明日帰る
数日。
「いつか」は、ノートの端にいる。端にいるから、真ん中を奪わない。
千華さんは、言わないを守ったまま、少しだけ違う置き方をくれる。
「夕方だけ」
「朝だけ」
「10分だけ」
「入口だけ」
だけ、があると、外は薄くなる。薄いと、息が入る。
内定のメールは、冷たかった。
冷たいから扱えた。
返事を出したあと、空白が来た。空白は、怖いときがある。でも空白には、湯気を置ける。水も置ける。背中も置ける。
置けたら、戻れる。
戻れたら、眠れる。
⸻
ある夜。
喫茶店のスープの匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
千華さんから来る。
「ねえ。言わないを守ったままでもいいけど、そろそろ“明日帰る”って言える外、やってみる?」
明日帰る。泊まりじゃない言い方。言い方が薄いと、触れる。
僕は喉の奥を確かめる。乾きは薄い。
「…明日帰る、なら」
送る。
返事。
「よし。じゃあ“夜までいる”も言わない。言わないで、帰りの時間を“明日”に置くだけ。帰れる時間があるなら、外は外じゃなくなる」
帰れる時間。時間は数字。数字は冷たい。冷たいから扱える。
僕はスマホを伏せる。
伏せると、部屋の音が戻る。換気扇。遠いテレビ。家の音。
家の音は、今日を続けさせる。
⸻
翌朝。
目が覚めた瞬間、喉の奥に「明日」が薄く残っている。
薄いなら扱える。
キッチン。
母が言う。
「最近、外の話、増えた?」
増えた。少し重い。でも「だけ」がある。
「…だけ、が増えた」
僕。
母が笑う。
「いいね。だけ、は優しい」
父が新聞の上から言う。
「外は増やすな。時間を置け」
時間。父はいつもそこへ戻す。
「…置く」
僕。
味噌汁を飲む。熱い。熱いと、今が分かる。
今が分かると、明日が薄くなる。
⸻
午前。
十分。
紙。
「明日帰る外」
その下に小さく。
「柱(三)」
「水」
「背中」
「湯気」
「夜の終わりの音」
「朝の終わりの音」
「帰りの時刻(明日)」
書いて、ペン先が止まる。
止まるのは、置けたから。
置けたら、終われる。
水。冷たい。「ここ」。
背中。支え。
呼吸。三。
一、二、三。
終わり。
⸻
昼。
千華さんから来る。
「紙、置けた?」
押してこない確認。
「置けた。明日の帰りの時刻まで書いた」
送る。
返事。
「じゃあ、今度の土曜。いつもの駅→柱→水→背中→湯気。そこから“明日帰る”の外。入るなら10分。無理なら入口だけ。夜は湯気だけ。寝るのは、布団の縫い目でいい」
布団の縫い目。家の中の言葉。
家のものを外へ持っていけると、怖さが薄くなる。
僕は返す。
「…土曜。明日帰るの外。無理なら入口だけ。帰りの時刻は先に」
送信。
スマホを伏せる。
伏せた黒い画面に、薄い自分が映る。
薄いのは、怖いより触れる。
⸻
土曜。
昼。
柱のある駅。
音が多い。目の奥が乾く。
水を買う。ガタン。終わりの音。
柱。冷たい。今。
三。
一、二、三。
止める。止めるのも終わりだ。
千華さんが来る。
「今日は、背中、どう?」
背中。押してこない。
「…つく」
僕。
千華さんが頷く。
「じゃあ、行けるとこまで。同じで」
同じ。合図。
僕らは喫茶店へ行く。
鈴。カラン。
背中。支え。
湯気。
僕はココアじゃなくて、今日は紅茶にする。甘いがないと、夜に寄りすぎない。寄りすぎないと、保てる。
千華さんが言う。
「今、帰りの時間、もう一回だけ置いとこ」
置く。段取り。
テーブルの上で、紙に書く。
「明日 ◯時 駅」
数字は冷たい。冷たいから扱える。
千華さんが小さく言う。
「じゃあ、明日帰れる」
帰れる。軽い。
僕は頷く。
⸻
バス停。
支柱。触る。冷たい。今。
バス。背中。支え。
窓の外が流れる。流れると、思考も流れる。
町。
夕方の匂いが少し混ざる。まだ昼なのに、影が薄い。薄い影は、目を急かさない。
