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名前のないぬくもり

いつもと変わらず憂鬱な気持ちを抱え、電車から出る。

車内に残っていた人の体温と、整髪料と、洗剤の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている。


出来ることなら、このまま反対側のホームに行って、どこか遠くへ逃げ出してしまいたかった。

知らない街。知らない駅。知らない人生。

そういうものの中に、今の自分を溶かしてしまえたら、どれだけ楽だろうと思う。


しかし、切実な願いと裏腹に、僕の足はいつも通り改札を抜ける。

機械的な改札音が、やけに現実的に耳に刺さる。


重い。

とにかく重い。


靴の中に、鉛でも流し込まれたみたいに、足が上がらない。


重い重い足で、目的地に向かう。


上を見上げると、雲一つない快晴だった。

冬特有の、逃げ場のない青。

何も隠してくれない青。


世間は今日、休日だというのに。

僕は、労働へと繰り出す。


笑い声。

買い物袋。

家族連れ。


全部が、ガラス越しの世界みたいに見える。


そのギャップが、僕の弱い心に、静かに、でも確実に突き刺さる。


しかし、この状況を打開する方法を、僕は知らない。

知らないまま、ここまで来てしまった。


裏口の扉は、重く重く感じた。

「ここから先は、労働です」と告げてくる重さだった。


ドアノブを握る。

金属が冷たい。


「おはようございます」


自分の声が、どこか他人の声みたいに聞こえる。


すでに、時刻は正午を回っていた。


昼なのに、始まりじゃない。

もう、半分終わっている時間。


「お疲れ様です」


労働の終わりを告げるこの言葉が、バイトの時間で一番好きだ。


更衣室で服を着替える。

脱いだシャツは、汗で濡れていた。

背中の形が、そのまま残っている。


労働した証拠。

生きた証拠。

でも、誇れるものではない。


すぐに着替え終え、店の外に出る。


すっかり空は、暗くなっていた。


太陽が昇るのは、明日を待たないといけないのに、

明日が来るのが、少し怖い。


今日の延長線上にある明日。

何も変わらない可能性の方が、ずっと高い明日。


最寄りの駅に着き、いつもと同じ改札から出る。


火照った体を、冬の風が冷ましてくれる。

一瞬だけ、救われる。


しかし、すぐにその風は、脅威へと変わった。

皮膚の奥まで、入り込んでくる。


温かな家を目指して、自然と歩くスピードが上がる。

逃げるみたいに。


今日は、深夜散歩も出来そうになかった。

夜に逃げ込む気力すら、残っていない。


すっかり世界は、冬に突入していた。


空気が薄い。

音が少ない。

色が、少しだけ硬い。


最近は、土日のどちらかをバイトに費やし、

もう片方を、千華さんの家で過ごしていた。


逃げ場。

言い訳。

救い。


全部、混ざっている場所。


今日も自堕落な僕らは、炬燵に入って、文明の利器の偉大さを思い知る。


炬燵の中は、小さな世界だった。

外の冬とは、別の季節。


炬燵の上には、千華さんの実家から送られてきたみかんが、カゴに入っていた。

少しだけ皮が乾いている。

冬の果物の匂いがする。


少し眠気が入ってきた僕は、惰性でみかんに手を伸ばす。

皮を剥く。

指先に、柑橘の匂いが残る。


目の前のテレビでは、昼間のドラマ再放送をやっていた。


数年前に放送された人気な恋愛ドラマ。


今日やっていた回は、

主人公の友人が、ヒロインに寄せていた幼い頃からの恋心を断ち切って、

主人公とヒロインの仲を応援することを決意した回だった。


観ていた当時は、

ただただ切ない回だという印象だった。


でも。


今の僕の心の中は、

切ない、だけではない気がする。


もっと、鈍くて。

もっと、逃げ場がなくて。

もっと、現実に近い何か。


「僕たちの関係って何なんですかね?」


テレビの音に紛れて、

本音が、こぼれる。


「親友以上恋人未満かな」


「何ですかそれ」


悲しすぎて、笑顔になった。


僕の気持ちを知ってか、知らずか。


千華さんは、清々しいほどの笑みを作っていた。

逃げない笑み。

隠さない笑み。

でも、踏み込ませない笑み。


カーテン越しに入ってくる西日が、

この部屋を温かなオレンジ色一色に染め上げた。


時間が、止まっているみたいだった。


少し寒くなってきた体は、温もりを求めて、

