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恋にならない恋の続き

何度目かのお姉さんとの、真夜中の密会だった。


長かった夏は、もう完全に遠くへ退いていた。

短かった秋も、終わりを知っている空気になっている。


夜の匂いが、少し乾いていた。

吐いた息は、まだ白くならない。

けれど、呼吸の奥に、冬の気配が混ざり始めている。


公園に向かう道は、もう完全に見慣れていた。

何も考えなくても、足が勝手に曲がる。

信号。

自販機。

街灯。

全部が、

「ここに来る夜」を知っているみたいだった。


電灯の白い円の中に、彼女はいた。


ベンチの端。

足を軽く組んで、

煙草を指に挟んでいた。


火が、小さく揺れている。


吸う。


肩が、ほんの少し落ちる。


吐く。


煙が、夜に溶ける。


その姿を見るだけで、

胸の奥が、少しだけ静かになる。


「……来たんだ」


低い声。

夜の温度と同じくらいの声。


「……はい」


それ以上の言葉が、出ない。


彼女は、小さく笑う。


「固いなあ、相変わらず」


その言い方が、

少しだけ優しかった。


煙草の先が、赤く灯る。

呼吸に合わせて、

小さな生命みたいに揺れる。


「コンビニ行く?」


「……行きます」


それだけ。


それだけで、十分だった。


歩き出す。


アスファルトは、

昼間の熱をもうほとんど失っていた。


街灯が、

少しだけ滲んで見える。


コンビニの光が、遠くに浮かぶ。


人工的な白。

夜とは完全に別の世界。


自動ドアの前に立つ。


ウィーン。


暖かい空気が、

一気に体を包む。


油。

洗剤。

甘いパン。

コーヒー。

プラスチック。


全部が混ざって、

「人間の生活」になっていた。


床は、少しだけ濡れている。

誰かの足跡が、水を引きずっている。


彼女は、迷わずカゴを取る。


慣れた動き。

ここが、日常の延長みたいに。


「好きなの入れていいよ」


僕は、

缶チューハイと、

スポーツドリンクと、

菓子パンを入れる。


彼女は、酒の缶を二本。

迷いなく。


それが、

少しだけ、大人に見えた。


レジ。


「から揚げください」


油の音が、

奥から小さく聞こえる。


紙袋が、

ほんのり温かい。


それを受け取る瞬間、

妙に現実味があった。


外に出る。


冷たい。


その瞬間。


ぽつ。


手の甲。


もう一粒。


上を見る。


空は、真っ黒だった。

月も、星もない。


そこから、

細い雨が落ちてきていた。


音は、ほとんどない。


でも、

確実に、世界の表面を書き換えていく雨だった。


街灯の光の中で、

雨は、細い糸みたいに見える。


「降ってきちゃったね」


「……どうします?」


少しだけ、帰りたくないと思った。


「から揚げ冷めちゃうし」


少し笑う。


「家、来る?」


心臓が、

一拍だけ、遅れる。


「……行きます」


公園から少し歩く。


雨は、

少しだけ強くなる。


街灯が、

水たまりに揺れる。


住宅街。


窓の光。

カーテンの影。

誰かの生活。


アパートに着く。


小綺麗だった。

新しくはない。

でも、ちゃんと手入れされている。


階段を上る。


コンクリートが、

夜と雨を吸っている。


二階。


廊下。


雨音が、

屋根に細かく当たる。


廊下の端。


鍵。


カチャ。


「ただいま」


生活の匂い。


一人暮らしの女性の家に入るこのシュチュエーションに、興奮と少し罪悪感を覚えて極度の緊張に陥る。


「お、お邪魔します」


喉が、乾いていた。


部屋。


少しだけ、暖かい。


外とは、別の空気。


「お酒飲もう」


缶。


プシュ。


炭酸の音が、

妙に大きく聞こえる。


「乾杯」


「……乾杯」


僕の缶とお姉さんの缶が、ぶつかり合う。あまり酒を飲まない僕でも、この緊張を紛らわせようとアルコールをどんどん喉に流し込む。


体が、少しだけ軽くなる。


「いい飲みっぷりだね」


彼女も、飲む。


時間が、

少しだけ速くなる。


酒。

から揚げ。

スナック。


全部が、

ゆっくり減っていく。


「この部屋、暑くない?」


彼女が、首元を引っ張る。


火照った肌。


