雨の光はやさしい
翌朝。
目を開けた瞬間、昨日の「甘い」が、舌の奥のほうにまだ残っている気がした。缶の甘さじゃなくて、あの甘さが許された感じ。許されたって言うと大げさだけど、息を止めなくてもいい時間があった、っていうやつ。
布団の中で、指先だけ動かす。爪の先が布に引っかかる。引っかかると、現実に触れてる感じがする。触れてるなら起きられる。
起き上がって、窓のカーテンを少しだけ開ける。外は薄い光。雲が低い。遠くの電線に小鳥が二羽とまって、片方だけ羽を膨らませてる。寒いんだろうな、って思う。思っただけで、喉が少し乾く。
洗面所。
蛇口をひねる。水が冷たい。指先がきゅっとなる。顔に当てる。鼻の頭だけ冷えが残る。タオルで拭く。頬の皮膚が一瞬だけ引っ張られて、眠気がほどける。
キッチン。
母がフライパンを揺すってる。卵の黄色が端に寄って、戻って、また寄る。父は新聞。ページの端を揃える指が、今日は少しゆっくりだ。
「おはよ」
母。
「おはよ」
僕。
父は小さく頷く。
母が皿を置く。焼きたての卵焼き。焦げ目が一箇所だけ濃い。僕の前に置かれた味噌汁の豆腐は、今日も多い。
「今日、昼から?」
母が聞く。
「うん」
「午前、どうすんの」
父が新聞を見たまま言う。
「…ちょっとだけ見る」
言い方を選ぶ。余計な説明を足さない。足すと、家の中に形が増える。
父が新聞の上から短く言う。
「昨日、出てたろ」
出てた、の部分を強くしない。強くしないのが父のやり方だ。
「うん」
母が卵焼きを箸で割って、湯気を逃がしてから言う。
「寒いけどさ、外の空気吸うと頭スッキリする時あるよね」
母は、僕の目を見ないで言う。見ないで言うのが、助かる。
父が新聞をめくる。
「まあ、家ん中にずっといると、余計しんどいだろ」
しんどい、って言葉が出た瞬間、僕の箸が一回止まる。でも、止めたままにはしない。卵焼きを口に入れる。甘い。砂糖の甘さじゃなくて、卵の甘さ。昨日の甘いとは違う。でも、違うからいい。
「…昼から動くし」
そう言って、箸で豆腐を一つ崩す。崩したら、言葉の角が少し丸くなる気がする。
父が鼻で息を吐く。
「昼からだけじゃ足りないって話じゃねえよ。……まあ、いい。やることやれ」
言い切って終わらせてくれる。終わらせ方が、父の優しさだ。
母が「今日の卵焼き、ちょっと甘くしすぎた?」って聞く。
「…ちょうどいい」
って答える。答えた声が、自分でも少しだけ柔らかい。柔らかい声が出たことが、朝の出来事になる。
⸻
午前。
部屋に戻る。机の上のノートは開いたまま。昨日の「揃った歩幅」の字。よく見ると、払いが短い。短い払いは、早く終わらせたかった証拠みたいで、ちょっと笑いそうになる。
笑いそうになって、そのままにする。
PCを開く前に、カーテンを少しだけ閉める。外の光が目に刺さると、文字が余計に重く見える日がある。今日はそういう日かもしれないから、先に光を薄くする。
スマホのタイマーを、今日は「十分」にする。昨日できたから、今日もやる、じゃない。昨日できたから、今日も同じにする、くらいの距離。距離があると、手が動く。
ページを開く。
会社名が並ぶ。並ぶ名前が、名前ってだけで、勝手に顔を持ち始める。顔を持つと、目が逸れる。逸れてもいい。逸れた目を戻すのに、指先だけ使う。スクロールを一段。ほんの少しだけ動く。
「オンライン」「対面」「エントリー」
単語が、画面の上で冷たい。冷たい単語は、喉の奥を乾かす。
タイマーが鳴る。ピピ、って短い音。
鳴っても、すぐ閉じない。昨日と同じにする。ひとつだけ書く。
メモ帳に、「日時」と「オンライン」だけ。
