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途中で終わる夜

午前。


十分。


机の前に座る前に、椅子の背に背中をつける。背中が触れるところがあると、体の境界が分かる。境界が分かると、外から来るものが少しだけ薄くなる。


タイマーを押す。ピピ。


画面を開く。


「下書き保存」の文字が見える。そこに、「人が好」が残っている。残っているのは、昨日の自分の手だ。手が残したものは、手がまた触れる。


カーソルを置く。


「人が好」の後ろ。点滅する細い線。細い線は、息みたいだと思う。息は、止めると苦しい。細い線が点滅していると、止めなくていい気がする。


一文字、足すか迷う。


迷うのは、未来の形ができるから。形は怖いときがある。でも、今日は「十分」だ。十分は、逃げじゃない。段取りだ。


僕は、指を一回だけ机の上に置く。机が冷たい。冷たいと、今が分かる。


キーボードに指を移す。


「き」


「人が好き」


打った瞬間、喉が乾く。乾くのは予告だ。予告なら戻れる。戻る方法はもう知ってる。


水を飲む。冷たい。冷たい水が喉の奥を通る。通ると、喉が「ここにある」って言う。


背中を椅子につける。支えられる。支えられると、呼吸が入る。


タイマーが鳴る。ピピ。


鳴ったら閉じる。それが僕のやり方。


画面を閉じる。暗くなる。暗いと、目の奥が休む。


メモ帳を開いて書く。


「好き、まで」

短いのに、長い。長いけど、紙の上なら扱える。


ノートの端に一行。


「点滅は、息」


書いて、ペン先が止まる。止まるのは、ちゃんと残ったから。



昼。


バイト。


店の中の空気は乾いている。乾いている空気は、声をよく通す。よく通る声は、耳の奥に残りやすい。残ると、疲れる。


疲れそうになったら、手順に戻る。


「袋、いりますか」

「温めますか」


決まった言葉は、息を守る。


休憩。


緑茶。今日は少しぬるい。ぬるいと、喉が驚かない。驚かないと、体が落ち着く。


スマホを見る。


千華さん。


「今朝、洗濯物の匂いが軽かった。軽い匂いって、なんか助かるね。和樹くん、今日の匂いは?」


軽い匂い。僕も今朝、感じてた。感じてたものを言葉にすると、薄くなる気がする。でも、薄くなってもいい種類の薄さがある。


「こっちも洗濯物の匂い軽かった。午前、人が好き、まで打った。打ったら喉乾いたけど戻した」


送る。送ったあと、スマホを伏せる。伏せると、光が消える。消えると、目の奥が少し休む。


ぬるい緑茶をもう一口。口の中が温度を思い出す。思い出すと、今が続く。



夕方。


帰り道。


空が少し濁っている。曇りに向かう白。白は、目が疲れにくい。疲れにくいと歩ける。


駅の前を通る。通るだけ。改札は通らない。通らないのに、駅の匂いは来る。鉄の匂い。甘い匂い。コートの匂い。混ざる匂いは、混ざってもいいけど混ぜなくていい。


肉まんの匂いが混ざる。


今日は、足が止まりそうになる。でも止まらない。止まらないのは我慢じゃない。今日は、手のひらがもう温かいから。温かいなら、それでいい。


家。


「ただいま」


母が返す。

「おかえり。今日は鍋にしよっか」

鍋。匂いが強い。母は、匂いの強さを段取りにしてくれる。


「…うん」


父が居間から言う。

「手、洗え」

段取り。


泡。流れる。きゅっ。きゅっは、帰ってきた音。



夜。


夕飯。


鍋の湯気が上がる。湯気は、鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。戻ると、箸が動く。


父が言う。

「今日、どうだ」

どうだ、は具体じゃない。だから答えられる。


「…一文字増えた」

一文字増えた、は軽い。軽いから言える。


母が言う。

「一文字、いいね。重かったら戻ればいいし」

戻ればいいし、の言い方が押してこない。押してこないから、喉が詰まらない。


父が短く言う。

「増えたなら、残せ」

残せ、は命令じゃなくて段取り。段取りは、終わりを作るための言葉だ。


「うん」


僕は鍋をもう一口。熱い。熱いと、今がはっきりする。



夜。


部屋。


スマホが震える。


千華さん。