「脱ぐのはやめてください」


「なになに、照れてるの?」


「照れてません」


「かわいいー。もっと照れてよ」


顔が、熱い。


酒のせいか。

彼女のせいか。

分からなかった。


四畳半で、恋をした。


物語のような綺麗な恋なんかではなく、あまりにも俗世的でちっぽけな恋。

初めてのキスは、微かにたばこの匂いがした。


世界が、

少しだけ壊れて、

少しだけ広がった。


好きしか知らず、恋を知らなかった僕の心臓は、破れんばかりに揺れ動いた。


あなたは、僕の何倍も大人で、そんなあなたの世界を、僕も見てみたいと思った。


その夜は、

確かに、僕のものだった。


「笑ってる顔かわいいじゃん」


一人用のベッドで、二人が向かい合う。もうすっかり夜が明けていた。


「ところで、君なんていうの?」


「……え?」


「名前」


「村瀬……和樹」


「和樹君、いい名前」


「……お姉さんは?」


「千華。佐々山千華」


名前が、

体の中に落ちていく。


何度も、

心の中で、繰り返す。


出来た経験の無い僕に、今がそのタイミングだと直観が告げる。息も整えない間に、口を開いた。


「千華さん、あの……」


「それ以上はやめといたほうがいいよ。少なくとも、今は君の望んでいる返事は出来ないから」


恋が、

静かに、終わる。

この日。

初めて、

千華さんと、

連絡先を交換した。



寝不足による、少しだけ浮いたような視界で見る朝の光が、

最近、嫌いじゃなくなっていた。


まぶしいはずの太陽の光が、

どこか輪郭をぼかして、世界を柔らかくしてくれる。


夜更かしをした人間だけが見られる朝。

誰にも褒められない、

誰にも意味を与えられない、

それでも確かに存在する、小さな特権。


それを手に入れていることが、

少しだけ嬉しかった。


見上げた空は、

泣きたくなるくらい、澄んでいた。


理由は分からない。

ただ、

あまりにも何も混ざっていない青が、

自分の中の濁りを浮き上がらせる気がした。


胸の奥が、

静かに、痛む。


それでも、

目を逸らさずに、空を見ていた。


そのあとも、

僕と彼女の、不思議な関係は続いた。


始まりも曖昧で、

名前をつけるには、どこか足りなくて、

終わりを想像すると、

少しだけ呼吸が浅くなる関係。


夜になると、

自然と、同じ場所にいる。


約束なんて、

ほとんどしたことがないのに。


「和樹くんと飲みたい気分だったんだよね」


その言葉は、

軽くて、

柔らかくて、

でも、逃げ道を残したままの温度をしていた。


この人は、本当に狡い。


僕が、まだ好きなのを、

知らないはずがないのに。


知らないふりをして、

触れすぎない距離で、

でも、離れすぎない場所に、

僕を置く。


それが、

どれだけ優しくて、

どれだけ残酷なのか、

きっと彼女は分かっている。


僕は、

また、千華さんと缶を合わせる。


金属同士が触れる、

小さな音。


それだけで、

今この瞬間が、

確かに存在していると、分かる。


アルコールの苦味が、

喉を通る。


体の奥に、

ゆっくり、熱が広がる。


夜の空気。

煙草の匂い。

缶の冷たさ。

ベンチの硬さ。


全部が、

妙に現実的だった。


こうして、

惰性みたいに、関係は続いていく。


前に進んでいるわけでもなく、

壊れているわけでもなく、

ただ、

形を変えないまま、

少しずつ、時間の中に沈んでいく。


そして。


この都合のいい関係を、

どこかで望んでいる自分がいる。


知っている。


もし、

どちらかが踏み込めば、

きっと壊れる。


それでも。


このままなら、

隣にいられる。


その選択をしているのは、

彼女じゃなくて、

僕だった。


そんな自分を、

嫌いになれなかった。


むしろ、

少しだけ、安心してしまっていた。


夜が終われば、

また普通の世界に戻る。


就活。

講義。

電車。

未来。


全部が、

少しだけ重たい。


でも。


夜になれば、

またここに来られる。


三日月でも、

曇りでも、

雨でも。


隣に、

煙草を吸う人がいる。


それだけで。


今日という一日を、

越えられる気がした。




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