それで×を押す。画面が暗くなる。暗くなると、目の奥の緊張がゆっくり下がる。
椅子から立って、台所に行く。コップに水を注ぐ。注ぐ音が、細くて途切れない。飲む。冷たい水が、胃に落ちる。落ちるところまで追うと、体が一回だけ戻る。
戻ったまま、カップ麺の棚を見てしまう。見てしまって、やめる。やめた自分が、少しだけ偉い、って思いそうになるけど、思わない。思うと、また何かが増える気がする。増えなくていい。
部屋に戻って、ノートの端に一行だけ書く。
「十分、目が乾く」
それだけ。
⸻
昼。
バイト。
今日は、店のドアが開くたびに風が入る。春休みでも、平日の昼は平日の顔をしてる。スーツの人。子ども連れ。荷物が多い人。荷物が多い人を見ると、肩が少しだけ固くなる。自分の肩が固くなるのが分かると、固くならないように、親指の付け根をこっそり揉む。揉むと、指先が少し柔らかくなる。
「袋、いりますか」
「温めますか」
決まった言葉は、息を守る。
休憩。
バックヤードでスープを飲む。今日はコーンスープ。甘い。甘いのが、昨日から続いてるみたいで、ちょっとだけ可笑しい。可笑しいのに、嫌じゃない。
スマホを見る。
千華さんから来てる。
「おはよ。今日は風強いね。窓開けたら一瞬で寒くなって閉めた。閉めた音がけっこう大きくて、自分でもびっくりした。あと、昨日の甘い缶のこと思い出して、今日は甘いの買うか迷ってる。迷ってるだけで、ちょっと疲れるの変かな。和樹くんは今どんな感じ?」
迷ってるだけで疲れる、っていうのが、ちゃんと生活の言葉で来る。押してこない。だから返せる。
「風強い。こっちは店が乾く。迷って疲れるの分かる。買うか買わないかって、意外と体力使う。今日は俺、コーンスープ飲んでる。甘い。甘い日が続いてる」
送って、スマホを伏せる。机の木目に指の跡が薄くつく。指で拭うと消える。消えるのを見ると、胸の中の余計な線も一緒に消せそうな気がして、ちょっとだけ息が楽になる。
⸻
夕方。
バイトが終わって外に出る。風が横から押してくる。コートの裾がめくれる。めくれた裾を手で押さえる。押さえると、体の輪郭が戻る。
家に帰る途中、コンビニの前を通る。肉まんの蒸気が、ガラスの向こうで白い。昨日よりもはっきり見える。匂いも、気のせいじゃなくて、ちゃんとする。
買わない。買わないで通り過ぎる。通り過ぎられた自分が、少しだけ強い気がする。でも、強いって言葉も今日は使わない。代わりに、手袋の中で指を握る。握ると、指先が温かくなる。
家。
「ただいま」
玄関で言うと、母がすぐ返す。
「おかえり。手洗ってー」
手を洗う。石鹸の匂い。泡が指の間に入る。泡が流れると、指がきゅっとなる。きゅっとなるのが、帰ってきた感じ。
夕飯。
今日は鍋。白菜。豆腐。ネギ。肉。鍋の湯気が、テーブルの上で揺れてる。湯気の揺れがあると、会話がなくても間が持つ。
父が言う。
「今日、見たのか」
見た、って聞き方。具体じゃない。だから答えられる。
「…見た」
「どれくらい」
父の声が、少しだけ直球だ。テレビが消えてる。家の音が少し真面目になる。
「十分」
言った瞬間、自分でも驚く。二桁の時間を口に出したのが、少しだけ重い。
母が鍋の具をよそいながら言う。
「十分やったなら上出来じゃん」
父が鍋を見たまま言う。
「十分でもいい。……続けろ」
続けろ、は命令じゃなくて、段取りの言い方。父は段取りの言葉でしか優しくできない時がある。そういうのを、僕は知ってる。
「…うん」
鍋の豆腐を箸で割る。割ると、湯が染みる。湯が染みるのを見ると、胸の中の硬いところも少し柔らかくなる気がする。
