鈴が鳴る
翌朝。
起きた瞬間、窓の外が明るすぎて目が痛い、ってほどじゃない。でも、薄い膜みたいな光が、カーテンの隙間から部屋に落ちてる。昨日みたいに雨で柔らかくはない。乾いた光。
布団の中で、手のひらを開いて閉じる。指の関節が少しだけ突っ張る。突っ張るのは、昨日クリームを塗ったのに、寝てる間にまた乾いたからだ。乾くのは早い。早いのに、今はそれが不思議じゃない。
体を起こして、カーテンをほんの少しだけ寄せる。光を減らす。減らすと、部屋の輪郭が落ち着く。
廊下に出ると、台所から味噌の匂いがする。味噌の匂いは、朝の匂いだ。朝の匂いは、いきなり今日を始めさせる。
キッチン。
母が鍋の蓋を少しずらして、湯気を逃がしてる。父は、コップに水を注いでる。注ぐ音が、細い。
「おはよ」
母。
「おはよ」
僕。
父は頷いて、コップを口に運ぶ。喉が動くのが見える。
「今日は晴れたね」
母が言う。
「うん」
僕は、椅子に座る前に、足の裏を床に押しつける。押しつけると、体がここに寄る。
父が新聞を取って、ページを開く。
「今日は何時からだ」
父の声は、いきなり「段取り」になる。段取りになると、余計なことを言わなくて済むから、助かる。
「…昼」
「昼の何時」
「一時」
一時、って言った瞬間、胸の中で数字が少し重くなる。重くなるのを、重くなるまま置いておく。置けるときは、置ける。
母が皿を置く。今日は鮭。焼けた皮が少し剥がれてる。剥がれてるところが、箸で取りやすい。
「午前は?」
母。
「…十分だけ」
言うと、母が小さく頷く。
父は新聞を見たまま言う。
「十分でも、やったならいい」
その「いい」は、褒めじゃない。許可みたいな言い方。許可は、息を止めないで済む。
僕は鮭を口に入れる。塩が濃い。濃い塩は、頭を今に引っ張る。引っ張られるのが、今日は悪くない。
⸻
午前。
十分。
昨日の「所要時間」の文字が、メモ帳に残ってる。残ってる文字を見ると、手が少しだけ動きやすくなる。自分が残したものは、自分のものだ。
画面を開く。会社名の列。列は相変わらず冷たい。でも、今日は冷たさの角が少し丸い。丸いのは、僕が慣れたんじゃなくて、昨日から続く「できた」が薄く残ってるから。
スクロールを一段。二段。三段。
三段目で、指が止まる。
止まったところに、説明会の項目がある。オンライン。時間。所要時間。
「所要時間」のところに、数字が書いてある。九十分。
九十分は、長い。長いのに、前回は終わった。終わったことが、事実として残ってる。残ってるから、九十分の長さが、ただの長さになる。怖さじゃなくて、長さ。
タイマーが鳴る。ピピ。
鳴ったら、閉じる。それが、僕のやり方だ。やり方があると、手が迷いにくい。
今日は、メモを増やす。
「九十分」
それだけ。数字だけ書く。数字は、言葉より冷たい。でも、冷たいから扱えるときがある。
画面を閉じる。暗くなる。暗くなると、目の奥の緊張が下がる。
台所に行く。コップに水を注ぐ。飲む。喉が鳴る。鳴ると、体が戻る。
戻ったついでに、棚を見る。粉のコーンスープの袋が、そこにある。軽い袋。軽いのに、湯気が出るやつ。
袋を手に取る。まだ開けない。開けないで、戻す。戻すだけで、今日の中に「温かい」が置かれる気がする。
部屋に戻って、ノートに書く。
「九十分」
「粉の袋は軽い」
書いたら、ペン先が少しだけ震える。震えた線が残る。残った線は、嫌じゃない。嫌じゃない線は、今日の証拠になる。
⸻
昼。
バイト。
店のドアが開くたび、風が入る。今日は雨じゃないから、風が乾いてる。乾いた風は、商品棚の紙の匂いを動かす。紙の匂いが動くと、頭が少しだけ忙しくなる。
忙しくなりそうになったら、手順に戻る。
「袋、いりますか」
