水平線の手前で、まだ立ち止まっているぼく
この大学に入って二年以上経った。
初めの頃は、
まだ見ぬサークルを、友人を、恋人を追いかけていた。キャンパスのどこかに、自分の人生を少しだけ変えてくれる何かが落ちている気がしていた。
新歓のビラを何枚も受け取って、結局どこにも連絡しなかった春。
学食の席に長く座って、大学生らしい時間を過ごしているつもりになっていた昼。
知らない誰かと自然に話す未来を、疑いもせずに想像していた頃。
しかし、いつしかこの場所は、単位を取るための講義に出るだけが来る目的になっていた。講義室の空気は、いつも同じ温度で、同じ匂いで、同じ色をしている。蛍光灯の白。プロジェクターの淡い光。ノートに並ぶ文字。全部が整いすぎていて、どこにも自分が入り込む余白が無いように思えた。
「最近来てなかったけど、何かあった?」
入学式の席が隣だった縁だけで繋がっているこいつしか、大学での話相手は居なかった。親友でもない。嫌いでもない。ただ、消えないだけの関係。
「ごめんごめん。ちょっと体調が悪くて」
当たり前のように嘘を吐く。罪悪感は、もうほとんど無かった。本当のことを言ったところで、何かが変わるとも思えなかった。
「そういえば、今日の就活説明会行く?」
就活。その言葉を聞くだけで、喉の奥が少し乾く。他人事のように逃げ続けていた単語が、大学三年という現実を連れて、目の前に立っていた。メール。掲示板。講義前の案内。逃げ道は、少しずつ消えていく。
バイトですら労働が死ぬほど嫌なのに、社会人として会社に属し、何十年も働き続ける未来なんて想像したくない。決まった時間に起きて、決まった電車に乗って、決まった椅子に座って、決まった時間まで生きる。それを何十年も繰り返す。考えるだけで、胸の奥が静かに沈む。
そもそもこんな無名な大学を卒業したところで、安定した未来なんて手に入る気がしなかった。ニュースの中の成功者たちは、最初から別の世界に住んでいる生き物みたいだった。
不安で、不安で、ちっぽけな僕は押し潰されそうだ。それでも、時は止まらない。世界は残酷であり、同時に寛容だった。何もしていなくても、今日という日は終わる。僕が何も成し遂げていなくても、朝は来る。
切実に願う。幸せになりたい。
それだけだった。大きな夢なんていらない。誰かに誇れる人生じゃなくていい。ただ、安心して呼吸できる時間が欲しかった。
嫌な現実から逃げるように、僕は海へ通った。自主休校を決め込んだり、バイトを休んだりして、平日の静かな海に来る時間を作っていた。理想の大学生像から、確実に離れていく。それでも、静かで、何も求めてこない海は、あまりにも優しかった。
海は、何も言わない。評価もしない。期待もしない。ただ、そこにある。それだけで十分だった。
今日も一限の退屈に耐えきれなくなって、僕は海を目指してこの駅に降り立った。改札を抜けると、潮の匂いが微かに混ざっている。肺の奥が、少しだけ軽くなる。
波打ち際まで一直線に向かう。海からの風は、少し寒い。でも、その冷たさが、頭の中を整理してくれる気がした。
砂浜から海へ伸びる人工物の上を歩く。コンクリートは冷たく、少しだけ湿っている。靴底越しに、海の存在が伝わってくる。
人工物の上に座り、水面を見下ろす。海面の下には、小さな魚たちが泳いでいた。群れて、離れて、また集まる。理由もなく、ただ動いている。それが、少しだけ羨ましかった。
「また会ったね」
聞き慣れた声がして、振り返る。
「今日も釣りですか?」
「うん」
その人の格好を見れば、答えは分かっていた。色あせたキャップ。使い込まれたベスト。手に馴染みすぎている釣竿。
「君は学生さん?」
ここに通い詰めて顔なじみになったおじさんは、初めて会った時から変わらず穏やかな口調だった。波の音と、よく似合う声だった。
「大学生です」
「そうか、大学生は自由だね」
「そんなこともないですよ」
普通の大学生とはかけ離れている僕は、暇ではあっても自由ではなかった。見えない籠に閉じ込められている感覚があった。鍵はかかっていないのに、外に出る勇気がない。
「ぼくは、自由すぎて困っているところだよ」
その言葉は、羨ましくて、少しだけ寂しくも聞こえた。
水平線を二人で眺める。時間がゆっくり進む。釣り糸が波と一緒に揺れる。風が頬を撫でる。ここでは、呼吸が楽だった。
「君は海が好き?」
「好きです。とても」
その言葉を口にした瞬間、千華さんの横顔が、波に写った気がした。煙越しに見た横顔。夜の電灯の下の瞳。缶を合わせた音。炬燵の中の温度。
全部が、ほんの一瞬だけ、胸の奥をかすめた。
波は、何も知らない顔で、また岸に戻ってくる。
それでも僕は、海が好きだった。何も許してくれなくても、何も救ってくれなくても、ここにいるだけで、自分が少しだけ透明になれる気がした。
海は、僕を変えない。救いもしない。ただ、否定もしない。それだけで、十分だった。
そして、そんな場所を求めている自分を、まだ嫌いにはなれなかった。




