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名前のない帰路

あの部屋を出たあと、

時間は、またいつもの速さに戻った。


特別なことは、何も起きない。


大学に行く。

講義を受ける。

ノートを取る。

電車に乗る。

帰る。


それだけの繰り返し。


それなのに、

どこかだけ、

以前の「何もない」とは違っていた。


世界の色が変わったわけじゃない。

未来が開けたわけでもない。


ただ、

夜にだけ、

帰る場所が出来たみたいだった。


昼は、相変わらず長かった。


講義室の蛍光灯。

パソコンの画面。

誰かの笑い声。

就活という単語。


全部、

少しだけ遠い。


海に行く日もあった。

行かない日もあった。


それでも、

電車の窓に自分の顔が映るたび、

ふと、思う。


――今日は、会えるだろうか。


そんな自分に、

少しだけ驚いていた。


夜になる。


理由はない。

でも、

足は自然に、あの公園へ向かう。


今日も寝静まった町の公園で、

二つの影が、電灯によって作り出されていた。


千華さんの吐いた息が、

光に照らされて、

白く、ゆっくりほどけていく。


「また海に行ってきたんだ。和樹君、本当に海が好きなんだね」


その声を聞くだけで、

体の奥の、何かがほどける。


「自分が思っていた以上に、僕は海が好きでした」


海は、昔から好きだったと思う。


泳げるわけでもない。

海水浴も、小学生の頃以来、行っていない。


だけど。


海を眺めるのは、

ずっと、好きだった。


海を見ていると、

何も考えなくてもいい気がして。


そこに、

ただ居るだけで。


雄大な海が、

「それでいい」と言ってくれている気がしたから。


「おじさんも居たの?」


「榊さんですか?いましたよ」


「そうそう、榊さん」


釣り人姿で、

いつもニコニコと笑っている榊さんを思い浮かべる。


冬の海に立っている姿は、

どこか、

景色の一部みたいだった。


少しの沈黙のあと、

千華さんが、

軽い調子で言った。


「そうだ。今度、私を海に連れてってよ」


「え?」


「和樹君の口からよく出てくる榊さんがどんな人か見てみたいし、

 和樹君が好きな海を、一度は見ときたいからさ」


その言葉が、

胸の奥に、

静かに落ちる。


千華さんと眺める海は、

どんな表情をするのだろう。


少しだけ、

怖くて。


少しだけ、

嬉しかった。


そして数日後。


千華さんに「一緒に行きたい」とせがまれ、

初めて、

誰かと、この駅に降り立った。


海からの冷たい風が、

ホームに立っている僕たちの体を、

まっすぐに通り抜ける。


冬の海は、

変わらず穏やかで、

人が少なかった。


きめ細やかな砂に、

足を取られる。


一歩。

また一歩。


踏みしめるたび、

音が消える。


「静かだね」


「そうですね」


「良い場所だね。和樹君が気に入ったのも分かる気がする」


その言葉が、

少しだけ、誇らしかった。


穏やかな海を眺めていると、

視界が、見知った人物を捉える。


砂浜から突き出している人工物。

その上に、

人影が一つ。


その人工物の上を、

二人で歩く。


「今日は一人じゃないみたいだね」


その声は、

ほんの少しだけ、

寂しさを帯びていた。


振り向くと、

榊さんが立っていた。


「この人が榊さん?」


横に居た千華さんが、

僕に問いかける。


「こんなおじさんのこと知ってくれているの?」


「はい。和樹君がよく榊さんのこと話していたので」


「そうなんだ」


いつもの、

ニコニコとした笑顔に戻る。


「今日も海を見に来たの?」


「榊さんもですか?」


「うん。冬の海が一番好きだからね」


「僕も、冬の海好きになりました」


三人で、

何も言わずに、

海を見る。


さざ波の音。

風。

遠くのカモメ。


時間が、

ゆっくり溶けていく。


――この時間が、

 ずっと続けばいい。


本気で、そう思った。


「榊さんは、いつも海に居るんですか?」


心地いい沈黙を破ったのは、

千華さんだった。


「雨が降っていない日の午前中は、ほぼ毎日いるよ」


「榊さんって、本当にこの海が好きなんですね」


「家に居ても暇なだけで、

 やることが無くて、

 消去法で来ているだけなんだけどね」


その言葉の奥にあるものを、

僕は、

少しだけ理解した気がした。


砂浜に、

三人の名前を書く。


並べて。

少し離して。


数分後、

波が、

僕たちの名前を、

ゆっくり消し去った。


海の匂いが、

僕の鼻孔を通り抜ける。


僕らの匂いも、

海へと送る。


それが、

少しだけ、

救いみたいに思えた。




海を離れる頃には、

空の色は、もう昼ではなかった。


