ある朝の光景
それは紺碧の大海に浮かぶ小さな大地だった。
三万人を超える若者をその背に乗せ、地平線を目指して泳ぐ人口の白鯨。
日本列島を周遊する国内最大規模の学び舎にして巨大な箱庭。
日本で四番目に建造され、独立行政特区として認定された完全環境自立型超巨大タンカー艦。
その名を《青雲学園都市艦ディック・ノーチラス号》といった。
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「しかしほんと突っ込みどころの多い名前だよなあ……」
まだ肌寒い四月下旬の早朝、肌にべたつく潮風の不快にやや顔をしかめながらぼやいた青年の名は、《帆群竜貴》といった。
日本人にしては上背が高く、百八十五cmはあるだろう。均整も取れており、いわゆる細マッチョと言って差し支えない体を服の下に隠している。
顔は短髪逆毛の髪型に引き締まった輪郭で、端正というより精悍な印象を与える顔立ちである。体格を含め、総合的に恵まれた容姿をしていると言えた。
竜貴はこの春、青雲学園大学二年生になったばかりで、最近は勉学より色恋……青春ライフを満喫している真っ最中である。
そんな彼と恋人の距離で右隣を歩いている女性が竜貴の呟きを拾った。
「突然、どうしたの?」
「いや、なんか急に都市艦の社会問題に言及したくなってさ……」
「そうなんだ……ふふ、変なりゅーちゃん」
「ちゃんではなく」
もう十年以上前から繰り返した幼馴染との遣り取り。
竜貴は気恥ずかしさと同時に幸福感を味わっていた。
隣を歩く女性……《薄月貴乃》と竜貴は幼稚園時代以来の幼馴染であり、大学生になってからは晴れて恋人同士となった間柄である。
長く想いを育ててきた二人の仲は恋人関係に至ってから速やかに進展し、去年のクリスマスイブではついに結ばれ男女の関係となった。
さらに現在は竜貴の自宅であるマンションで同棲中であり、交際は実に順風満帆だと言えた。
貴乃は目が覚めるほどの美人ではないが、男性十人中八人は「可愛い」と評価するだろう童顔に緩くウェーブのかかった長く美しい黒髪の持ち主である。
体格はやや小柄な反面、胸や臀部の肉付きが良い、所謂安産巨乳型だ。
また、おっとり優しい性格でありながら芯は強く、家庭的な趣味と技能を併せ持つ良妻賢母女子。
竜貴にとっては不満どころか、一緒にいて世界一幸せだと言える恋人だった。
「おーっす二人ともおはよ。朝から全開だねー」
茶髪にピアスといかにも今風な装いをしたチャラいイケメン、略称チャラメンが背後から二人に駆け寄り、挨拶と共に合流した。
二人は特に驚く様子もなくチラリと首だけで振り返り、背後の人物を確認する。
「おう。今日もチャラいな虎騎。おはよーさん」
「おはよう虎くん。そのカーディガン、よく似合ってるよ」
「さすがわかってる。俺の理解者は貴乃だけだぜ。竜は死ねばいいのに」
丁々発止と気の置けない会話を始める三人。
チャラメンの名は《深仲虎騎》といい、竜貴と貴乃とは小学生以来の幼馴染である。
細身細面の虎騎は整った容姿をセンスの良い服装でコーディネートしており、気だるげな仕草が妙に様になる青年だった。
三人には奇妙というか微妙な共通点があった。
竜貴と貴乃は《貴》という漢字の共通があり、竜貴と虎騎は《龍虎相搏つ》の言葉にあるような縁だ。
特に竜虎の二人は昔から何かと張り合う関係で、学業からスポーツ、果ては貴乃を巡る恋の鞘当まで様々繰り広げてきた。
運動能力は竜貴、顔面偏差値は虎騎、頭脳は貴乃の一人勝ちといった感じで付かず離れず高校時代まで過ごした三人だったが、高校卒業を期に貴乃が竜貴を選んで以来、二人と虎騎は少し距離が空くようになっている。
とはいえ、疎遠だとか避けるほどではなく、お互い姿を見つければ寄って行き、気心の知れた会話を交わす親友同士である事に変わりはなかった。
「そういや、二人とも何の話してたんだ?」
話題を合わせる目的で虎騎が尋ねた。
「ん? 突っ込みどころの話かな」
「え、何それ朝から卑猥な話してたんか?」
「どアホ。卑猥なのはお前の脳内だ」
虎騎の勘違いに竜貴がドン引きして突っ込んだ。貴乃は苦笑している。
「そうじゃなくてこの都市艦のネーミングの話だよ」
「ああ……」
虎騎が微妙な表情をして、手ぶらの両手を頭の後ろで組む。
「都市艦スポンサーのお偉いさんが海洋小説好きなのは伝わってくるが、混ぜるセンスはちょっとなあ。我らが母艦ディノ嬢のモデルは果たして鯨なのか貝なのか……」
母艦ディノ嬢とは、住人の間で定着しているディック・ノーチラス号の愛称である。
ディノ嬢の公式設定はどちらかと、鯨支持派と貝支持派がローカルネットで日夜熾烈な主張……もとい言い争いを繰り広げている。
その激しさは往年のきのこたけのこ戦争に優るとも劣らないほどだ。
オタク系趣味同好のサークルが擬人化ディノ嬢の薄い本を出版してたりもして、コアな人気があったりする。
