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甘い缶の救い

翌朝。


目が覚めた瞬間、まず「音」が来る。台所の換気扇。フライパンが触れる金属の擦れ。テレビの天気予報の、抑えた声。昨日の夜に置いた言葉より、家の音の方が先に体に触れる。


布団の中で、足先を動かす。冷えてる。指先じゃなくて、足の甲のあたりが冷たい。布団の端を少しだけ引き寄せて、膝を軽く曲げる。自分の熱が逃げにくい形にする。


枕元のスマホは、画面を見ずに手で探して、位置だけ確かめる。そこにあるのが分かったら、それでいい。見ないでいられる時間が長いと、朝は細くなる。


洗面所に行く。


歯磨き粉を少し出しすぎて、泡が多くなる。口をすすぐ回数が増える。増えた回数のぶん、頭の中が空く。鏡の中の目が、眠いというより、まだ“戻ってない”顔をしている。


キッチン。


母が、味噌汁をよそっている。湯気が、椀の縁で一度細くなってから広がる。父は新聞を広げて、ページの角を指で揃えている。


「おはよ」

母が言う。


「おはよ」


父は頷くだけ。新聞をめくる。


母が僕の前に皿を置く。トースト。バターが半分だけ溶けて、片側に寄っている。母は、それをわざわざ広げ直さない。小さなムラを、許す方の朝だ。


「今日も昼から?」

「うん」


「午前、買い物じゃなくていいからさ、ちょっと外の空気吸ってこいよ」

母が言いながら、冷蔵庫を開ける。ペットボトルの麦茶を出す音。


「…行けたら」

「その言い方、便利だよな」

父が鼻で笑う。


僕はトーストを一口かじる。表面がパリっと鳴る。鳴った瞬間に、口の中が乾く。乾いた口の中に、麦茶の冷たさが落ちる。


父が新聞の端を折ったまま言う。

「春休みなんだからさ。家にこもりっぱなしはよくないぞ」

言葉は軽いのに、芯がある。叱ってない。心配してる方の芯。


「…昼から動くし」

「動くのと、外出るのは違うだろ」

父はそこで止める。止め方が、これ以上踏み込まないっていう止め方。


母が僕の味噌汁の具を見て言う。

「ほら、豆腐多めにしといた」

「…ありがとう」


ありがとうって言った自分の声が、少しだけまっすぐで、変に胸に残る。



午前。


部屋に戻って、机の上を一回整える。ノートの角を揃える。ペンを一本、ペン立てに戻す。戻すと、机の上に空きができる。その空きに、座れる。


PCを開く前に、カーテンの隙間から外を見る。空は薄い。雲が低い。薄い空は、眩しくないのに、目を疲れさせる時がある。


五分だけ。


タイマーを押す。数字が動き始めるのを、真正面では見ない。画面の白が一瞬で目に入って、肩が少し上がる。肩を上げたまま、スクロールを一段だけ回す。


「説明会」「締切」「エントリー」


文字は同じ顔で並んでいるのに、読む側の体は、勝手に速くなる。速くなるのを止める代わりに、指先だけ丁寧にする。マウスのホイールをもう一段。ページが少し下に動く。ほんの少し。


タイマーが鳴る前に×を押す。閉じる。画面が暗くなる。暗くなると、目の奥の熱がすっと引く。


椅子から立って、台所へ行く。コップを取る。水を注ぐ音が、細くて長い。飲む。冷たい。喉を通るとき、体が一回だけ「今」に戻る。



昼。


バイト。


店の自動ドアが開くたびに、外気が一瞬だけ入ってくる。入ってきて、すぐ消える。レジの引き出しが開く音が、今日はいつもより固い。指が乾いているせいかもしれない。袋を開く時、指先が紙に引っかかる。引っかかったところだけ、少し痛い。


休憩。


バックヤードの椅子に座ると、足の裏がじんわり疲れているのが分かる。靴下のゴムの跡が、くっきり残っている。残っている跡を見ると、「やった」が体に刻まれてるみたいで、変に安心する。