「人が好き、って、もうちゃんとあるね。ちゃんと、って言うの重かったら忘れて。私は“ある”って言いたかった。あるって言えると、肩が落ちる。和樹くん、今夜は湯気?」


湯気。最近、湯気が合言葉みたいになっている。合言葉って言うと大げさだから、ただの段取りの言葉。


「鍋で湯気あった。夜は長くならない気がする」


送って、スマホを置く。


ノートを開く。


今日は四つだけ。


「人が好き」

「点滅は息」

「鍋の湯気」

「ある、でいい」


書いて閉じる。閉じると、今日が終わりになる。終わりになると、次が怖くない。


布団に入る。暗い天井。意味はない。でも意味がなくても見る。


指先を動かす。布団の縫い目。凸凹。凸凹は、眠りの前にちょうどいい。



数日。


雨の日が一日だけ挟まる。


雨の日の白は、外を勝手に静かにする。勝手に静かにしてくれる感じは、図書館に似ている。違うのは、雨は外で鳴っているのに、胸の中まで届くこと。


その日は、十分をやらない。やらない日がある。やらないのは、崩れるじゃなくて、息の段取りだ。


代わりに、ノートだけ開く。


「雨は勝手に静か」

「今日は、置かない」


置かない、も置く。置かないって書くと、置かないが形になる。形になると、責めなくていい。


千華さんから来る。


「雨。白い。白いのに、今日は音が遠い。遠い音って、助かるね。和樹くん、今日は休んだ?」


休んだ、の聞き方が軽い。軽いから答えられる。


「休んだ。置かないって書いた」


返すと、すぐ返事が来る。


「置かない、いいね。置かないって置けるの、すごい。すごいって重かったら忘れて」


忘れて、まで付けるのが千華さんだ。押し付けない。


僕は短く返す。


「重くない。ありがとう」


送って、スマホを伏せる。伏せると、雨の音が少し大きくなる。大きくなってもいい。今日は雨の日だ。



晴れの日。


また乾く光。


乾く光の日は喉が渇きやすい。渇きやすいと分かってると、先に水を置ける。置けると、怖さの形が小さくなる。


午前。


十分。


タイマーを押す。ピピ。


画面を開く。


「人が好き」が残っている。残っていると、そこから始められる。始められると、始まりが大きくならない。


カーソルを置く。


「人が好き」の後ろ。


一文字、迷う。


迷うのは、未来の形ができるから。でも、今日は十分だ。十分は、段取りだ。


僕は、指先を一回だけ握って開く。開くと、今日が入ってくる。


「で」


「人が好きで」


打った瞬間、喉が乾く。乾いたら、水を飲む。飲んだら、背中をつける。つけたら、机に手のひらを置く。冷たい。冷たいと、今が分かる。


タイマーが鳴る。ピピ。


鳴ったら閉じる。閉じたら暗い。暗いと目の奥が休む。


メモ帳に書く。


「好きで」

短いのに、胸が少し詰まる。でも、詰まるのを詰まるまま置く。置けるときは置ける。


ノートの端に一行。


「で、は橋」


橋。橋は、向こうに行くためのもの。でも、橋に立つだけの日もある。立つだけでいい。



土曜。


昼。


図書館。


曇り。灰色がちょうどいい。ちょうどいい、と言えると肩が少し落ちる。


入口の自動ドアが開く音。空調の匂い。紙の匂い。紙の匂いは、急かさない。


千華さんは少し遅れて来る。マフラーを外す指が赤い。赤い指が、白い壁に映える。


「今日は、音がちょうどいい」

千華さんが言う。


「うん。薄い」

僕も声を小さくする。小さくすると、体が落ち着く。


席は壁際。背中をつけられる椅子。支える椅子。


今日は、僕もエッセイみたいな薄い本を取る。読まなくてもいい。手の置き場所のため。置き場所があると、息が止まらない。


自販機でココア。缶が落ちる音。落ちる音は、今日が始まる音になる。


席に戻る。缶の熱が手のひらに乗る。乗ると、言葉が急がなくていい。


千華さんが言う。

「和樹くん、最近、“で”が増えた?」

“で”。言い方が軽い。軽いから笑いそうになる。


「…増えた」

「増えた」

繰り返されると、“で”が少し軽くなる。


千華さんが缶を包んだまま言う。

「“で”って、橋っぽいね」

僕は少し驚く。さっきノートに書いたのと同じだ。


「…橋、って書いた」

言うと、千華さんが目を細めて笑う。

「同じ。嬉しい」


嬉しい、って言葉が出ると、胸が少しだけ痛い。痛いのに嫌じゃない。


