李春王!!
──時計の針は16年前に遡る。
場所は都内の高級ホテル、地下駐車場。
黒、白、赤。互いを映し合う程に磨きこまれた高級外車が所狭しと並ぶ。
時間は真夜中。その一角に、異様な光景が作り出されていた。
真っ黒なプロテクターを全身にまとった男達。頭部をヘルメットと目出し帽で隠している。
コンクリートの上に転がっている十名程の人影。
うつ伏せ、仰向け、首をうなだれて壁面に寄りかかり、腰を落としている者。
浜辺に打ち上げられた魚のようにあちこちに点在し、動かなくなっていた。
傍らには、拳銃や先端をカットオフしたショットガンが無造作に転がっている。
それらの音を発しない傍観者達に囲まれながら、三人の男が薄暗い駐車場の中、寸劇を演じる役者のごとく直立していた。
「夜中に呼び出しておいてご挨拶だな」
静まりかえった駐車場に響く男の低い声。
声の主は、野生動物並みに猛々しい、人ならざる異様な気配を漂わせ、仁王立ちしている。3メートル程おいて、男の目前、左右に長身の男が二人。二人共、黒く艶消した強化ケブラー製の装甲服を全身に装着している。屈強な外観とは裏腹に、明らかに狼狽している様子だった。
「隊長……こいつ、洒落になりませんよ」
両手に構えたオートマチックの拳銃。
額には汗が玉になり吹き出している。視線を変えることなく、隣にいる男に呟いた。
若き日の増山である。まだ幼さの抜け切らない、しかし、勝ち気な性分が太い眉に現れていた。
二十歳そこそこ。
高校時代、実戦空手の大会で優勝。その後、特殊部隊へスカウトされて一年。
隣で同じくオートマチックの拳銃を構えている男。
増山を特殊部隊にスカウトした張本人。マッスル引っ越しセンターの社長である。
この当時は特殊部隊の隊長だった。角刈りにしてはいるが、スキンヘッドではない。口髭も無かった。増山も中東系の二枚目だが、当時の社長も負けず劣らずの甘いマスク。
「こりゃ、かなりヤバいかもな」
目前の男から視線を外さず、隊長が思わず弱音を吐いた。
「どーせ当たらねーんだから、そんなもんしまえよ」
対峙する男が、口の端をひきつらせ、不敵な嘲笑を浮かべた。
「李春王、お前の狙いはなんだ?三国社長と接触して何をする気だ?」
あくまで冷静に努める隊長が問う。
李春王。
芹沢の当時の呼び名である。日本人の母親と中国人の父親を持つ一流の暗殺者。
それ以外は何も分かっていない。
胸がはだけたシルク製の黒シャツに、グレーのパンツ。エナメルの靴に金のロレックス。
ヤクザか取り立て屋と見紛う格好だった。
だが、170センチ後半の体躯に纏った異様な殺気が、一周りも二周りも姿を大きく見せている。
「別に何かしようって訳じゃねぇんだがなぁ……三国のオヤジにボディーガードを頼まれただけだよ。さっきも言っただろ?それなのに俺を捕まえて、豚箱にぶち込む気か?」
「お前は国際手配されてるからな。捕まえればお上の覚えもいいってもんよ」
時代劇さながらに、演劇じみた口調の隊長。
「じゃあ仕方ねえな」
李春王が言い切る前に、異様な殺気を感じた増山がトリガーを引いた。乾いた発砲音が二回鳴り響く。
「チッ!!」
『さっきと同じだ』
増山は舌打ちしながら戦慄した。
銃を撃った瞬間、李春王の体がぼんやりと残像を残し、消えるのだ。
「!?」
目の前にいたはずの李春王が、一瞬で増山の脇に滑り込み、捻りこむモーションで右腕を斜め下から突き上げ、掌底を打ち込む。
増山はガードする間も無く脇腹に直撃を受けた。
「ぐっ」
吐き気を伴う痛みに耐えきれず、呻き声を発する。だが、掌底が叩き込まれた瞬間、隊長が後ろから李春王のうなじに蹴りを入れていた。すかさず動きの止まった李春王に向かって、拳銃を向けトリガーに指をかける隊長。
「うおっ!?」
渾身の力を込めた蹴りだったが、李春王は微動だにしない。
次の瞬間、両脚を極端に開脚して異様な力で踏ん張ると、その状態から左拳をノーモーションで突き出す。
鈍い打突音が響き、隊長の左胸に直撃する拳。
巨躯が軽々と吹き飛ぶ。
「隊長!!」
隊長の蹴りのおかげで、自らは致命的な攻撃を避けられた増山だったが、完全に隊長が身を挺した形になった。
「おおっ!!」