スマホを見る。通知が一つ。


千華さん。


「おはよ。今日はどう? 私は今、窓の前にいる。外は寒そう。昨日のやり取り、なんかじわじわ来てる。じわじわ来るって言い方、変かな。今日は無理に何かしなくていい日にしたい。和樹くんも、疲れてたら言って。返事はいつでもいい」


じわじわ。


その言葉が、妙に似合う。缶の熱が手に残る感じ。電車の揺れが体に残る感じ。ああいうのは、じわじわだ。


返事を打つ前に、缶コーヒーのプルタブを指で弾く。カチ、と鳴る。鳴った音が小さいのに、耳の奥に残る。


「おはよ。今日は店、そこそこ忙しい。じわじわって言い方、分かる。俺も昨日のこと、急に思い出す。今日は無理に増やさなくていい日でいいと思う。俺は昼から動いてるけど、終わったら一回だけ連絡する」


送って、スマホを伏せる。机の木目に、薄く指の跡がつく。指で拭う。拭うと消える。それだけで、少し整う。



夕方。


バイトが終わって外に出ると、空気が思ったより柔らかい。寒いは寒い。でも、刺す寒さじゃない。手袋をしたまま、指を一本ずつ曲げる。布の中で指が動く音がする。動く音は、外に出ない。自分だけの音。


駅へ向かう途中、スマホが震える。


「了解。終わったらの連絡、待ってる。今日はね、コンビニで肉まん買って食べた。温かいのって、ほんとにそれだけでいいね。あと、もしまた短い時間で会うなら、前と同じ場所がいい。迷わない場所。迷うと疲れるから」


肉まん。


その単語で、口の中に蒸気の匂いが浮かぶ。甘い皮。少し濃い肉の匂い。僕は、肉まんを食べる時、いつも紙が指にくっつくのが嫌で、紙を二重にする。そういう細かい嫌さも、今日は思い出せる。


「肉まん、いいな。俺は今日は冷たいの飲んだ。温かいのじゃない日もあるけど、肉まんは反則だと思う。短い時間で会うなら、前と同じ場所がいい。迷わない方がいい。俺もそう」