母が僕の椀に、ネギを多めに入れる。
「ネギ食べとき。風邪ひくぞ」
「…うん」
父が鼻で笑う。
「風邪ひいたらバイト休む羽目になるからな」
言い方が雑なのに、心配が混じってる。そういう雑さが、家っぽい。
⸻
部屋。
机の上にスマホを置く。画面は伏せない。伏せると、置いたつもりが逆に気になる日がある。今日は表にしておく。
ノートを開く。今日、書くのは少しだけ。
「十分」
「鍋の湯気」
「続けろ」
書いたら、ペン先にインクが溜まる。ティッシュで拭う。灰色がつく。灰色がつくと、今日が紙に触れたって分かる。
スマホが震える。
千華さん。
「コーンスープ、いいね。甘い日が続くの、なんか好き。私は結局、甘いの買った。ホットのカフェオレ。持った瞬間、指が戻るのが分かった。戻るってこういうことだなって思った。でさ、今日は駅の近く通った。柱のところじゃなくて、反対側の出口。でも、駅ってだけで少し落ち着く。和樹くん、今日も疲れた?」
疲れた?って聞き方が、軽い。軽いから、答えやすい。
「疲れた。手が乾く感じ。鍋で少し戻った。甘いホットのカフェオレ、指戻るの分かる。駅は、駅ってだけで落ち着く時ある。今日は俺、通ってないけど、肉まんの匂いだけは通った」
送って、少しだけ笑う。肉まんの匂いだけは通った、って自分で打った文が、ちょっと可笑しい。可笑しいのに、胸が痛くならない。痛くならない笑いが、珍しい。
⸻
その夜。
笑いが残ったまま、布団に入るのは少し怖かった。怖いのは、笑いがすぐ消えるからじゃない。笑った自分が、明日の自分と別人みたいに感じるからだ。
灯りを消して、暗い天井を見る。見ても意味はないのに、視線は勝手にそこへ行く。目を閉じると、駅のベンチが浮かぶ。ベンチそのものじゃなくて、缶を持った手の熱。熱の位置。ポケットの中のスマホの角。千華さんの「魔法みたい」の言い方。
魔法なんて信じない。信じないのに、言葉ひとつで背中が軽くなる瞬間は、確かにある。
その確かさが、少しだけ厄介だ。
厄介だから、指先を動かして、布団の縁を探す。縁の縫い目に爪がかかる。そこをなぞると、縫い糸の凸凹が指に残る。残るものは、眠りの前にちょうどいい。
眠りはすぐ来ない。でも、今夜は来る気がした。来る気がするだけで、肩の力が抜ける。抜けたまま、少しだけ待つ。
⸻
翌日。
朝。
目が覚めて、最初に聞こえたのは雨だった。強くはない。窓を叩く音が、指先で机をトントンするみたいな細さで続いてる。雨が降ってると、外の空気に出る理由がひとつ減る。減ると助かる、って思う自分がいる。助かるって思った瞬間に、罪悪感みたいなものが後ろから来る。でも、その後ろから来たやつを、振り返らない。振り返ると長くなる。
布団をめくって、床に足を下ろす。冷たい。昨日より冷たい。雨の日の冷えは、まっすぐ皮膚に来る。
洗面所で顔を洗って、キッチンに行く。
母が言う。
「雨だね」
「うん」
父が新聞をめくりながら言う。
「今日は店、暇か」
「分かんない」
「雨の日は、変に混む時ある」
父は経験者みたいに言う。母が小さく笑う。
朝ごはんは、いつもより静かだった。卵焼きじゃなくて、ハムとレタス。レタスの端が少しだけしおれてる。しおれてるところから食べる。しおれてるのは、先に片付けた方がいい。
「午後、早めに出る?」
母が聞く。
「…少し早めでもいい」
答えたあと、母が「うん」って頷く。頷き方が、気を遣ってない頷き方で、それが嬉しい。
⸻
午前。
部屋に戻って、PCを開くか迷う。
迷ってる間に、雨音が少しだけ大きくなった。窓の外が白くなる。白くなると、部屋の中の色が薄くなる。薄い部屋は、逆に落ち着くことがある。