「温めますか」
決まった言葉は、息を守る。
昼休憩。
バックヤードで、今日はコーンスープを飲む。粉のやつじゃない。缶のやつ。缶は、落ちる音がある。音があると、今日が始まる感じがする。
甘い。甘いけど、胃が落ち着く。落ち着くと、肩が少しだけ下がる。
スマホを見る。千華さんから来てる。
「晴れた。晴れたのに、空が遠くてちょっと怖い。怖いって言うのも疲れるから、今日は“遠い”って言う。和樹くん、今日はどんな光?」
遠い、って言い方。遠いは、怖いより柔らかい。柔らかいから、触れられる。
「こっちは乾いた光。刺さらないようにカーテン少し寄せた。午前、九十分って数字見た。まだやってないけど、数字だけ書けた」
送る。送ったあと、スープの底を見てしまう。底の銀色は、空っぽの色だ。空っぽの色を見ると、胸の中も空っぽになる気がして、少しだけ怖い。でも、スープを飲んだ後の空っぽは、ちゃんと終わった空っぽだ。終わった空っぽは、悪くない。
⸻
夕方。
バイトが終わって外に出る。空はまだ明るい。冬の夕方は、明るいのに寒い。明るい寒さは、皮膚にくる。皮膚にくると、体の輪郭が分かる。
家へ向かう途中、駅の近くを通る。通るだけ。改札の前まで行くわけじゃない。通るだけなのに、人の流れの音が、耳に少し残る。
残る音は、乾いた音だ。
僕は、手袋の中で指を握る。握ると、手のひらの熱が戻る。戻るって言葉を、今日も使ってる。
家。
「ただいま」
母がすぐ返す。
「おかえり。寒い?」
「寒い」
「そりゃ寒いよ」
父が居間から言う。
「飯、先に食うか」
先に食うか、は父の段取りの言葉。段取りの言葉は、優しさの代わり。
「…食う」
夕飯は、煮物。大根が透けてる。透けてる大根は、箸で割ると、汁がしみ出る。しみ出る汁が、湯気になる。湯気は、会話の代わりになる。
父が言う。
「次のやつ、いつだ」
「…来週」
「何時」
「夜」
夜、と言った瞬間、母の手が少し止まる。止まるけど、すぐ動く。動くと、止まった時間が消える。消えると助かる。
父が短く言う。
「夜か。終わったら飯食え」
父の「飯食え」は、いつも、終わった後に置かれる。終わった後に置かれる言葉は、終わりがあるってことを教える。
「…うん」
母が言う。
「終わったら、粉のスープ作ってあげよっか」
作ってあげよっか、の声が軽い。軽いから、受け取れる。
「…自分で作る」
って言ってしまう。言ってしまって、少しだけ焦る。でも、母は笑う。
「じゃあ、一緒に作る?」
一緒に作る、は押してこない言い方だ。押してこないから、喉が詰まらない。
「…うん」
うんが、少しだけ柔らかい。柔らかい声が出たことが、夕飯の出来事になる。
⸻
夜。
部屋。
机の上にスマホを置く。今日は伏せる。伏せたほうが落ち着く日だ。落ち着く日がある、ってことが、最近は不思議じゃない。
ノートを開く。
「九十分」
「一緒に作る?」
書いて、ペンを置く。
置いたら、千華さんのことを思い出す。駅じゃなくても、温かいのを飲める場所。背中をつけられる場所。
それを思い出すと、胸のどこかが少しだけ痛い。痛いのは、悪いだけじゃない。そう書いたのは自分だ。自分の言葉は、自分に返ってくる。
スマホをひっくり返す。画面が光る。通知はない。ないのに、光るだけで少し落ち着く。落ち着く理由が分からないこともある。
千華さんに、僕から送るか迷う。
迷うのは、言葉が未来の形になるからだ。未来の形は、怖い時がある。怖い時があるのに、今日は、少しだけ触ってみたい。
指を動かす。短く。
「駅じゃなくても、温かいの飲めるとこ。今日、帰りに見た。駅の反対側に、小さい喫茶店みたいなのあった。背中つけられる椅子、ありそう。行けそうな日、ある?」
送信。