送って、しまう。



家。


玄関を開けると、煮物の匂いが出てくる。醤油と生姜。母が何かやってる音。鍋の蓋が触れて、カン、と鳴る。


「ただいま」

「おかえり。手洗ってー」

母の声が、いつも通りの距離で来る。


手を洗う。石鹸の匂いが一瞬強い。指の間まで泡を通す。泡が落ちると、指の皮が少しだけきゅっとなる。


夕飯。


父が箸で煮物を崩しながら言う。

「今日、店どうだった」

「まあまあ」

「まあまあって便利だな」

「便利だから使う」


母が笑う。

「便利でいいの。生活だし」


父が味噌汁を飲んで、ふっと息を吐く。

「春休み、どっか出かけたくなったら、昼に言えよ。夜は寒いし」

突然の優しさじゃない。いつもの父の“段取り”の話し方。段取りの話は、受け取りやすい。


「…分かった」

それだけ言って、煮物を食べる。じゃがいもが崩れて、舌の上でほどける。熱い。熱いと、言葉が急がなくていい。



部屋。


スマホを机に置く。表が上。画面が黒いまま、部屋の明かりを薄く映す。


千華さんに「帰った」とだけ送る。言葉は短いけど、短いのがちょうどいい日がある。


ノートを開く。


ペン先が紙に触れる。すっと引っかかる。インクが最初だけ濃い。


書く。


「卵の焦げ」

「麦茶の氷」

「肉まん」


肉まんの字を書いたところで、少しだけ笑いそうになる。笑いそうになったまま、止めない。止めると変になるから。


書き足す。


「迷わない場所」


書いて、ペンを置く。ページは閉じない。閉じないまま、椅子の背にもたれる。背中の布が沈んで、体が少しだけ下がる。


スマホが震える。


千華さん。


「肉まん、反則って言い方、ちょっと笑った。今日はそれだけでいい日だった。和樹くんの“帰った”も、それだけで分かる。じゃあ、おやすみ」


僕は指で短く返す。


「おやすみ。今日はそれでいい」


送って、スマホを伏せる。


机の上のノートに視線が戻る。さっきの「迷わない場所」の文字が、少しだけ頼もしく見える。頼もしいのに、重くない。重くない頼もしさが、いちばん珍しい。


布団に入る。


足先が冷たい。布団の中で、足首を一回だけ擦る。擦ると、布がこすれる音がする。小さい音。


目を閉じる。


駅のベンチは、今日ははっきり出てこない。代わりに、卵の焦げの匂いと、麦茶の氷の音と、肉まんの蒸気が、順番に浮かぶ。


その順番が、少しだけ安心を連れてくる。


眠りは、すぐじゃない。でも、遠くもない。




翌日。


目が覚めて、カーテンの隙間がいつもより白い。光の形が違うだけで、曜日がずれる。今日は平日みたいな顔をしてるのに、春休みで、講義がない。身体が「行く場所」を探して、見つからなくて、少しだけ間を空ける。


布団から出る前に、指先で枕元の木目をなぞる。ざらっとした部分と、つるっとした部分がある。つるっとしたところに当たると、気が散らなくて助かる。


スマホは手に取らない。代わりに、時計を見る。針が進んでいく音は聞こえないけど、時間はちゃんと動いてる。動いてるだけで、やることがひとつできる。


洗面所。蛇口。冷たい水。顔に当てる。首の後ろに水が少し垂れる。Tシャツがそこだけ冷える。冷えた場所が、今日のスタートの印になる。


キッチン。


母がまな板の上で、きゅうりを切ってる。トントン、って軽い音。父はもう新聞を開いてる。いつもよりページをめくる間隔が短い。機嫌がいいわけじゃない。ただ、指が動いてる。


「おはよ」

母が言う。


「おはよ」


「今日、昼からだっけ?」

「うん」


「朝、何か食べる?」

「…トーストでいい」


母がトースターにパンを入れる。タイマーを回すと、カチカチって音がする。その音が妙に安心する。決まった音は、決まった結果を連れてくるから。


父が新聞から目を離さないまま言う。

「この前言ってたやつ、ちゃんと見てんのか」

“この前”って言い方が、ふわっとしてて助かる。具体の言葉が出ると、家の中に形ができる。


「うん。ちょっとずつ」

「ちょっとずつな」

父はそれ以上言わない。言わないのに、気にしてるのは分かる。分かるけど、今はそれを受け取るだけにする。


トーストが焼ける匂い。バターが溶ける音はしないのに、溶ける速さが目で分かる。バターがパンの端を越えそうになって、指で押し戻す。押し戻す動作だけで、落ち着く。


食べ終わって、皿を流しに置く。水で一回だけすすぐ。泡立てない。泡立てると、丁寧さが増えて、終わりどころが見えにくくなる。


部屋に戻る。


机の上のノートを開いたままにして、昨日のページを一度見返す。「肉まん」の字が少しだけ右に寄っている。右に寄ってる字は、急いで書いた証拠で、急いでない日の自分にはちょっと可笑しい。


ペンを持ち上げて、空白に一行だけ足す。


「白い光」


書いたら、ペン先にインクが溜まって小さな丸ができる。丸が紙に残ると嫌だから、ティッシュで軽く拭く。拭いたティッシュが灰色っぽくなる。灰色は現実だ。



午前。


外に出るかどうかで、しばらく迷う。迷ってる時間が長いと、それ自体が疲れる。だから、上着だけ先に羽織る。上着を羽織ると、外に出る方向に体が寄る。寄ったら、そのままにする。


玄関で靴を履く。かかとを合わせるのが下手で、一回目は中で靴下がよれる。よれた靴下の感触が嫌で、もう一回脱いで履き直す。履き直したら、足が床にしっかり乗る感じがする。