千華さんが続けて言う。

「送る、はまだ?」

送る。冷たい言葉。でも、ここは音が薄い。背中が支えられてる。触れられる。


「まだ」

僕が言うと、千華さんは頷く。

「まだでいい。……でも、和樹くんの中で、終わりの形が見えてきてる気がする」

気がする。押してこない言葉。


僕は缶を少し傾ける。甘い。甘いのに胸が痛くならない。


「…終わりは、作るって言われた」

父の言葉を思い出す。段取りの優しさ。


千華さんが小さく息を吐く。

「終わり、って怖いけど、あると助かるときもあるね」

助かる。押し付けない助かる。


時間が少しだけ過ぎる。


体が「そろそろ」を出す。缶の温度が下がる。指先が乾く。視線が少し落ち着かなくなる。


僕が言う。

「…帰ろ」

千華さんが頷く。

「うん。短いで帰ろ」


短いで帰る。帰り方があると、外が怖くない。


駅の近くで別れる。


千華さんが言う。

「今日も、あったね」

「うん。あった」

僕も言う。


言葉が短いのに、足りる。



家。


「ただいま」


母が返す。

「おかえり。寒かった?」

「寒い」

「そりゃ寒いよ」


父が居間から言う。

「帰ってきたならいい」


いつもの言い方が、外の出来事を家の中に馴染ませる。


手を洗う。泡。流れる。きゅっ。きゅっ。終わりの音。


部屋。


机の上に、水。粉の袋。ノート。スマホ。全部がそこにある。そこにあると、段取りが見える。見えると、息が止まらない。


夜。


今日は十分じゃない。少しだけ長い。少しだけ長い、でいい。


画面を開く。


「人が好きで」が残っている。残っていると、指が動く。


カーソルを置く。


次の文字を迷う。


迷うのは、未来の形ができるから。でも、今日は「少しだけ長い」だ。少しだけ長い日は、少しだけ触っていい。


僕は、机の冷たさを手のひらで確かめる。冷たい。冷たいと、今が分かる。


「す」


「人が好きです」


打った瞬間、喉が乾く。乾く。でも、戻る方法は知ってる。


水を飲む。背中をつける。机に手を置く。冷たい。冷たい今に戻る。


「人が好きです」


文字が揃っているのを見て、胸が少しだけ詰まる。詰まるのは、良いとか悪いとかじゃない。形ができたからだ。


でも、ここで止める。今日は止めていい。止めるのも終わりだ。


保存。


保存すると、小さな変化が出る。出た気がする。気がするで十分。


画面を閉じる。暗い。暗いと目の奥が休む。


背中に薄い汗。汗は冷える。カーディガン。布が肩に乗る。境界が戻る。


台所へ行く。


粉の袋を開ける。パリ。乾いた音。今の音。


お湯を注ぐ。湯気。湯気が鼻の下を撫でる。撫でられると体が戻る。


一口。


甘い。甘いのに嫌じゃない。


スマホが震える。


千華さん。

「今夜、どう?」


僕は短く返す。


「人が好きです、まで。保存。湯気」


少しして返事。


「“です”って、ちゃんと終わる感じするね。終わるの、怖い? 怖かったら、忘れて。湯気、ありがとう」


終わるの、怖い? 押し付けない問い。忘れて、まで付ける。千華さんだ。


僕は少し迷う。迷うのは、言葉が未来の形になるから。


でも、今日は返していい。


「怖い。でも、今日は怖くない方の怖い」


送る。送ったあと、少しだけ笑う。怖くない方の怖い、って変な言い方。でも、変でもいい種類の言い方だ。



その夜。


ノートを開く。


今日は六つだけ。


「人が好きです」

「です、は終わる」

「怖くない方の怖い」

「保存」

「湯気」

「止めるも終わり」


書いて閉じる。


閉じたら、指先に粉の匂いが残る。残る匂いは生活の匂い。生活の匂いは、眠りの前にちょうどいい。


灯りを消す。暗い天井を見る。意味はない。でも意味がなくても見る。


喫茶店の鈴の音。カラン。

図書館の空調の薄い音。

家の換気扇の音。


薄い音が胸の奥に残る。


「送る」はまだ来てない。でも、「終わる」は少し来た。終わるが来たなら、送るは急がなくていい。急がなくていい、も段取りだ。


布団の縫い目をなぞる。凸凹が指に残る。残るものがあると、眠りが来る。


眠りはすぐ来ない。でも、今夜は来る気がした。


待てる夜がある。


今日は、それだ。



翌朝。