竜貴の指摘は彼ならずとも多くの住人が抱いてる所感であり疑問である。話題に出せば大体が虎騎と同じような反応をする事も共通している。
「まあ検証は暇人共に任せるわ。なあ竜、ゼミのレポートもうおわた?」
「いんや。まあ終わってても見せる気ないけどな」
「友達甲斐のない奴だな!」
「あのな、虎が毎度俺のレポート参考にしてるせいで俺まで江口に目を付けられてんだぞ。いつまでも「親友だから共同研究してます」じゃ通らねーよ」
「あーそれもそっかー」
がっくりと肩を落とし、落胆する虎。
竜貴と虎騎が共に所属する研究ゼミの助教授の名を江口といい、優秀なのだが堅物な性格で二人は彼を苦手としていた。
「虎くん、論旨思いつかないならイリヤちゃんにアイデア貰ったら?」
おっとり微笑みながら二人の会話を聞いていた貴乃がそう提案した。
ちなみにイリヤとは貴乃の親友で、ロシア人と日本人のハーフの少女である。
イリヤは十五歳でありながら大学二年生で主席の成績を誇るIQ百八十超の天才少女だ。
また、ゼミ所属義務を免除されて一人研究室に引き篭もり怪しい研究を行っていると噂の、変人としても有名な人物であった。
しかしたまにふらふらと学内にさまよい出ては図書館で居眠りしていたり、学食で超大盛カレーライスを完食していたり、野良猫と戯れていたりして、男子学生を中心に癒しのマスコットとして人気があったりもした。
「いやぁ、柊に頼るのはちょっとなあ……」
うへぇといった顔をする虎騎。
柊というのはイリヤの姓で、彼女の和名は《柊入夜》。
虎騎はイリヤを苦手としていた。
理由を知っている竜貴は苦笑し、知らない貴乃は小首を傾げた。
「どうして?」
「やー、アイツさ、俺が頼み事すると対価に人体実験のドナーを求めてくるのよ……」
以前、虎騎はちょっとした頼み事をイリヤに強請った際、代償に「男女間の生殖機能について試したいから相手になって欲しい」と頼まれた事があった。
イリヤは北欧系な見た目の金髪美少女であり、年齢的な守備範囲の広い虎騎は「たまには年下もいいか」と鼻の下を伸ばしながら二つ返事で了承した。
その結果どうなったかというと、事前に飲まされたドリンクにバイ○グラを盛られた上、イリヤの開発した薬によって性的興奮&排卵状態になった雌ゴリラと同じ部屋に閉じ込められた。
マジ泣きしながら携帯で竜貴に助けを求めて事なきを得たが、その恐怖体験は消えない心の傷となってイリヤへの苦手意識を植え付けたのであった。
「そうなんだ。うーん、イリヤちゃんって虎くんの事気に入ってるのかな」
納得したが今度は別の疑問が生まれた、といった様子で呟く貴乃。
「それはないな。むしろ逆じゃね?」
背を向けている二人には見えてないが、虎騎は右手をひらひら振って言った。
「そうかなあ。イリヤちゃん、これまでに研究室に立ち入りを許した男性は多分虎くんだけだよ? 先生方除いてだけど」
「自宅に連れ込んでくれるなら信憑性出てくる説なんだけどな……。頼み事が獣姦とかマジないわ」
トラウマを思い出したのか、虎貴は青い顔で吐き捨てた。
「二人とも、お喋りはここまでだ。着いたぞ」
「あっ、うん」
「あいあい」
三人が通う《青雲学園大学》の敷地を区切る重厚な門構えが十メートルほど先に見えてきていた。
竜貴が注意したのは、竜虎コンビと貴乃は違う学部なので、ゲートを抜けたらすぐ別れる事になるからだった。
「それじゃ、お昼にまたね、りゅーくん。それに虎くんも」
「ああ。貴乃も構内で転んだりするなよ。あとイリヤにもよろしくな」
「むぅ、りゅーくんはいっつもそればっかり。もう子供じゃないよ、私」
「はいはい、わかってるって」
わざとらしく頬を膨らませ、抗議のフリをする貴乃の頭をぽんぽんと叩く竜貴。
貴乃は運動音痴で、たまに何もない所で転んだりする。一緒にいるときは竜貴がさりげなく気にかけているので事前に防げているのだが。
砂を吐きそうな顔で虎騎が二人のやりとりを眺めていた。
「お前らじじばばになっても同じ事言い合ってそうだな……」
「それはそれで悪くないな」
「見せ付けられる方はいい迷惑だけどな」
「口の減らん奴め」
「お前こそもげろ」
ゲートをくぐった所でぐぬぬとにらみ合う竜虎を、他の学生たちがクスクス笑いながら通りすぎてゆく。
鷹揚な貴乃も流石に恥ずかしいと思ってか、二人を仲裁する。
「りゅーくん虎くん、急がないと講義始まるよ。私ももう行くね。それじゃ!」
一方的にまくし立て、二人からそそくさと遠ざかっていく貴乃。
「あ、ああ。また後でな!」
「まあ行くか……」
竜貴は慌てて声をかけ、虎騎はだるそうに頭を掻いて貴乃を見送る。
どこまでも対照的な二人だった。
作中でいずれ詳細を言及するかもしれませんが、学園都市艦の全長は1km超です。
メガフロート級の船が存在してる事もある意味ファンタジー。