と言えば、一匹いれば近くに十匹は見つかる、という餌の見つけやすさ程度しかない。
暗黒竜にしてみれば、人間などゴキ○リと大差ない存在でしかなかった。
それでもなお船上の人間を獲物と見定めたのは、現在の空腹を堪えてまで見逃す理由がなかったからだ。
生物としての格の差を見せ付け、心胆震え上がらせる目的で暗黒竜は咆哮を放つ。
雷鳴にも勝る、空気が焼け付くような凄まじい重低音の轟きが海上に響き渡った。