喉は少し乾いている。でも、乾きの形が昨日と違う。昨日より薄い。薄い乾きは、怖くない。


キッチン。


母が言う。

「今日は、どう?」

どう、の軽さ。


「…終わった感じが少し」

終わった感じ。終わってないのに、終わった感じ。感じでいい。


母が頷く。

「感じでいいよ」

父が新聞の上から言う。

「感じがあるなら、次は段取りだ」


段取り。父はそれしか言わないみたいに言う。でも、それが父の優しさの形だ。


僕は味噌汁を飲む。熱い。熱いと、今が分かる。


その今の中で、ふと思う。


「人が好きです」は、志望動機じゃない。でも、入口にはなる。入口があると、喉が乾いても戻れる。


今日は、十分を置く。十分は、今日の形だ。



午前。


十分。


タイマー。ピピ。


画面を開く。


「人が好きです」が、そこにある。そこにあると、指が少しだけ動く。少しだけ動くと、世界が少しだけ狭くなる。狭くなると、扱える。


カーソルを置く。


次の文字。


迷う。


迷うのは、未来の形ができるから。でも、十分だ。十分は、逃げじゃない。


僕は、いきなり志望動機を書かない。書かない代わりに、別の欄を見る。


「備考」とか「質問」とか、そういう欄。冷たくない欄。


そこに、短く書けるかもしれない。


「質問はありません」

それは段取りの言葉だ。段取りの言葉は、息を守る。


でも、今日は書かない。今日は見るだけ。見るだけで十分。


タイマーが鳴る。ピピ。


鳴ったら閉じる。僕のやり方。


メモ帳に書く。


「“備考”は冷たくない」

ノートの端に一行。

「入口は、いくつでもいい」


書いて、ペン先が止まる。止まるのは、ちゃんと残ったから。



夜。


バイトの帰り道。


空は晴れている。乾く光。喉が渇きやすい光。分かっているから、水を買ってある。ペットボトルの水は冷たい。冷たいけど、今が分かる。


駅の前を通る。通るだけ。


肉まんの匂いがする。


今日は、立ち止まる。


立ち止まった瞬間、心臓が一回だけ早くなる。早くなるのは、怖いからじゃない。新しいから。


買う。


買った紙袋が、手のひらに温かい。温かいと、歩ける。歩けると、帰れる。


家。


「ただいま」


母が返す。

「おかえり。……それ、肉まん?」

母の声が少しだけ弾む。弾むのは、押してこない。


「…うん」

僕が言うと、父が居間から言う。

「温かいうちに食え」

段取りの優しさ。


肉まんを半分に割る。湯気が出る。湯気が鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。


一口。


熱い。熱いと、今ここがはっきりする。


はっきりする今の中で、思う。


買ってもいい、が来た。来たものは来たものだ。


送る、はまだ来てない。でも、買ってもいいが来たなら、送るもいつか来る。いつか、でいい。いつかは、今の言葉だ。



夜。


部屋。


千華さんに送る。


「肉まん買った。駅の前で止まって、買って、帰った。湯気あった」


返事はすぐ来る。


「え、いいね。駅の前で“止まった”がすごい。すごいって重かったら忘れて。湯気、今日も生活だね」


生活。千華さんは、生活って言葉を怖くない言い方で使う。怖くない生活は、首を締めない。


僕は短く返す。


「重くない。止まっても戻れた」


送って、スマホを置く。


ノートを開く。


今日は四つだけ。


「肉まん買う」

「止まる」

「戻れた」

「入口は、いくつでもいい」


書いて閉じる。


閉じたら、指先にまだ少し肉まんの温度が残ってる気がする。残ってる温度は、生活の温度だ。


灯りを消す。暗い天井を見る。意味はない。でも意味がなくても見る。


喫茶店の鈴の音。カラン。

図書館の薄い音。

肉まんの湯気。


湯気が残ると、眠りが来る。


眠りはすぐ来ない。でも、今夜は来る気がした。


待てる夜がある。


今日は、それだ。



数日。


「人が好きです」の後ろに、何も増えない日が続く。


増えないのに、減らない。減らないのが、助かる。助かるけど、助かるって言いすぎない。


十分。


見る。置く。閉じる。


ノートには短く残す。


「減らない」

「戻れる」

「温かいうちに」


千華さんとのやり取りも続く。