タイマーを押す。十分。
画面に並ぶ会社名を見る。昨日より見える。見えるのは、慣れたからじゃない。雨のせいで、部屋の光が弱くて、画面の白が少しだけ柔らかくなってるから。
ひとつ、昨日書いた「日時」「オンライン」のところをもう一度見返す。見返すと、あの字が自分の字だって分かる。自分の字は、読める。読めると、画面の情報も読める気がする。気がするだけでいい。
スクロールを二段。二段だけ。
タイマーが鳴る。ピピ。
今日は、メモをもう一つ増やす。
「所要時間」
それだけ書いて閉じる。閉じた瞬間、背中に汗が薄く出てるのが分かった。汗は冷える。冷える前に、カーディガンを羽織る。布が肩に乗ると、体の境界が戻る。
ノートの端に書く。
「雨の光はやさしい」
「所要時間」
それで十分。
⸻
昼。
バイト。
雨の日の客は、傘を持ってる分、手が塞がってる。袋を渡すとき、指先が触れないように、袋の持ち手を少し長めに伸ばして渡す。伸ばすと、相手の手に届く。届くと、少しだけ安心する。こういう小さな手順は、頭を無駄に使わないから助かる。
混んだ。予想通り、変に混んだ。
レジの前に、傘が何本も並ぶ。傘の先から水が落ちて、床が濡れる。濡れた床を見て、足の置き方が少し慎重になる。慎重になると、時間が少し遅くなる。遅くなると、焦りが来る。でも焦りが来ても、手は勝手に動く。
休憩。
スマホを見ると、千華さんから来ていた。
「雨、すごいね。私、今日出るのやめた。やめたって言うの、ちょっと悔しいけど、今日はやめた。窓の外が白いの見てる。白いってだけで静か。和樹くん、今日はどう?」
やめた、が悔しい。そこをちゃんと書くのが、千華さんだ。悔しいって書けるのは、まだ諦めてないってことだ。
「こっちは雨で混んでる。傘が多い。床が濡れてるから、歩く時だけ気をつけてる。今日はやめたでいいと思う。白い窓、分かる。静かだよな」
送る。送ったあと、コーンスープじゃなくて、今日は緑茶を飲む。熱い。熱いと、喉の乾きが一回で消える。消えると、言葉が少しだけ出しやすくなる。
⸻
夕方。
バイトが終わって外へ出ると、雨は小降りになっていた。空気が湿って、匂いが濃い。濡れたアスファルトの匂い。コンビニの前を通ると、肉まんの匂いが混ざる。今日は買ってもいい気がした。でも、今日は買わない。買わないと決めたわけじゃない。ただ、手袋の中の指が、もう温かいから。
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり。濡れてない?」
母が言う。
「ちょっとだけ」
「上、かけときな」
母の声が、タオルの用意まで含んでる。父が居間から「風呂先入れ」と言う。
風呂に入ると、手の乾きが少し戻る。戻るって言葉を、最近よく使ってる気がする。でも、戻るって言うと、戻る先があるみたいで、それはそれで助かる。
湯気の中で、指先の皺を見る。皺は増える。増えても、嫌じゃない。湯の中の増えるは、生活の増えるだから。
⸻
夜。
部屋に戻って、スマホを見る。
千華さんから。
「今日はやめたって言ったけど、やめたのに、ちょっとだけ落ち着いた。雨の音が、勝手に外を静かにしてくれるからかな。で、さっきカフェオレ飲んだ。甘いの。甘いの飲むと、少しだけ手が戻る。戻るって言葉、最近使いすぎかな」
使いすぎかな、って聞き方。笑ってるわけじゃないけど、自分にツッコミを入れてる感じがする。こういう軽さがあると、安心する。