送った瞬間、画面が遠い。遠いのに、指先が少し温かい。温かいのが、どこから来たか分からない。分からないままにする。
少しして、震える。
千華さん。
「見た、って言い方が好き。喫茶店、いいね。背中つけられる椅子、想像しただけでちょっと息が入る。行けそうな日…今週末なら、昼。昼なら、怖さが少し少ない。和樹くん、無理はしないで。無理はしないって言葉、重いかな。重かったら、忘れて」
無理はしないで、が重いかを自分で気にして、忘れて、まで付ける。千華さんは、押し付けない。
僕は短く返す。
「重くない。昼、なら行けるかも。行けるかも、って言い方にする。喫茶店、見ただけだから、行って違ったら戻る」
戻る、がここでも出る。戻るは、逃げじゃない。帰り道だ。
「戻るでいい。戻るって言えるの、安心する。じゃあ、土曜の昼。雨じゃなかったら。雨なら、また別の日。雨の日は白いから、ちょっと好きだけど」
雨なら別の日、が自然に出る。未来の段取りが、押してこない形で置かれる。置かれると、息が楽になる。
「土曜、昼。雨なら白い。白くてもいい」
送って、スマホを置く。置いたあと、少しだけ笑う。白くてもいい、って自分で打った文が、生活の言葉みたいで可笑しい。可笑しいのに、胸が痛くならない。
⸻
土曜。
朝。
目が覚める。窓の外は曇り。雨じゃない。白すぎない灰色。灰色は、ちょうどいい。ちょうどいいって言葉を、最近使えるようになってる気がする。
キッチンで、母が言う。
「今日、出るんだっけ」
軽い声。軽いから、頷ける。
「…昼に」
父が新聞を見たまま言う。
「寒いぞ」
母が言う。
「手袋」
父が言う。
「帰ってこいよ」
帰ってこいよ、は、いつも通りの言い方。いつも通りの言い方は、僕を外へ出す。
部屋に戻って、コートを着る。財布。鍵。スマホ。
靴紐を結ぶ。結び目が少し斜め。結び直す。真ん中にくる。真ん中にくると、息が少しだけ整う。
家を出る。
外の空気は冷たい。冷たいのに、風が弱い。風が弱いと、歩くのが楽だ。楽な日は、歩いてる足が自分の足に見える。
駅の手前で、足が少し遅くなる。遅くなるのは、癖だ。癖は、勝手に出る。勝手に出ても、責めない。
千華さんにメッセージを送る。
「今、出た。遅くなるかも」
返事はすぐ来る。
「私も出た。遅くなってもいい。喫茶店、見つけられなかったら駅の近く戻る。戻る場所あるって思うと、肩が落ちる」
肩が落ちる。落ちる肩は、見えない。でも、言葉で見えるようになる。
僕は歩く。駅の反対側。人が少ない道。少ない道は、息がしやすい。
喫茶店は、あった。
看板が小さい。文字が少し擦れてる。擦れてる文字は、長くそこにいた文字だ。長くそこにいたものは、急かさない。
ドアを押す。鈴が鳴る。カラン。音が、乾いてる。乾いた音は、店の中の空気が乾いてるってことだ。
中は、暖かい。暖かいのに、暑くない。コーヒーの匂い。バターの匂い。小さな音楽。音楽が小さいと、会話がしやすい。
席は、窓際じゃなくて、壁際にする。背中をつけられる椅子。椅子の背が、少し硬い。硬いのに、安心する。
僕が座った瞬間、椅子が少しだけ鳴る。ギ、って。鳴ると、ここに座ったって分かる。
千華さんは、少し遅れて入ってくる。
コートの襟。マフラー。手袋。頬が少し赤い。赤い頬は、寒さの証拠だ。
目が合って、千華さんが小さく笑う。
「ここ、あった」
「…あった」
僕も言ってしまう。あった、は生活の言葉だ。
千華さんが椅子に座る。背中をつける。つけた瞬間、肩が少し落ちる。落ちるのが、分かる。
「背中、ついた?」
僕が聞くと、千華さんが頷く。
「ついた。…つくと、呼吸が入る」
呼吸が入る、って言い方。入る、は柔らかい。柔らかいから、受け取れる。
