ありがとう!!
激闘の余韻も今は無く、静寂だけが漂い、暮れかかった夕闇の中、ただ冷えた空気だけが、そこに居合わせる者達を包みこむ。
仰向けになった司の背中に、地面を伝って響く規則的な振動。次第に近くなる足音。
「司ぁ、最後のあれなんだよ?見たことねーぞ、あんな技」
脇腹を押さえた増山が、不満げに口を尖らせながら左手を差し出す。
仰向けのまま、ゆっくりと瞳を開けると、頬を血に染めた増山の浅黒い顔を見つめる司。
「まぁな。天才のみに与えられし技ってやつか」
差し出された手を強く握り返し、瞼を薄く閉じながら軽口を叩く。
増山の力強い体幹が掌から伝わり、軽々と司を引っ張り上げた。
心地よい浮遊感が司の体を一瞬通り抜けると、肩を並べる“虎”と“龍”。
二人の鋭い眼光が太田弟に注がれ、その視線に耐えきれない弟は、軽い悲鳴を上げながら、羽交い締めにしていた美空を突き放した。
血の気を失った顔面で天を仰ぎ、バーの勝手口へと走り去って行く。
「追わないのか?」
「あぁ、あんな奴、いつでもボコれるさ」
輝きを放つ笑顔。
増山は年相応の無垢な少年に還っていた。
微笑みを浮かべ、自らの“希望”へ向け走り出す。
「ソラ!」
その後ろ姿を微笑みで送る司。
均整のとれた長い肢体が、美しいストライドを描いて美空へ駆け寄る。
両膝をついた美空を抱きよせ、口を塞ぐ布テープをゆっくりと剥がしてやった。
泣き腫らした瞼と汗で濡れた頬が、疲労と恐怖でやつれ、濃い陰を作っている。
「スッチン……」
瞳いっぱいに涙を浮かべながら、両肩を小刻みに震わして増山の愛称を呟く。
「ありがとう。痛かったでしょ?本当にありがとう」
増山の腕の中に静かに包まれると、伝えたい言葉が懸命に口をついた。
静かに近づいてきた司に顔を向け、溢れる涙はそのままに、微笑む。
「つかっちゃん、血だらけだよ……どっか切れてるかも」
「大丈夫だよ。返り血さ。それより、どうだった?」
「どうだった?……って」
「俺の谷村新○」
「えっ」
顔を見合わす増山と美空。
司の顔はいたって真剣だ。
「プッ……ハッハッハッ」
腹を抱えて笑いだす二人。
暗闇の中、キラキラと白い歯が輝く。
「ブッァッハッハ!どうだった?ってそっちかよ、アッハッハッ」
増山が赤面しながら、腹を抱え豪快に声を上げた。
「痛ったった」
押さえる手を、腹部から わき腹へ移動すると、笑顔と苦悶の表情を交互に浮かべる。
「帰ろう」
司が優しく囁き、空を見上げながら再び微笑む。
美空を挟み、歩き出した三人。
「飯でも食いに──」
増山が口を開きかけたその時。
「あっ」
柔和な笑顔を取り戻した美空が、虚空を見つめ、惚けた表情を浮かべた。
「どうした?ソラ」
「えっ!?」
司と増山の表情が氷つく。
目の前で起きたことが理解できない。
絶句し、固まった。
美空の白いうなじに、ギラギラと禍々しい光を放つアーミーナイフが、深々と突き刺さっていたのだ。
司が振り向くと、そこには顔面を血まみれにしたビリーが、片膝をついて右腕を伸ばし、野球の投手が腕を振りぬくような姿勢をとっている。
そのまま崩れて地面に顔から突っ伏した。
最後の力を振り絞り、隠し持っていたアーミーナイフを、三人へ向かって遮二無二投げたのだ。
不幸にも、それが美空の首、頸椎へ。
見開いた瞼を微かに震わすと、開いた口から止めどなく鮮血が伝い落ちた。
そのまま、布を開いて落としたと錯覚する程、音も無く、静かに倒れていく。
寸でで増山が正面から両肩を掴んで支えた。
膝を屈めて刮目し、美空を抱きしめる増山。
「スッチン、ありがとう──ありが……と」
小さな顔が増山の耳元に寄りかかり、美空が囁きながら意識を失う。
増山は、打ち上げられた哀れな魚と見紛う表情を浮かべ、目と口を開いて固まっていた。
震える手で、ゆっくり美空の首に手をやる。
「あっ!」
思わず絶句する程の、おびただしい量の血液が噴き出し、手を濡らす。傷口を塞いでも、恐ろしい勢いで止めどなく溢れていく。
「──おい、ソラ、嘘だろ?おいっ!!」
激憤する増山は全身を震わせ、慟哭する。
司が駆け出した。バーの中の電話を使うためだ。
増山は膝をつき、狼が遠吠えするかのような姿勢で、美空を抱きしめたまま。
暮れかけた、薄暗く冷たい空気を震わし、咽びながら声を上げた。
「ソ、ソラーッ!!」
◆◆
時は現代に戻り、増山の入院する病室。部屋を重々しい空気が包んでいた。
「増山さん、すいません……辛いこと思い出させてしまって」
バツの悪そうな表情で頭を下げる金平。隣のソフィは、いつもの快活さが嘘のように瞳を伏せて押し黙っている。
「いいんだ。遠い昔の話さ」
増山は優しく微笑んだ。
「増山さんは美空さんと、付き合ってたの?」
ソフィの唐突な一言に、増山は心の中で、ソフィらしい質問だと呟く。
「いや、あいつは、ソラは、俺たち二人を同じように愛してくれてた。本当にどちらを愛してたのかは──」
窓の外、風に揺られ落ちそうな木葉に視線を投げると、増山は押し黙った。
チャックが入院する部屋を見舞い、静かに退室した司は、一人廊下をいく。エレベーターに乗り込むと、上の階へのボタンを押した。
目的のフロアへ到着すると、迷う素振りも見せず、モデルさながらの均等な歩幅で革靴を鳴らし、目的の部屋へ向かう。
深いグリーンの光沢を放つトム・フォードのスーツ。その胸ポケットから、透明なセキュリティカードを取り出すと、静かにリーダーに通す。
認証を確認する電子音と共に、モーターの低くうねる音が響くと、分厚いセラミック製の自動ドアが開いた。
薄暗い部屋に入ると、モニターや様々な医療機器に囲まれたベッドの傍らに立つ。
心電図の規則的な電子音と、人工呼吸器のモーター音が、穏やかに寄せては返す潮騒に似ていた。
ベッドには、安らかに眠る人影が。ふと、司がズボンのポケットに手を突っ込む。
親指と人差し指、中指。
自らの胸の前に掲げた、白い簪に見える司の細い指先には、古びた髪留めが。
憂いを帯びた瞳で、その髪留めを静かに見つめる。
退色し、塗装が所々剥がれ、かつては鮮やかに飾り立ていたであろうビーズの装飾も、今はもう無い。
片方の手を差し出すと、永遠の眠りについている美しい女の頬に、優しく触れた。
「──ソラ」
儚げな司の微笑みが、暗い病室を静かに、仄かに……。
灯した。




