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鳴ったら出る

翌朝。


目が覚めた瞬間、鼻の奥に、昨日の「湯気の匂い」が薄く残っている気がした。匂いは匂いで、思い出は思い出だ。混ざってもいいけど、混ぜなくていい。


布団の中で、指先を一回だけ握って開く。握る。開く。開くと、空気が入ってくる。入ってくるなら、今日も「ここ」だ。


カーテンを少しだけ閉める。光を薄くする。薄い光は、頭の中に勝手な温泉の絵を作らせない。絵ができると、先に行く。先に行くと、喉が乾く。


キッチン。


母が味噌汁を温めている。小さい泡ができて消える。父は新聞。紙の音が一定。


「おはよ」

母。


「おはよ」

僕。


父が頷く。


朝ごはんは、白いご飯と味噌汁と納豆。納豆の匂いは強い。強い匂いは、細かい考えを一回押し流す。押し流されたら、言葉が短くなる。


母が言う。

「昨日の“入口だけ”、どうだった?」

入口だけ。小さい言葉。小さい言葉は扱える。


「…入口だけで、戻れた」

僕。


父が新聞の上から言う。

「なら、次は“何分”だ」

何分。小さい時間。小さい時間は戻り道になる。


母が頷く。

「何分なら、温泉の素みたいにできるね」

温泉の素みたいに。外を家に寄せる言い方。寄せると、怖さが薄くなる。


僕は味噌汁を飲む。熱い。熱いと、喉が戻る。戻ると、今日が続く。



午前。


十分。


机の前。


椅子の背に背中をつける。支え。支えがあると、体がばらけない。


水を置く。冷たい。冷たいのは今の印。


ノートを開く。


昨日の「下見(入口だけ)」がある。あると、昨日が昨日になる。昨日が昨日になると、今日が今日でいられる。


今日は、条件を小さくする。


紙に書く。


「入るなら 何分」

その下に、もっと小さく。


「最初:10分」

「余白:+5いけそうなら

「止める合図:喉が乾く/目が薄い/指が震える」

「戻る:水→柱→バス停→駅→帰り道」


書いて、ペン先が止まる。止まるのは、置けたから。


置けたら、終われる。


水を飲む。冷たい。「ここ」。


背中をもう一回つける。支え。呼吸。


今日は三。


一、二、三。


三で止める。止めるのも終わりだ。終わりがあると、息が止まらない。


十分、終わり。



昼。


スマホが震える。


千華さん。


「おはよ。昨日の匂い、今朝も残ってる? 私は今、駅のホームの風の匂いが残ってる。残る匂いって、生活だよね。ねえ、“何分”置いた?」


何分。押してこない聞き方。


僕は短く返す。


「最初10分。余白+5。止める合図も書いた。戻る順番も書いた」


送って、スマホを伏せる。光が消える。消えると、目が休む。


すぐ返事が来る。


「10分、すごくいい。短いのに、ちゃんとある。ちゃんとって重かったら忘れて。じゃあ次の土曜、同じ→下見の場所→“入るなら10分”やってみる? 無理なら入口だけで帰る。帰り道先に、守る」