メニューを見る。字が小さい。小さい字は、読もうとすると目が疲れる。でも、今日は疲れない。疲れないのは、席が落ち着いてるから。
「温かいの、何にする?」
千華さんが聞く。
「…ココア」
言ってしまって、少しだけ照れる。ココアは甘い。甘いは、最近許されてる気がする。
千華さんは笑う。
「いいね。私もココア」
同じにするのが、押してこない。押してこない同じは、嬉しい。
店員さんが来て、注文を取る。声が落ち着いてる。落ち着いた声は、ここが急かさない場所だって教える。
ココアが来る。湯気。湯気が、鼻の下を撫でる。撫でられると、体が少し戻る。
千華さんが両手でカップを包む。指先が少し赤い。赤い指先が、カップの白に映える。
「戻るね」
千華さんが言う。
「戻る」
僕も言う。
言葉が短いのに、足りる。足りるって感覚が、胸の奥に静かに残る。静かに残るものは、怖くない。
少しして、千華さんが言う。
「駅じゃなくても、って言った日さ。言った後、肩が下がったの、ほんとだった」
「…見てた」
「見てたのに言わなかったんだ」
「言うと、固定される気がした」
僕が言うと、千華さんがカップを見たまま頷く。
「固定、分かる。固定されると、次の自分がそこに縛られる感じ」
「うん」
僕はココアを飲む。甘い。甘いのに、胸が痛くならない。痛くならない甘さは、珍しい。
千華さんが言う。
「ここ、いいね。音が小さい」
「うん。鈴だけ鳴る」
「鈴、鳴った時、ちゃんと入ったって分かった」
「分かる」
会話が、派手じゃない。派手じゃないのに、ちゃんとある。ある、って言葉が、ここでも使える。
千華さんが、少しだけ迷ってから言う。
「来週、また、夜のやつ?」
夜のやつ、って言い方。具体じゃない。だから答えられる。
「…うん。九十分」
「九十分」
千華さんが繰り返す。繰り返されると、数字が少し軽くなる。軽くなるのは、誰かが持ってくれたからじゃない。数字が、言葉になったから。
「終わったら、飲む?」
「飲む。温かいの」
「窓は開けない」
「助かる」
助かる、って言葉が自然に出る。自然に出る助かるは、胸を少し軽くする。
千華さんが、カップの底を見て言う。
「…こういう場所が、駅じゃないってだけで、なんか不思議だね」
「不思議」
「駅って、待つ場所だったけど」
「うん」
「ここは…居てもいい場所、って感じ」
居てもいい場所。言葉が胸に落ちる。落ちると、少しだけ痛い。痛いのに、嫌じゃない。
僕は、椅子の背に肩甲骨を預ける。硬い背。硬いのに、支えてる。支えられると、呼吸が入る。
「居てもいい、って言葉、好きかも」
僕が言うと、千華さんが小さく笑う。
「好きって言えるの、いいね」
好きって言える。言えると、言葉が増える。でも、増えてもいい種類の増え方がある。
時間が少しだけ過ぎる。長居はしない。身体が勝手に「そろそろ」を出す。カップの空き方。指先の温度。視線の落ち着き方。全部が「そろそろ」って言ってる。
僕が言う。
「…帰ろ」
千華さんが頷く。
「うん。帰ろ」
会計を済ませて、ドアを開ける。鈴が鳴る。カラン。鳴ると、終わったって分かる。終わりの音があると、次が怖くない。
外は冷たい。冷たいのに、手のひらの中に、まだカップの熱が残ってる気がする。
駅の近くまで歩いて、そこで別れる。
千華さんが言う。
「今日は、あったね」
「うん。あった」
僕も言う。
言葉が短いのに、足りる。足りるって感覚が、今日を固くしない。固くしない今日が、次の日を楽にする。
⸻
家。
「ただいま」
母が返す。
「おかえり。寒かった?」
「寒い」
「そりゃ寒いわ」
父が居間から言う。
「ちゃんと帰ってきたならいい」
それだけ。いつもの言い方。いつもの言い方が、外の出来事を家の中に馴染ませる。