建物。
入口。
文字。「宿泊」。言葉が大きい。大きいと喉が乾く。
乾いたら水。
冷たい。「ここ」。
千華さんが言う。
「言わない。今日は“明日帰る”だけ」
明日帰るだけ。小さい。
僕は頷く。
受付。
鍵。
部屋番号。
紙。冷たい紙。冷たいから扱える。
廊下。
畳の匂い。木の匂い。家じゃない匂い。家じゃない匂いは、輪郭を揺らす。でも揺れたら、触る場所を探せばいい。
柱。
旅館の柱は、冷たくない。少し温かい。温かい柱も境界になる。
指先で触る。今。
⸻
部屋。
襖を開ける音。スッ。
畳。低い机。湯飲み。窓の外。
外が遠い。遠いと、戻れる。
バッグを置く。置くと、ここが「ここ」になる。
千華さんが言う。
「帰りの紙、ここにも置こう」
紙を机に置く。
「明日◯時 駅」
置くと、喉の乾きが少し薄くなる。
僕は水を飲む。冷たい。「ここ」。
背中を壁につける。畳の部屋の背中は、椅子と違う。でも支えになる。
千華さんが笑う。
「背中、ついたね」
ついた。ついただけ。だけ、が助ける。
⸻
湯気。
今日は入る。
入るなら10分。
それだけ。
脱衣所の白い光。白い。でも乾かない白。湿りがあるから。
タイマー。10分。ピ。
湯船。胸の下。
熱い。息を吐く。吐くと入る。
一分。
二分。
湯気が目の奥を柔らかくする。柔らかいと、薄いが薄いままでいられる。
三分。
喉が少し乾きそうになる。予告。予告なら戻れる。
湯船の縁。石。触る。形がある。
四分。
五分。
半分。終わりが見える。
六分。
七分。
のぼせそう。予告。予告なら、出る準備。
八分。
九分。
ピピ。
鳴る。終わりの音。
僕は出る。出れた。
出れたら戻れる。
脱衣所。布。境界。
服。境界。
外の空気。冷たい。輪郭が戻る。
戻った。
⸻
夕飯。
広間。
人の声。皿の音。箸の音。
音が多いと目が薄くなる。でも薄くなる前に、戻る順番はある。
水。冷たい。
背中。椅子の背。支え。
言葉は短く。
千華さんが小さく言う。
「しんどくなったら、部屋に戻る。戻る道、先に」
戻る道。助かる。
僕は頷く。
食べる。熱い。今。
全部食べない。全部は先へ行く。先へ行かないために、残していい。
残していい。許可があると、息が止まらない。
部屋へ戻る。
廊下の足音。襖の音。
終わりがあると、夜が長くならない。
⸻
夜。
部屋。
窓の外は暗い。暗いと、目の奥が休む。
千華さんが言う。
「今夜の湯気は、ここで」
ポット。湯。湯気。
鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。
布団を敷く音。サッ。
布団の縫い目。凸凹。家と同じ線。
千華さんが小さく言う。
「ねえ、今日は“泊まり”って言わなかったね」
言わなかった。小さい。
僕は喉を確かめる。乾きは薄い。
「…言わないで、明日帰るって置けた」
置けた。置けたら十分。
千華さんが頷く。
「じゃあ、今日はそれで終わり」
終わり。小さい終わり。
電気を消す。
暗い天井を見る。
意味はない。でも意味がなくても見る。
眠りはすぐ来ない。でも、待てる夜がある。
今日は、それだ。
⸻
翌朝。
目が覚めた瞬間、ここがここだって分かる。分かると、喉が乾かない。
窓の外が薄い。朝の薄い光。
布団の縫い目。凸凹。指に残る。
残ると、今が分かる。
千華さんが起きる気配。布が擦れる音。
「おはよ」
小さい声。
「…おはよ」
僕。
朝ごはん。
味噌汁。湯気。白いご飯。卵。
家と似てる。似てると、外が外じゃなくなる。
でも、似てるのに違う匂いがする。畳。木。知らない湯気。
違いがあると、今日が今日になる。
⸻
帰り。
帰りの時刻が紙にある。あると、迷わない。
駅へ。
バス停。支柱。触る。冷たい。今。
バス。背中。支え。
駅。柱。冷たい。今。
三。
一、二、三。
止める。
止めるだけで、戻れる。
改札。ピ。
終わりの音。