無理なら入口だけ。助かる言葉。


僕は一回、水を飲む。冷たい。「ここ」。


「…やってみる。無理なら入口だけ。帰り道先に」

送る。


返事。


「うん。守る。あと、入る前に水買う。出たらカランの湯気。余白はその日。今日も湯気ある?」


湯気。段取りの言葉。


「…夜に」

僕はそれだけ送る。夜に、は今を押し流さない。



夕方。


母が洗濯物を取り込んでいる。布が擦れる音。ぱた、ぱた。音が一定だと、頭が先に行きにくい。


父が居間から言う。

「次の選考の返事は、まだだ」

まだ。抑え。


「…まだでいい」

僕。


まだでいい、が口から出ると、喉が少し楽になる。楽になるのは、逃げじゃない。段取りだ。



夜。


夕飯。


今日は煮魚。匂いが落ち着く匂い。落ち着くと、箸が動く。


父が言う。

「土曜、外を増やすのか」

増やす。少し重い。でも“何分”があるなら、増やすじゃなくて、置くになる。


「…置く。10分だけ」

僕。


父が短く頷く。

「よし」

よし。輪郭。


母が言う。

「10分なら、鍋の火を止めるみたいにできるね」

火を止める。止めるは段取りだ。段取りは息を止めない。


僕は煮魚を食べる。熱い。熱いと、今がはっきりする。



夜。


部屋。


粉の袋。パリ。乾いた音。今の音。


お湯。湯気。鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。


一口。


甘い。嫌じゃない。


スマホが震える。


千華さん。


「夜の湯気、きた?」

きた。軽い確認。


「きた。甘い。嫌じゃない」

送る。


返事。


「じゃあ今日はそれで終わりだね。10分の話、軽くて好き。おやすみ」


おやすみ。軽い終わり。


スマホを伏せる。光が消える。消えると、目が休む。


ノートを開く。


今日は短い。


「10分」

「止める合図」

「戻る順番」

「湯気」


書いて閉じる。


閉じると、終わりができる。終わりができると、次が怖くない。



数日。


同じが続く。


紙の十分。水。背中。湯気。


10分、という数字が、勝手に大きくならない。大きくならないのは、終わりが最初から付いているからだ。


ある日は、10分の横に「5分」を書いて、すぐ消す。消すのも段取りだ。消すと、今に戻る。


千華さんからは、「今日は寒い」「今日は匂いが軽い」「今日は窓の外が遠い」が来る。


僕は拾う。拾える分だけ。


拾える分だけ、が段取りになる。



土曜。


昼。


柱のある駅。


音が多い。目の奥が乾く。


駅に着く前に、水を買う。ガタン。終わりの音。終わりがあると、次が怖くない。


柱の横に半歩寄る。


冷たい。今。


三。


一、二、三。


三で止める。止めるのも終わりだ。


千華さんが来る。今日はコートの袖が少しだけ長い。袖が長いと、手の境界が布でできる。境界があると、外が薄くなる。


「同じ、いけそう?」

千華さん。


「…いけそう」

僕。


「じゃあ、湯気のどっか、10分だけ」

10分だけ。小さい言い方。小さい言い方は息を止めない。


僕は頷く。



バス停。


支柱。柱じゃないけど、柱っぽい。


指先で触る。冷たい。今。


バスが来る。プシュー。音がすると境界ができる。


席に座る。背中がつく。支え。支えがあると、体がばらけない。


窓の外が流れる。流れると、思考も流れる。流れていくなら、止めなくていい。


千華さんが小さく言う。

「今日の余白、どう?」

余白。体の言葉。


僕は喉を確かめる。乾きは薄い。薄いなら、答えられる。


「…少しだけ」

少しだけ、は扱える。


「じゃあ、10分。無理なら入口だけ。止めたら戻る」

戻る。帰り道の言葉。


僕は頷く。



湯気のある場所。


建物の前。


文字。「日帰り入浴」。冷たい文字。冷たいから扱える。


でも、喉が少し乾く。


乾いたら、水。


冷たい。「ここ」。


千華さんが言う。

「入る前に、帰り道、確認しよ」

確認。段取り。


「…来た道。コンビニ。バス停。駅。柱」

僕。


千華さんが頷く。

「じゃあ、入っても戻れる」


戻れる。言葉が軽い。軽いから胸が詰まらない。


入口を入る。暖房の匂い。少し湿った空気。湿り気は、喉を助ける。


受付。靴箱。鍵。鍵は小さい。小さいけど、形だ。


ロッカー。扉。ガタン。終わりの音。小さい終わりがあると、次が怖くない。


脱衣所の光が白い。白い。でも、湯気が近い白だ。近い湯気は、乾かない。


千華さんが小さく言う。

「10分、どうやって数える?」

数える。押してこない。


僕は少し考えて、言う。


「…タイマー。10分。鳴ったら出る」

鳴ったら出る。僕のやり方。


千華さんが頷く。

「鳴ったら出る。いい」


浴場。


ドアを開けた瞬間、湯気が顔に来る。鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。


匂い。湯気の匂い。薄い。薄いけど、ある。


湯船の縁。石。触る。温かい。温かいと、今が違う形で分かる。冷たい今と、温かい今。どっちも今だ。


僕は、まず洗い場に座る。背中はつかない。でも、座れる。座れると、体が落ち着く。


千華さんが言う。

「今、どこ?」

どこ。場所の言葉。


「…ここ」

僕。


「じゃあ、入れた」

入れた。大きい言葉。でも、今日は肩が少し落ちるだけ。落ちるだけでいい。


タイマーを10分にする。ピ。


数字が動き出す。


僕は湯船に足を入れる。熱い。熱いと、息が一回止まりそうになる。止まりそうになったら、吐く。吐くと、入る。


肩まで浸からない。今日は胸の下まで。胸の下なら、戻れる。戻れる高さ。