ドアを開けると、冷たい空気が入ってくる。鼻の奥が一瞬だけツンとする。息を吸って、吐く。白くはならない。今日はそこまで冷えてない。


家の前の道を、駅と逆方向に歩く。駅方向だと、昨日を思い出す速さが上がる。逆方向なら、知らない景色が先に来る。


コンビニの前を通ると、肉まんの匂いが一瞬だけ漏れてる気がする。気のせいかもしれない。でも、気のせいでいい。気のせいでも、思い出せるってことが残る。


公園に入る。ベンチが湿ってる。座らない。座ると「休む」になって、休むとそのまま動けなくなることがある。今日は歩く日にする。


落ち葉がまだ残っていて、踏むとパリッと鳴るやつと、湿って鳴らないやつがある。鳴る方を踏むと、足音が増える。足音が増えると、自分がいるのが分かる。


歩いて、戻る。


戻る途中で、スマホがポケットの中で震える。歩きながら取り出すと落としそうで怖いから、いったん立ち止まる。立ち止まってから、スマホを出す。


千華さん。


「おはよ。今日はコンビニ寄った? 肉まん見たら昨日の話思い出した。今は元気ってほどじゃないけど、窓開けた。寒い。寒いけど、空気入れ替えたら少しだけ軽い。和樹くんはどう?」


メッセージの最後の「どう?」が、押してこない距離で置いてある感じがする。返しやすい。


「おはよ。今ちょっと歩いてた。公園の落ち葉踏んだ。音がするやつとしないやつがあって、音する方踏むと落ち着く。肉まんは見た。匂いだけした気がした」


送って、歩き出す。歩きながら、スマホをしまう。ポケットの中で角が太ももに当たる。そこが少し硬い。



昼。


バイト。


今日はレジが混む時間が、いつもより十分钟早い。客の列が伸びると、手の動きが先に速くなる。速くなると、言葉が置いていかれる。置いていかれても大丈夫な言葉だけ使う。


「袋、いりますか」

「温めますか」


言葉の形が決まってると、口が勝手に動く。勝手に動く口は、頭の中を守ってくれる。


休憩で、紙コップのスープを飲む。熱くて、口の中の皮が薄いところに当たる。痛い。痛いのに、悪くない。痛いと、ぼんやりが引き締まる。


バックヤードの壁の時計を見る。針が止まらない。止まらないなら、今日も終わる。



夕方。


家に帰る。


「ただいま」

「おかえり。顔赤いよ、寒かった?」

母が言う。


「外、ちょっと歩いた」

言った瞬間、母の目が一瞬だけ嬉しそうになる。嬉しそうなのが分かると、こっちが照れる。照れて、目線を流しに逃がす。


父がテレビを見ながら言う。

「歩いたなら、よし」

それだけ。褒めてない言い方。いつもの言い方。いつもの言い方が、いちばん効く。


夕飯の時、父が箸を止める。

「春休み、いつまでだっけ」

「…三月の終わり」

「長いな」

母が笑う。

「長いよね。だから、ちょっとずつでいいんじゃない」

父が味噌汁を飲んで言う。

「ちょっとずつでも、ゼロはだめだぞ」


ゼロじゃない、って言い返したいけど、言い返すと口調が強くなる。強くすると、空気が変わる。空気が変わると、家の音の手触りも変わる。変えたくないから、箸で煮物を崩す。崩すと、言葉がほどける。


「…うん」

それで十分。十分って言わないけど、十分。


部屋に戻って、スマホを見る。


千華さんから、もう一通。


「公園いいね。落ち葉の音するやつって、分かる。音がするってだけで、今日がちゃんとある感じする。私は今日は掃除機かけた。掃除機の音ってうるさいのに、終わったあと静かになるの好き。あとさ、肉まんの匂い“した気がした”って、なんか良かった。匂いって嘘つかない感じする」


掃除機。終わったあと静かになるの好き。そこが、千華さんらしい。


「掃除機、分かる。終わったあと静かになるの、部屋が一回リセットされたみたいでいい。匂いは…嘘じゃない。気がする、でも、気がするだけで今日が残る」


送る。送ってから、机の上のノートを開く。


「落ち葉の音」

「掃除機のあと」

「匂い」


書く。書いたら、文字が紙に沈む。沈むのを見ると、今日はちゃんと通ったって感じがする。



数日。


春休みは、同じ顔で続くと思ってたのに、少しずつ違う顔をしてくる。バイトのシフトが一日だけ朝に入る。家の朝の空気が少し変わる。母が「今日は早いね」って言う。父が新聞を持ったまま「いけるか」って聞く。いけるかの意味は、バイトのことだけじゃない。でも、答えは同じでいい。