「戻る、使いすぎでもいいと思う。戻るって言えるの、ちゃんとあるってことだし。雨の音、勝手に静かにするの分かる。今日は俺、風呂で指が戻った。甘いのは…たまに許される」
送って、ノートを開く。
今日書くのは、二つだけ。
「雨の匂い」
「やめたのに落ち着く」
書いたあと、ページを閉じない。閉じないまま、机に肘をつく。肘の骨が机に当たって痛い。痛いと、今ここにいるのがはっきりする。
⸻
数日。
雨が止んで、空が急に明るくなる日が来た。明るい日は、目が疲れる。疲れると、何もしてないのに、してない自分に腹が立つ。でも、腹が立つって言葉も、今日は使わない。代わりに、カーテンを少しだけ閉めて、部屋の光を薄くする。薄くすれば、目が持つ。目が持てば、指が動く。
十分。
「所要時間」を見て、口の中が乾く。乾いたから、先に水を飲む。飲んでから、もう一回見る。見る回数が増えた分だけ、慣れるじゃなくて、怖さの形が変わる。怖さの形が変わると、手の置き場所が見つかる。
バイト。
混む日もあれば、暇な日もある。暇な日ほど、頭の中の音が大きい。大きい音に耐えるために、棚の前で商品のラベルを整える。整えると、視線がそこに落ち着く。落ち着くと、余計なことを考えなくて済む。
夜。
千華さんとのやり取りは、続く。短い日も、長い日もある。
ある夜、千華さんが言った。
「ねえ、今度さ。駅じゃなくてもいいから、どっか一緒に“温かいの”飲めるとこ、あるかな。座って、ちゃんと背中つけられるとこ。背中つけられると、呼吸が落ち着く。…変かな」
駅じゃなくてもいい。
その言葉が、胸のどこかに小さな穴を開けた。穴が開くと、空気が入る。空気が入ると、少しだけ痛い。でも、痛いのは悪いだけじゃない。
僕は、返事を打つ前に、椅子の背にもたれる。背中が沈む。沈むと、千華さんの「背中つけられる」が、自分の体でも分かる。
「変じゃない。背中つけられると落ち着くの、分かる。駅じゃなくてもいいって言えたの、なんか…いい。温かいの飲めるとこ、探そう。探すって言い方が嫌なら、思いついたら言う」
送ったら、すぐ返事が来た。
「探すでいい。思いついたらでいい。駅じゃなくてもいいって言ったの、私も言ってみたかった。言えたら、ちょっと肩が下がった」
肩が下がった。
それは、僕が駅で千華さんを見た時に、いつも見てるやつだ。見てるのに、言葉にしてなかったやつ。
ノートに書きそうになって、やめる。書いたら、肩が下がった、が紙の上で固定される気がした。固定された肩の下がりは、ちょっと重い。今日は、重くしない。
だから代わりに、別の言葉を書く。
「駅じゃなくても」
「背中」
短い。短いけど、意味はある。
⸻
週末。
母が買い物に行くと言う。
「一緒来る?」
以前より、質問が軽い。軽い質問は、頷きやすい。
「…行く」
車の助手席。シートベルトのカチ。いつもの音。スーパーの白い光。野菜コーナーの冷気。今日は、白い光が刺さりにくい。刺さりにくいのは、眠いからかもしれないし、慣れたからかもしれないし、どっちでもいい。
母が、スープコーナーの前で立ち止まる。
「この前、コーンスープ飲んでたよね?」
母は、僕が休憩で飲んだのを見たわけじゃない。でも、僕が家で言ったのを覚えてる。覚えてるのが、ちょっと恥ずかしい。
「…飲んだ」
「じゃあこれ、買っとく?」
母が手を伸ばす。缶じゃなくて、粉のやつ。袋が軽い。軽いのに、温かくなるやつだ。
僕は頷く。
「…うん」
レジの袋に入った粉スープを見て、胸が少しだけ静かになる。静かになる理由が分からない。でも、分からない静かさは、悪くない。
帰りの車で、母が前を見たまま言う。
「最近さ、ちょっとだけ、顔が柔らかくなった気がする」
