夏が終わる前に、ひとつだけ
いつもは通り過ぎるだけの駅に、今日は降り立つ。
ブレーキの焼けた匂いを残したまま、電車がゆっくりとホームを離れていく。金属同士が擦れる音が、耳の奥に残る。
取り残されたホームの空気は、昼間の熱をまだ少しだけ抱え込んでいた。
空は高く、けれど夏特有の白く滲んだ光をまとっている。
遠くで、蝉が鳴いている。
真夏の、鼓膜を殴るような鳴き方じゃない。
どこか、季節の終わりを知っている鳴き方だった。
必死で、それでもどこか諦めを含んだ声。
スマホで地図を開き、目的地を探す。
見覚えのある地名が、目に留まった。
歴史の授業で聞いたことがある。ニュースでも見たことがある。
実際に来たことはないのに、どこか知っている気がする名前だった。
少し時間がかかる遠さだったが、未知への好奇心が希望を生みだしてくれた。
このまま、何も起きない日常に戻るより。
ほんの少しだけでも、自分の知らない場所に立ってみたかった。
改札を抜けた瞬間、町の匂いがした。
温められたアスファルトの匂い。
遠くの飲食店から漂う油の匂い。
どこかの家の夕飯の仕込みの匂い。
そして、抜けきらない夏の湿った空気。
平日の、来たことのない町を歩く。
住宅が立ち並ぶ知らない道を、地図アプリを頼りに突き進む。
そこには、穏やかで静かな、ありふれた日常が流れていた。
軒先に吊るされた風鈴が、弱い風に鳴る。
洗濯物は、少し重たそうに揺れている。
空の青は、ほんの少しだけ深くなっていた。
確実に、季節は前に進んでいる。
目的地の下までたどり着いた。
そこは、有名な戦いがあった場所で、名前くらいは誰もが知る山だった。
住宅地の外れに、山への入り口があった。
アスファルトが途切れる。
土と石と、湿った草の匂いが濃くなる。
足元の感触が、街のものから自然のものへと変わる。
鬱蒼とした山の中。
暗がりに建っている巨大な鳥居は、圧倒的な存在感で、不気味さと神秘さを放っている。
湿気を吸った朱色は、
ただの塗料じゃなく、何かの血肉みたいに重たく見えた。
鳥居をくぐった瞬間、
世界の音量が少しだけ下がる。
木陰に入った途端、体感温度が一気に落ちる。
それでも湿度は高く、
背中から汗が、じわじわと流れ落ちる。
道は、ある程度舗装されているようだが、地面が濡れていて何度か滑りそうになった。
苔が、石に張り付いている。
腐葉土の匂いが、濃い。
背中から汗が、滝のように噴き出してくる。
呼吸が、少しだけ深くなる。
肺の奥まで、山の空気が入ってくる。
まだまだ続く登山道に、安直な考えで来てしまったことを後悔し始めた。
シャツが、肌に張り付いて離れない。
上から降りてきた人たちとすれ違う。
年配の方だったが、ハイキングの格好をしていた。
慣れた足取り。
無駄のない呼吸。
首元のタオル。
軽装で来る場所ではなかったようだ。
しかし、ここで引き返したら、
今までと変わらない自分に戻ってしまいそうで踏みとどまる。
展望台と書かれた看板を見つけ、士気が上がる。
まるで、ゲームの中のセーブポイントみたいに見えた。
その看板からしばらく歩くと、開けた場所に出た。
急に風が通る。
山の匂いが、少しだけ薄くなる。
代わりに、空の匂いがする。
展望台と書かれた看板が立つ小さな広場のベンチに、疲弊した腰を下ろす。
太ももが、脈を打っていた。
手のひらが、まだ少し震えている。
野心に燃えた桔梗の旗印が靡き、
天下を掌握せしめる大義名分を得た金色の瓢箪が踊り、
天下をかけて争った地。
歴史の敗者と勝者が存在したこの地から見下ろす景色は、
家々が立ち並ぶ平和なものだった。
白い屋根。
細い道路。
遠くの学校の校庭。
どこかで、犬が吠えている。
この地で眠る、血で血を洗う戦いに散った兵たちは、
この景色を見て何を思うか。
ここから更に上に登ると城跡などがあると看板に書かれていたが、