肩より下を炬燵に滑り込ませた。


ドラマの登場人物とは違って。


まだまだ、好きだという感情を捨てきれない僕は。


恋をした人の家の炬燵に入って、

その温もりを、何も言わずに受け入れていた。


それが、どんな名前の関係なのか。

この先、どこへ向かうのか。


何も分からないまま。


ただ。


今この瞬間だけが、

確かに、

暖かかった。


みかんの皮を、指先でくるくると弄ぶ。

爪の間に、少しだけ白い筋が残る。


テレビの中では、

誰かが、誰かに想いを伝えていた。


言葉にした瞬間、

取り返しがつかなくなるような、

そんな顔をしていた。


僕は、画面から目を逸らす。


千華さんは、何も言わない。

ただ、隣で、みかんを一房ずつ口に運んでいた。


その仕草が、やけにゆっくりに見える。


カーテン越しの光が、

少しずつ、色を変えていく。


白から、

薄い橙へ。


薄い橙から、

ゆっくり、深い茜へ。


部屋の空気が、

時間ごと染め替えられていく。


テーブルの木目。

炬燵布団の皺。

千華さんの横顔。


全部が、同じ色に溶けていく。


夕方というより、

世界が、一度だけ優しくなる時間だった。


テレビの音が、

少し遠くに感じる。


部屋の中にあるのは、

みかんの匂いと、

布団の温もりと、

人の気配だけ。


千華さんが、

足を少しだけ動かす。


炬燵の中で、

膝が、ほんの少しだけ触れる。


それだけで、

体温が、分かる。


何も言わない。

何も、起きない。


それでも、

この瞬間が、

どこか壊れそうに綺麗だった。


西日が、

最後に、

千華さんの髪を照らす。


黒に、

少しだけ、赤が混ざる。


その光が、

ゆっくり消える。


部屋の色が、

現実に戻る。


電気は、まだ点けない。


暗くなる手前の、

曖昧な時間を、

二人とも、壊したくなかった。


「……暗くなってきたね」


小さく、千華さんが言う。


「……ですね」


それだけの会話。


でも、

それ以上、必要な気がしなかった。


やがて、

夜が来る。


完全な、夜。


窓の外には、

もう空の色は残っていない。


遠くの家の明かり。

信号の色。

車のヘッドライト。


人の生活だけが、

浮かび上がっている。


帰る時間が来る。


自然に、

どちらからともなく、

炬燵から足を抜く。


少しだけ、寒い。


さっきまでの温度が、

急に、恋しくなる。


上着を着る。

靴を履く。


玄関の空気は、

部屋より、少しだけ冷たい。


ドアを開ける。


外は、

冬の夜だった。


振り返る。


千華さんは、

いつもの表情で、

そこに立っている。


特別な顔じゃない。

でも、

一番、記憶に残る顔。


「……またね」


「……はい」


ドアが閉まる。


小さな、音。


それだけで、

世界が、二つに分かれる。


階段を降りる。


夜の空気が、

肺に入る。


冷たい。

でも、

少しだけ、気持ちいい。


歩く。


住宅街。

静かな道路。

自販機の光。


全部、

いつもと同じ。


でも。


体の中だけ、

まだ、あの部屋にいる。


指先に、

みかんの匂いが残っている。


服に、

炬燵の匂いが残っている。


心の奥に、

西日の色が残っている。


駅へ向かう道。


誰かの笑い声。

遠くのテレビの音。


生活の気配。


僕も、

その中に、いるはずなのに。


どこか、

少しだけ、外側にいる。


電車に乗る。


窓に、

自分の顔が映る。


知らない顔じゃない。

でも、

少しだけ、

今日の分、変わっている気がする。


家に着く。


鍵を回す。


家の匂い。


安心。

そして、

少しだけ、空白。


部屋に入る。


電気を点けない。


暗闇のまま、

ベッドに座る。


今日を、

急いで終わらせたくなかった。


目を閉じる。


茜色。

炬燵。

みかん。

横顔。


ゆっくり、

ゆっくり、

沈んでいく。


今日という日が、

体の奥に、

静かに、積もっていく。


この関係に、

名前はない。


未来も、ないかもしれない。


それでも。


今日、

確かに、

あの部屋は、

暖かかった。


それだけで。


少しだけ、

明日が怖くなくなる。

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