ある夜、千華さんが言う。


「ねえ、和樹くん。送るって、クリック一回だけど、その一回の前に、いっぱい段取りがあるんだね。段取りがあるって思えると、少しだけ肩が落ちる」


肩が落ちる。落ちる肩は見えない。でも言葉で見える。


僕は返す。


「一回の前に、水と背中と湯気がある。あると戻れる」


送る、はまだ来てない。でも、戻る場所は増えている。


増えているなら、今はそれでいい。



土曜。


昼。


喫茶店。


久しぶりに、駅の反対側。看板の擦れた文字。長くそこにいた文字は急かさない。


ドア。鈴。カラン。


中は暖かい。コーヒーの匂い。バターの匂い。小さな音楽。


席は壁際。背中をつけられる椅子。硬い。硬いのに安心する。


千華さんが座って背中をつける。肩が少し落ちる。


「ここ、やっぱり好き」

千華さんが言う。


好き。好きって言える日がある。


僕は頷く。

「うん。ここって分かる」


ココアを頼む。湯気。湯気が鼻の下を撫でる。撫でられると体が戻る。


千華さんが言う。

「ねえ、“人が好きです”の次って、決めなくていいけど、もし決めるなら、どういう方向が楽?」

楽。押してこない言葉。


僕は少しだけ迷ってから言う。

「…具体じゃない方向。たとえば、“人と話すのが”とかじゃなくて、“人の”とか」

具体じゃない方向は、逃げじゃない。今の形だ。


千華さんが頷く。

「“の”って、柔らかいね。橋みたい」

橋。ここでも橋が出る。橋は、今日の言葉だ。


僕はココアを飲む。甘い。甘いのに胸が痛くならない。


千華さんが、カップの底を見て言う。

「送る日は、終わったあとに何を置く?」

終わったあと。段取りの言葉。


僕は少しだけ考える。

「…湯気。あと、肉まんでもいい」

言うと、千華さんが笑う。

「肉まん、いい。駅じゃなくても、肉まんは湯気だね」


駅じゃなくても。湯気。背中。水。


言葉が短いのに、足りる。


時間が少しだけ過ぎる。


体が「そろそろ」を出す。


僕が言う。

「…帰ろ」

千華さんが頷く。

「うん。帰ろ」


ドア。鈴。カラン。終わりの音。


終わりの音があると、次が怖くない。



家。


「ただいま」

母が返す。

「おかえり。寒かった?」

「寒い」

「そりゃ寒いよ」


父が居間から言う。

「帰ってきたならいい」


部屋に戻る。


机の上に、水。粉の袋。ノート。スマホ。


全部がそこにある。段取りが見える。


夜。


今日は、少しだけ長い。


画面を開く。


「人が好きです」


カーソルを置く。


次の文字。


「の」


「人が好きですの」


違う。違うのが分かると、戻れる。戻るは逃げじゃない。帰り道。


バックスペース。消える。


もう一回。


「人の」


「人が好きです」

改行。

「人の」


そこまで打って、止める。


止めるのは書けないからじゃない。止めるのは、ここまで来たから。


保存。


保存の小さな変化。出た気がする。気がするで十分。


画面を閉じる。暗い。暗いと目の奥が休む。


台所へ行く。


粉の袋。パリ。乾いた音。


お湯。湯気。戻る。


一口。甘い。嫌じゃない。


スマホが震える。


千華さん。

「今夜、どう?」


僕は短く返す。


「“人の”まで。保存。湯気」


返事。


「“人の”って、柔らかい。柔らかいの、助かる。今日も終わり作れたね」


終わり作れた。父の言葉が、生活の中で少し別の形になる。


僕は返す。


「終わり作った。途中でいい」


送信。



その夜。


ノートを開く。


今日は五つだけ。


「人の」

「柔らかい」

「戻るは帰り道」

「保存」

「湯気」


書いて閉じる。


閉じたら、指先に粉の匂いが残る。残る匂いは生活の匂い。生活の匂いは眠りの前にちょうどいい。


灯りを消す。暗い天井を見る。意味はない。でも意味がなくても見る。


喫茶店の鈴の音。カラン。

図書館の薄い音。

鍋の湯気。

肉まんの湯気。


湯気が残ると、眠りが来る。


眠りはすぐ来ない。でも、今夜は来る気がした。


待てる夜がある。


今日は、それだ。

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