湯気が顔に当たる。目の奥が少しだけ柔らかくなる。柔らかいと、白が白のままでいられる。


一分。


二分。


心臓がいつもよりゆっくりになってる気がする。気がする、でいい。


三分。


喉が乾かない。乾かないのが不思議で、少しだけ怖い。でも怖いは薄い。薄いなら扱える。


四分。


千華さんが小さく言う。

「顔、薄い?」

薄い。体の言葉。


「…薄い。けど、悪くない薄い」

言うと、千華さんが息を吐くみたいに笑う。


「悪くない薄い、いいね」


五分。


タイマーの数字が半分になる。半分は、終わりが見える形だ。終わりが見えると、息が止まらない。


六分。


指先がふやける。ふやけると、輪郭が少し曖昧になる。でも曖昧は怖いときがある。怖いなら、触る。


湯船の縁。石。触る。形がある。形があるなら戻れる。


七分。


少しのぼせそうになる。のぼせそう、は予告だ。予告なら戻れる。


水を飲む。持ってきた水は脱衣所にある。ここでは飲まない。飲まないで、出る準備をする。準備が段取りになる。


八分。


息を一回大きく吐く。


九分。


タイマーが「1」になる。1は終わりの直前。直前が見えると、怖さが広がらない。


ピピ。


鳴る。終わりの音。


僕は出る。出ると、空気が少し冷たい。冷たいと輪郭が戻る。戻ると、足が地面に付く。


千華さんが言う。

「出れた?」

出れた。確認。


「…出れた」

僕。


千華さんが頷く。

「じゃあ、今日は10分で十分」

十分。十分は終わり方だ。



脱衣所。


髪を拭く。布が頭を撫でる。撫でられると、体が戻る。


服を着る。布が肩に乗る。境界が戻る。


ロッカーの扉。ガタン。終わりの音。


靴箱。鍵。返す。返すと終わりができる。


外に出る。


空気が冷たい。冷たいと、温かいが体に残る。残る温かさは、生活の温度みたいだ。


千華さんが言う。

「今、戻れそう?」

戻れそう。答えやすい。


僕は喉を確かめる。乾きはない。ないなら言える。


「…戻れそう」

僕。


千華さんが頷く。

「じゃあ、帰り道。先に置いたやつ」



帰り道。


コンビニ。水が買える場所。買わない。買えるだけで戻れる。


バス停。支柱。触る。冷たい。今。


バス。席。背中。支え。


駅。柱。冷たい。今。


千華さんが小さく言う。

「10分、どうだった?」

どう。押してこない。


僕は少し考える。考えると喉が乾く。でも今日は乾かない。乾かない考えは、少しだけ軽い。


「…湯気が多かった。白が乾かなかった。終わりが鳴ったから出れた」

短くていい。


千華さんが頷く。

「終わりが鳴るの、強いね」

強い。少し重い。でも“鳴る”にすると、段取りの形になる。


「うん」

僕。



喫茶店。


ドア。鈴。カラン。


カラン。始まりの音で、終わりの音。


壁際。背中。支え。


ココア。湯気。


湯気が鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。戻ると、湯気が外でも内でも同じになる。線が繋がる。


千華さんが言う。

「今日は、旅行って言葉、出なかったね」

旅行。言葉は大きい。でも“出なかった”だと小さい。


「…出さなくてよかった」

僕。


千華さんが笑う。

「出さなくてよかった、も置けるんだね」

置ける。軽い言葉。


僕はカップの底を見る。底が見えると終わりができる。終わりがあると、次が怖くない。


千華さんが言う。

「帰ろ」

短い終わり。


「…うん」

僕。


鈴。カラン。



夜。


家。


「ただいま」


母が返す。

「おかえり。どうだった?」

どう。軽い。


「…10分、入れた。戻れた」

言うと、母が頷く。

「それならよし。今日は温泉の素、いらないね」

いらないね。外の湯気が家に入ってくる言い方。


父が居間から言う。

「時間を置けたなら、外は外じゃない」

外は外じゃない。父の言葉は角がある。でも、少しだけ柔らかい角だ。


「…時間が鳴ったから出れた」

僕。


父が短く言う。

「よし」

よし。輪郭。



部屋。


机の上。水。ノート。粉。スマホ。


全部がそこにある。


今日は「湯気の多いどっか」が、少しだけ「場所」になった。でも、まだ場所のまま置かない。置くときは、前日でいい。


ノートを開く。


今日は少しだけ多い。でも多すぎない。


「柱(三)」

「水」

「背中」

「湯気の多いどっか(10分)」

「終わりの音(ピピ/カラン)」

「出れた」

「戻れた」

「旅行って言わない」


書いて閉じる。


閉じると終わりができる。終わりができると、次が怖くない。


スマホが震える。


千華さん。


「10分、できた。できたって重かったら忘れて。今日は“出れた”が大事。出れたら戻れる。次は、同じ10分でもいいし、余白があったら+5でもいい。前日に置こう。おやすみ」


おやすみ。軽い終わり。


僕は短く返す。


「出れた。戻れた。おやすみ」


送って、スマホを伏せる。光が消える。消えると、目の奥が休む。


湯気を作る。粉。お湯。甘い。


甘い。嫌じゃない。


嫌じゃない甘さは、外の湯気と同じ線の上にある。


布団に入る。


暗い天井を見る。意味はない。でも意味がなくても見る。


“旅行”はまだ言わない。


でも、“10分”は言えた。


10分は、戻るための時間だ。


戻る時間があるなら、外は少しずつ近づく。


近づいても、遠くならない。


遠くならないなら、待てる。


待てる夜がある。


今日は、それだ。

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