肘を軸に、左腕を回転させながら李春王の腕を弾き飛ばすと、右腕で渾身の正拳突きを食らわす増山。
だが、李春王は体を反転させながら正拳を紙一重でかわすと、滑り込みながら増山の右腕に沿って間合いを詰める。李春王の肘打ちが空気を裂いて襲いかかった。素晴らしい反応を見せた増山は、上体を後方にのけぞると、寸ででそれを躱した。ステップバックした右足を軸に回転しながら、左足を跳ねあげ、渾身の蹴りを繰り出す。あまりの速さに足元の埃が波紋状に周囲を舞った。
強烈な回し蹴り。だが、それすらも李春王は躱して見せる。
「くっそ!!」
たまらず増山は飛び退き、間合いを置いた。吹き出していた汗が、足元に幾つもの黒い点を打つ。
「中々いいぞ、お前」
縦に吊り上がる李春王の瞳孔が、増山の恐怖を増大させる。
今まで恐怖というものに怯えたことが無かった増山だったが、初めて心の底から「怖い」と思う。目の前の、悪鬼羅刹か魔物に見える李春王に、完全に気圧されていた。
そんな増山の胸中をあざ笑うかのように、李春王の拳から鈍い音が鳴ると、人差し指と中指を鉤爪の形に成した。
その刹那、一瞬で間合いを詰める李春王。踏み出したコンクリートの床が、みしりと音を立て陥没する。
残像を引きながら、二本の指が襲い掛かってきた。防御は間に合わないと踏んだ増山は、瞬時にフックを繰り出す。
空気を震わすクロスカウンター。両者の腕が交錯した。
「ぐあっ!」
増山の拳は空を裂き、一瞬遅れて虚空に飛散する血飛沫。
李春王の鉤爪が増山の胸部を裂いたのだ。
あっけなく強化ケブラー製の装甲服が引き裂かれ、胸元に刻まれる二本の赤いライン。
「ちぃっ!!」
血煙が舞う中、痛みに臆することなく、さらに肘打ちを繰り出す増山。
曲線を描く抜き身の日本刀。それほどまでにシャープな切れ味の肘だ。
残像を引きながら、李春王の首元を掠める。
次の瞬間、李春王の首筋にだらりと赤い筋が。刃物並みに鋭利な増山の肘が、李春王の首を裂いていた。
「ガキがっ、やるじゃねぇか!!」
さすがの李春王も驚嘆の声をあげる。
一瞬気を許した李春王の背後から、気配を消した隊長が現れ、両腕を羽交い締めにした。
「やれー!増山!!」
鍛えあげられた190センチ近い男の剛腕に捕まれた李春王は、さすがに微動だにできない。
「ウォラーッ!!」
駐車場中に響き渡った増山の怒号。左右の正拳に渾身の力を込め二段突きを放った。
次の瞬間、李春王の体がふわりと浮いたかと思うと、左右の脚を空中に向け、二段蹴りを放つ。
明らかに増山の動き出しが速かったが、それを凌駕して増山の腹と胸に直撃する蹴り。増山が声も無く後方に弾け飛ぶ。そのまま李春王が、首を不自然なほど下に向けた。勢いよく後頭部を隊長の鼻面に叩き込んだ。
「うぐっ」
鼻血を吹き出し、掴んでいた両腕を解く。そのまま倒れる隊長だった。
2メートルほど蹴り飛ばされた増山は、かろうじて意識を保っていたが、もはや立ち上がる事もままならない。
両手をつき、土下座のような姿勢で口から血を滴らせる。肩で大きく息をしていた。
だが、よろよろと立ちあがる。
隊長も顔面を血だらけにしながら起き上がっていた。
「お前ら……ククッ……久しぶりだよ、ここまでしつけーのはよ」
自らも首から鮮血を流していたが、むしろその表情は悦楽に浸って見えた。
「三国のオヤジから殺しはやるなって言われてんだよ。俺ぁもう行くぜ。これ以上やろうってんなら、お前ら殺さねーとならなくなる。最初に仕掛けてきたそこらに転がってるやつら……まだ息があるはずだから、介抱してやれや」
やれやれといった感じで踵を返す李春王。
ツカツカと小気味よい音を立てながら、駐車場のエレベーターに向かって歩を進める。
キンっと、軽い音を立て、ジッポで煙草に火を点けた。薄暗い駐車場で、火の玉のようにゆらゆらと、李春王の頭部が照らされる。
その背中を見つめ、増山は四つん這いで震えながら拳銃を拾おうとした。もはや幼児ほどしかない握力の右手で、グリップを握ろうとする。
「やめろ……増山。あいつらの手当てが先だ……」
力無く起き上がる隊長。手の甲で鼻血を拭いながら増山に呟いた。
「くそっ!!」
唇を歪めながら、拳をコンクリートに打ち付ける増山だった。