「いける」


駅のホーム。


朝の電車は、夜より人が黙ってる。黙ってる人が多いと、自分の息も小さくなる。小さくなるのに、苦しくない。むしろ、周りが静かだと、体の中の音が聞こえすぎるから、あんまり良くない時もある。


今日は、良くも悪くもない。良くも悪くもない日は、持てる。


バイトが終わって、昼過ぎに家へ戻ると、母が洗濯物を干してる。ピンチハンガーが揺れて、カチカチって鳴る。鳴る音が、外の空気に混ざる。


「ちょっと買い物行くけど、一緒来る?」

母が言う。


買い物は、いつものことだ。いつものことは、外に出ても形が大きくならない。だから頷ける。


「…行く」


車の助手席。シートベルトの金具がカチって鳴る。母がハンドルを握る手が、いつもより乾いて見える。冬だからか。母の手の乾きは、なんだか妙にリアルだ。


スーパー。


野菜コーナーの冷気。冷気が顔に当たって、目が一回だけしぱしぱする。母が大根を持ち上げて、重さを見てる。僕はカゴを持ってるだけ。持ってるだけでも、役割がある。


帰り道、母が言う。

「最近、ちょっとだけ外出るようになったね」

言い方が軽い。軽いから、否定しなくて済む。


「…うん」

「いいじゃん。別に大げさなことしなくていいし」

母は前を見たまま言う。前を見たまま言ってくれるのが、助かる。



夜。


千華さんから来るメッセージの内容が、少しずつ生活の匂いを増やしていく。肉まんの日もあれば、鍋の日もある。冷えた指が湯呑みに触れて、熱が戻るって話もある。


和樹の返事も、短いままの日がある。長いままの日もある。長い返事を書けた日は、書けたこと自体が不思議で、送信ボタンを押す指が少しだけ重い。重い指で送るとき、画面が一瞬だけ遠く感じる。


ある夜。


千華さんから。


「今日、駅の近く通った。あの柱の前。通っただけ。なんか、通っただけで落ち着いた。今度また、短い時間でいいから、温かいの買って座れたらいいな。無理なら無理でいい。今日は通っただけで、私は十分」


“通っただけ”っていう言い方が、優しい。やれた、じゃなくて、通っただけ。通っただけなら、戻れる。


「通っただけで落ち着くの、分かる。場所って、意外と覚えてる。俺も今日は通っただけの日だった。座るのは、また気が向いた日に」


送って、しまう。


送ったあと、机の上のノートに「柱の前」って書きそうになって、やめる。書くと、場所が具体になって、紙の上で固くなる気がした。だから、書くのは違う言葉にする。


「通っただけ」

「落ち着いた」


それでいい。



二月の半ば。


父が、夕飯のあとに急に言う。

「説明会、そろそろ動いとけよ」

言い方が、いつもより直球だ。テレビを消してる。父がテレビを消すと、家の空気が少しだけ真面目になる。


「…うん」

返事が薄いのが、自分でも分かる。


母が間に入るみたいに言う。

「言い方な。急に言われたらしんどいじゃん」

父が少しだけ眉を動かす。

「急にじゃねえだろ」

「でも急に聞こえるんだよ」


二人の言い合いが、喧嘩にならない温度で続く。その温度が逆に刺さる時がある。心配の温度は、受け取る場所が必要になる。


僕は箸を置かずに、煮物をもう一口食べる。味が濃い。濃い味は、頭を今に引っ張る。


「…今週、ひとつだけ見る」

言ったら、父が黙る。母も黙る。黙る時間が少し長い。長い沈黙は怖い。


でも、母が小さく言う。

「それでいいじゃん」

父が、味噌汁を飲んで言う。

「ひとつ、ちゃんと見ろよ」

それで終わり。終わりにしてくれる。


部屋に戻る。


机に座って、スマホを見る。千華さんから、まだ何も来てない。来てないなら、来てないでいい。今日は、家の音の方が重い日だ。


ノートを開いて、今日の言葉を書く。


「テレビが消えた」

「煮物が濃い」

「ひとつだけ」


書いたら、胸の中のざわざわが、少しだけ形になる。形になると、扱いやすい。



次の日。


説明会のページを開く。五分じゃ足りない。足りないのが分かる。分かると、五分で閉じるのが“逃げ”みたいに見える。でも、逃げって言葉は使わない。代わりに、やり方を変える。