電車。席。背中。
窓の外が流れる。流れると、胸の硬さも流れる。
千華さんが小さく言う。
「帰れそう?」
「…帰れそう」
帰れそう、が言えると、帰れる。
⸻
家。
「ただいま」
母。
「おかえり。どうだった?」
どう。軽い。
「…明日帰る、できた」
僕。
母が頷く。
「それならよし。匂い強めにしよっか」
段取り。
父が居間から言う。
「戻れたか」
「…戻れた」
「よし」
よし。輪郭。
輪郭があると、家に馴染む。
⸻
夜。
部屋。
机の上。水。ノート。粉。スマホ。
全部がそこにある。
ノートを開く。
今日は少しだけ多い。でも多すぎない。
「明日帰る」
「帰りの時刻」
「旅館の柱」
「10分」
「ピピ」
「背中」
「湯気」
「布団の縫い目」
「戻れた」
書いて閉じる。
閉じると終わりができる。終わりができると次が怖くない。
スマホが震える。
千華さん。
「おかえり。明日帰る、できたね。できたって重かったら忘れて。ねえ、今日だけ一回、“泊まった”って言ってもいい? 言いたくなかったら言わないでいい」
泊まった。言葉は大きい。大きいけど、“今日だけ一回”が付くと薄くなる。
薄いなら触れる。
僕は喉を確かめる。乾きはない。
ないなら言える。
「…泊まった」
送る。
返事。
「うん。泊まった。戻れた。今日はそれで十分。おやすみ」
おやすみ。軽い終わり。
僕はスマホを伏せる。
光が消える。
消えると、目の奥が休む。
湯気を作る。粉。お湯。甘い。
甘い。嫌じゃない。
嫌じゃない甘さは、外と家を繋ぐ線になる。
⸻
数日。
入社の準備が始まる。
スーツ。靴。書類。
書類の白。白は乾く。でも水がある。背中がある。終わりの音がある。
父は言う。
「同じで行け」
母は言う。
「戻るを置けばいい」
千華さんは言う。
「柱(三)」
僕は、紙に書く。
「初日=どっか」
その下に条件。
「柱(三)」
「水」
「背中」
「言葉は短く」
「終わりの音」
「帰り道」
「帰宅後:湯気」
同じ。
同じは助かる。
⸻
初日。
朝。
喉が少し乾く。予告。
予告なら先に置ける。
水。冷たい。
背中。椅子。
呼吸。三。
一、二、三。
止める。
駅。
柱。冷たい。今。
三。
止める。
改札。ピ。
終わりの音。
電車。背中。
ビル。
ガラス。反射。白い床。
乾く白。
乾いたら水。
冷たい。「ここ」。
待つ椅子。背中。支え。
名前を呼ばれる。
立つ。歩く。
ドア。カチ。
境界。
挨拶。
言葉は短く。
短いと息が入る。
息が入ると、薄くならない。
終わりの音。
エレベーターのチン。
帰り道。
駅。柱。
冷たい。今。
三。
止める。
止めるだけで戻れる。
⸻
夜。
家。
「ただいま」
母。
「おかえり。どうだった?」
「…同じで行けた」
母が頷く。
「それならよし」
父。
「戻れたか」
「…戻れた」
「よし」
よし。輪郭。
部屋。
ノートを開く。
今日は短く。
「初日」
「柱(三)」
「水」
「背中」
「終わりの音」
「帰り道」
「湯気」
「戻れた」
閉じる。
閉じると終わりができる。
終わりができると、明日が怖くない。
⸻
数週間。
仕事の白は続く。
でも、家の湯気も続く。
外の柱もある。
喫茶店のカランもある。
そして、たまにだけ“明日帰る”がある。
“泊まり”は、まだ毎回言わない。
言わないで置けるなら、それでいい。
言える日が来たら、言えばいい。
千華さんが言う。
「ねえ、今度は“旅行”って言わないで、また“明日帰る”やろう」
僕は言う。
「…同じでいい」
同じでいい。
強いのに押してこない。
だから助かる。
⸻
夜。
布団。
暗い天井。
意味はない。でも意味がなくても見る。
外はまだ外だ。
でも、外には戻るものがある。
柱。水。背中。湯気。終わりの音。帰り道。
それがある限り、外は「戻れる外」でいられる。
戻れるなら、待てる。
待てる夜がある。
今日は、それだ。