今の服装、装備と、貧弱な僕の体力を考えると、
自殺行為にしかならないのは目に見えていた。
大人しく下山することにした。
下り道で、風が吹く。
さっきまでまとわりついていた空気が、少しだけ優しくなる。
無事に駅へとたどり着き、いつもと違う電車に乗る。
空いている車内の窓側の席に座る。
エアコンの風が、汗の引いた肌に触れる。
少しだけ寒い。
でも、それが心地よかった。
小さな達成感と、
充実感による、幸せな疲労。
僕は目を閉じる。
電車の揺れが、
ゆっくりと、
夏を、どこか遠くへ運び去っていく気がした。
最寄り駅に着いた頃には、
空はもう、夕方と夜の境目みたいな色をしていた。
改札を抜ける。
昼間とは違う匂いがする。
湿った空気に、
どこかの家の夕飯の匂いが混ざっている。
体は、まだ少し重い。
太ももの奥に、登った感覚が残っている。
それが、妙に心地よかった。
⸻
家に着く。
玄関のドアを開けると、
一気に、生活の匂いがする。
洗剤。
畳。
冷房の残り香。
靴を脱ぐ。
床の感触が、やけに現実的だった。
⸻
部屋に入る。
リュックを、床に置く。
ベッドに、そのまま倒れ込む。
天井を見る。
昼間の山。
鳥居。
風。
展望台。
映像が、
ゆっくり、
頭の中を流れていく。
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気づけば、少しだけ眠っていた。
⸻
目を開ける。
部屋は暗い。
スマホを手に取る。
0時を少し回っていた。
⸻
喉が渇いて、
台所に行く。
水を飲む。
冷たい水が、
体の奥に落ちていく。
⸻
静かだった。
家族は、もう寝ている。
冷蔵庫の音だけが、
小さく鳴っている。
⸻
部屋に戻る。
窓を、少しだけ開ける。
夜の空気が、
ゆっくり入ってくる。
昼間の熱は、
もうほとんど残っていない。
⸻
なんとなく、
外に出たくなった。
理由はない。
でも、
行かなきゃいけない気がした。
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靴を履く。
ドアを開ける。
⸻
夜は、
昼間とは、
まるで別の世界だった。
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空を見上げる。
三日月だった。
削り取られたみたいな、
細い光。
でも、
確かに、そこにある。
⸻
歩く。
住宅街。
駅前。
飲み屋街。
人の声が、
少しだけ遠い。
⸻
気づけば、
公園に向かっていた。
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電灯の下。
ベンチ。
人影。
⸻
いた。
⸻
「……遅いじゃん」
少し低い声。
少しだけ、眠そうな声。
⸻
「……ちょっと、寝てました」
「ふーん」
彼女は、
少しだけ、体を伸ばす。
黒髪が、
肩の上で、ゆっくり動く。
三日月の光が、
髪に、薄く反射していた。
⸻
「今日は、どこ行ってたの?」
⸻
少しだけ、迷う。
でも。
言葉は、
自然に出てきた。
⸻
「……山、登ってました」
⸻
彼女が、少しだけ笑う。
⸻
「急にアクティブじゃん」
⸻
僕も、少しだけ笑う。
⸻
「……なんか」
「うん」
「……知らない場所、行きたくなって」
⸻
沈黙。
でも、
それは、
心地よかった。
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「……どうだった?」
⸻
思い出す。
鳥居。
湿った空気。
風。
展望台の景色。
⸻
「……怖かったです」
「うん」
「……でも、
行ってよかったって思いました」
⸻
三日月の光が、
彼女の瞳に、
小さく映る。
⸻
「……いい日じゃん」
⸻
それだけだった。
でも。
それだけで、
十分だった。