部屋に戻る。コートを脱ぐ。手袋を外す。指先が少し乾いてる。乾いてるのに、さっきより怖くない。怖くない乾きは、ただの乾きだ。
ノートを開く。
今日は書きすぎない。でも、二つだけは置く。
「鈴が鳴る」
「居てもいい」
書いたら、ペン先にインクが溜まる。ティッシュで拭う。灰色がつく。灰色がつくと、今日が紙に触れたって分かる。
スマホが震える。
千華さん。
「帰った。喫茶店、よかった。背中つけられて、呼吸入った。あと、帰ろって言われた瞬間、やっぱり安心した。今日、あったね。次の九十分も、終わったら飲もう。窓は開けない」
僕は短く返す。
「帰った。鈴の音、よかった。居てもいい場所、あった。九十分、終わったら飲む。窓は開けないでいい」
送信。
送ったあと、椅子の背にもたれる。背中が沈む。沈むと、体がここに落ちる。落ちたまま、少し動かない。
動かない時間が、長くなっても大丈夫な日がある。
今日は、それだ。
⸻
来週。
夜。
九十分の前。
机の上を片付ける。余計な紙を端に寄せる。寄せると、机が広くなる。広い机は、落ち着く。
イヤホンを繋ぐ。水をコップに入れる。コップの水は冷たい。冷たい水は、飲むと喉が余計に乾く時がある。でも、冷たいのは、今ここにあるって分かる。
開始五分前。
画面の待機画面。会社のロゴ。ロゴが大きい。大きいロゴは、胸を少し重くする。でも、僕は椅子の背に背中をつける。喫茶店の硬さを思い出す。硬い背は、支える。支えられると、呼吸が入る。
開始。
声。スライド。文字。文字が流れる。流れる文字は、追いすぎると疲れる。疲れる前に、追うのをやめる。やめてもいい。聞いてる姿勢だけ保つ。
途中で、喉が乾く。乾くのが、予告通りで少し可笑しい。可笑しいのに、胸が痛くならない。痛くならない可笑しさは、続けやすい。
終了。
終わった瞬間、肩が落ちる。落ちる肩が、自分で分かる。分かると、終わったって分かる。
台所へ行く。
粉のコーンスープの袋を開ける。パリ、って音。音が乾いてる。スプーンで粉をすくう。粉が軽い。軽い粉が、カップの底に落ちる。落ちる音はしない。でも、落ちる手触りがある。
お湯を注ぐ。湯気。湯気が鼻の下を撫でる。撫でられると、体が戻る。
混ぜる。白い渦。渦が落ち着いて、黄色になる。黄色になると、温かい匂いが立つ。
一口飲む。
甘い。甘いのに、嫌じゃない。嫌じゃない甘さは、今日の終わりにちょうどいい。
スマホが震える。
千華さん。
「終わった? 飲んだ?」
僕は短く返す。
「終わった。粉のスープ飲んでる。喉乾いた」
返したあと、カップを両手で持つ。手のひらに熱が乗る。熱が乗ると、言葉が急がなくていい。
画面の中の九十分は終わった。終わったものは、終わったものだ。
終わったあとに、温かいのがある。
それだけで、今夜は長くならない気がした。
僕はカップの底を見て、少しだけ笑う。底の色は、空っぽの色。でも、今は空っぽが怖くない。空っぽは、ちゃんと終わった空っぽだ。
⸻
その夜。
布団に入る前に、ノートを開く。
今日は三つだけ。
「九十分、終わる」
「粉が落ちる」
「湯気が戻す」
書いて、閉じる。閉じたら、指先に少しだけ粉の匂いが残ってる気がする。残ってる匂いは、生活の匂いだ。生活の匂いは、眠りの前にちょうどいい。
灯りを消す。暗い天井を見る。見ても意味はない。でも、意味がなくても見る。
今日は、喫茶店の鈴の音が少しだけ浮かぶ。カラン。音が小さい。小さい音は、胸の奥に残る。
残るものがあると、眠りが来る。
眠りはすぐ来ない。でも、今夜は来る気がした。来る気がするだけで、肩の力が抜ける。抜けたまま、少しだけ待つ。
待てる夜がある。
今日は、それだ。