青は薄くなり、

白に近づき、

その奥に、夕方が滲み始めていた。


榊さんは、

「じゃあ、またね」と、

いつもの調子で手を振った。


特別な別れじゃない。

約束もない。

それでも、

また会う気がする別れ方だった。


釣り竿を肩に担いで、

ゆっくり歩いていく背中は、

冬の海と、よく似合っていた。


しばらく、

その背中を二人で見送る。


風だけが、

砂の上を撫でていく。


「……帰ろっか」


千華さんが言う。


「……はい」


それだけで、

十分だった。


砂浜を歩く。


行きより、

少しだけ、足取りが軽い。


でも、

どこかだけ、

胸の奥が静かだった。


駅へ向かう道。


冬の海の匂いが、

まだ服に残っている。


潮の匂い。

冷たい空気。

少しだけ乾いた風。


ホームに上がる。


電車を待つ間、

二人とも、

あまり喋らなかった。


でも、

気まずくはなかった。


言葉にすると、

壊れてしまいそうな何かが、

そこにあった。


電車が来る。


扉が開く。


乗る。


並んで立つ。


窓の外で、

海が、少しずつ遠ざかっていく。


黒に近い青。


その上に、

冬の光が、薄く残っている。


「……楽しかった?」


千華さんが、

窓を見たまま、聞く。


「……はい」


少しだけ、間を置いて。


「……すごく」


その言葉を言ったとき、

胸の奥が、

少しだけ痛んだ。


千華さんは、

小さく笑った。


それ以上は、

何も言わなかった。


電車の揺れ。


吊り革の軋む音。


遠くのアナウンス。


全部が、

少しだけ遠くに聞こえる。


途中で、

人が減っていく。


空いていく車内。


座る。


並んで座る。


コートの袖が、

少しだけ触れる。


それだけで、

体温が分かる。


外は、

もう完全に夜だった。


駅に着く。


降りる。


改札を抜ける。


夜の匂い。


海とは違う、

街の匂い。


住宅街へ向かう道。


街灯が、

一定の間隔で、

足元を照らす。


歩く。


靴音が、

二つ分、重なる。


「……寒いね」


千華さんが、

ポケットに手を入れる。


「……ですね」


息が、

少しだけ白い。


信号を待つ。


赤。


車が通り過ぎる。


無言。


でも、

その無言は、

嫌じゃなかった。


青に変わる。


渡る。


歩く。


いつの間にか、

歩幅が揃っていた。


アパートの前に着く。


見慣れた外壁。

見慣れた階段。


ここまで来ると、

時間が、少しだけ遅くなる。


「……上、寄ってく?」


軽く。


本当に軽く。


でも、

その一言は、

少しだけ重かった。


「……今日は」


少しだけ、迷う。


「……大丈夫です」


嘘じゃない。


でも、

本音でもない。


千華さんは、

少しだけ頷いた。


「……そっか」


それ以上、

何も言わない。


それが、

優しかった。


「……今日は、ありがと」


「……こちらこそ」


沈黙。


冬の夜の音だけが、

流れる。


「……じゃあ、またね」


「……はい」


千華さんは、

階段を上がっていく。


途中で、

振り返らない。


ドアの開く音。


閉まる音。


それで、

今日が終わる。


しばらく、

その場に立つ。


寒い。


でも、

すぐには帰れなかった。


空を見上げる。


星が、

少しだけ出ていた。


海の音は、

もう聞こえない。


でも。


胸の奥に、

まだ残っている。


ポケットに手を入れる。


指先に、

少しだけ、砂の感触が残っていた。


歩き出す。


一人で。


でも。


完全に一人じゃない気がした。


今日の海。

三人の時間。

帰り道の沈黙。


全部が、

体の中に、

静かに残っていた。


夜の空気を吸う。


吐く。


白くはならない。


でも。


冬に、

少しだけ近づいていた。


家へ向かう。


いつもの道。


いつもの街灯。


いつもの自販機。


全部、

同じはずなのに。


少しだけ、

色が深い。


鍵を回す。


ドアを開ける。


家の匂い。


安心。


そして、

少しだけ、空白。


部屋に入る。


電気を点けない。


暗闇のまま、

ベッドに座る。


今日を、

急いで終わらせたくなかった。


目を閉じる。


海。

風。

白い息。

横顔。


ゆっくり、

沈んでいく。


今日という日が、

体の奥に、

静かに積もっていく。


名前は、

まだない。


関係も、

まだ途中。


それでも。


今日、確かに、

僕は、

誰かと同じ景色を見た。


それだけで。


少しだけ、

明日が、怖くなくなった。


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