褒め方じゃない。感想みたいな言い方。だから受け取れる。
「…そう?」
「うん。そう」
それだけ。会話が続かないのに、嫌じゃない。こういう会話ができる日があるってことが、今日の出来事になる。
⸻
夜。
千華さんに、コーンスープを買ったことを言うか迷う。言ったら、生活の中に千華さんが入りすぎる気がした。でも、入りすぎるのが怖いって思う自分も、もう少しだけ古い気がした。古い自分は、まだいる。でも、全部が古いわけじゃない。
だから、短く言う。
「今日、母と買い物行って、コーンスープ買った。粉のやつ。たぶん、温かいの増える」
送信。
返事は、少し遅れて来た。
「いいね。粉のやつって、家の匂いする。温かいの増えるの、うれしい。私も今日は、洗濯して干した。干す時、指が冷たくて、洗濯ばさみが硬かった。硬いのに、ちゃんと挟めた。そういうのも、ちょっとだけ“ある”だなって思った」
洗濯ばさみが硬い。ちゃんと挟めた。
生活の中の小さな戦いみたいで、笑いそうになる。笑いそうになって、止めない。止めないと、胸が痛くならない笑いがそのまま通る。
「洗濯ばさみ硬いの分かる。硬いのに挟めたら、それで今日ができる。粉のスープ、湯気出るの好き」
送って、スマホを置く。
置いたあと、ノートを開く。
「粉のスープ」
「洗濯ばさみ」
書いて、ペンを置く。今日は夜の収束を丁寧にしない。丁寧にすると、今日が完成品みたいになる。完成品みたいな今日が続くと、次の日がしんどい。だから、今日は途中で終わる。
途中で終わるのに、嫌じゃない。
⸻
来週。
説明会のあと、次の「ひとつ」を決める日が来た。
決める、って言い方が重い。だから、決めるじゃなくて、「置く」にする。
机の上のメモ帳に、もう一つだけ日時を書き足す。書き足したら、インクが少しだけ滲む。滲むのは、手がまだ湿ってるからかもしれない。滲んだ字は、完璧じゃない。でも、滲んだ字の方が、僕の字だ。
父は、夕飯のときに言う。
「次、あるのか」
「…ある」
母が笑う。
「あるって言い方、いいじゃん」
父は味噌汁を飲んで、短く言う。
「なら、よし」
その「よし」が、いつも通りで、僕の肩が少し下がる。
その夜、千華さんに言う。
「次も、ひとつだけ置いた。聞くだけ。終わったらまた喉乾くと思う」
返事はすぐ来る。
「喉乾くの、もう予告になってるの面白い。終わったら飲んで。私はその時間、窓開けない。…駅じゃなくても、温かいの飲めるとこ、そろそろ見つけたいね」
見つけたいね。
それが、押してこない。なのに、少しだけ未来の匂いがする。
未来の匂いがする言葉は、怖いはずなのに、今日は怖くない。怖くない理由が分からないのは、いつもの通りだ。
僕はスマホを置いて、机の上に手のひらを置く。机は冷たい。冷たい机の上に手のひらがあると、熱の場所が分かる。分かると、呼吸が少しだけ整う。
窓の外は暗い。暗いのに、家の音がある。換気扇。テレビ。水音。足音。
その音の中で、僕はひとつだけ思う。
駅じゃなくても、って言葉は、怖いだけじゃない。
怖くない日がある。
今日は、それを覚えておく。
ノートに書かないで、覚えておく。
覚えておくっていうのは、胸の奥にしまうっていうより、指先の感触に残すみたいな感じだ。粉の袋の軽さ。洗濯ばさみの硬さ。机の冷たさ。缶の熱。背中が沈む感じ。
それらが、静かに繋がっていく。
繋がっていく音はしない。でも、繋がっていく手触りはある。
僕はその手触りのまま、椅子の背にもたれて、少しだけ動かない。
動かない時間が長くなっても、大丈夫な日がある。
今日も、たぶん、それだ。