スマホのタイマーを十分快にする。


十分。


数字が二桁になるだけで、胸が少し重くなる。でも、重いままにする。重いままでも、指先は動かせる。


ページを開く。会社名が並んでいる。会社名の列は、名前の列みたいで、怖い。怖いけど、目を滑らせる。滑らせるしかない。


十分経って、タイマーが鳴る。鳴った瞬間、画面を閉じない。閉じる前に、ひとつだけ、メモをする。


「開催日」

場所オンライン


それだけを書いてから、閉じる。


閉じたら、喉が乾いてるのが分かる。コップに水を注ぐ。注ぐ音が、昨日より少しだけ太い。飲む。喉が水を受け取って、体が一回だけ戻る。


スマホが震える。


千華さん。


「今日、寒いね。指先がずっと冷たい。さっき温かいの買った。缶じゃなくてホットのやつ。飲んだら、少しだけ指が戻った。和樹くんは今日どう?」


僕は少し迷ってから、返す。全部言わない。言えるぶんだけを言う。


「今日、十分だけ見た。十分って長い。終わったら喉乾いた。温かいの、いいね。指が戻るって言い方、好き」


送る。


送ったあと、机の上に手のひらを置く。机は冷たい。冷たい机の上に手のひらがあると、体温がどこにあるか分かる。



週末。


千華さんから、「今日、駅の近くいる。通っただけじゃなくて、座れそう」って来る。和樹はすぐに返さない。すぐに返せないのは、嫌だからじゃない。体が先に段取りを探すから。


コート。財布。鍵。


玄関で靴を履く。靴紐を結ぶ。結び目が少し斜めになる。斜めが気になって、結び直す。結び直したら、結び目が真ん中にくる。真ん中にくると、気持ちが少し真ん中に戻る。


「ちょっと出てくる」

父に言う。父はテレビを見たまま「寒いぞ」とだけ言う。母が台所から「手袋して」と言う。言い方がいつも通りで助かる。


駅前。


柱の近くは、人が少ない。少ないと、柱が目立つ。目立つ柱の前で待つと、自分もそこに立ってるのが目立つ気がして、少しだけ居心地が悪い。だから、柱の“横”に立つ。真正面じゃなくて、半歩ずらす。半歩ずらすと、見られてる感じが薄くなる。


千華さんが来る。


コートの襟。マフラー。両手はポケット。歩幅が短い。短いけど、止まらない。止まらないのが分かると、和樹の肩が少し下がる。


「おつかれ」

「おつかれ。…寒いね」

千華さんが笑う。笑い方が、前より自然だ。


「温かいの、買う?」

「うん。買いたい」


自販機の前。ボタンを押す指が少し迷う。迷う指を見て、千華さんが言う。

「これ、甘い?」

「…甘い。甘いの苦手?」

「今日は甘いのでもいい」


缶が落ちる音。二つ。取り出した瞬間、熱が手のひらに乗る。熱が乗ると、言葉が急がなくていい。


ベンチに座る。前と同じベンチじゃない。今日は少しだけ明るい場所。明るい場所は、周りの目が気になるはずなのに、今日は意外と気にならない。人が流れてるからかもしれない。流れてると、ここだけが止まってない。


千華さんが缶を両手で包む。指先が少し赤い。

「指、冷たかったんだ」

「うん。でも、これで戻る」

戻る、って言葉が生活の言葉で、良い。


和樹は缶を一口飲む。甘い。甘いのに、嫌じゃない。甘いのが嫌じゃない日があるってことが、ちょっとだけ不思議だ。


「この前、十分だけ見た」

和樹がぽつりと言う。説明会のこと。家の中のこと。全部じゃない。言えるぶんだけ。


千華さんが目を丸くする。

「十分…長いね」

「長い」

「でも、やったんだ」

「…やった」


言葉にした瞬間、自分の胸の奥が少しだけ軽くなる。軽くなると、怖いはずなのに、今は怖くない。怖くない理由が分からないのが、逆に怖い。でも、理由を探さない。理由を探すと、今が崩れる。


千華さんが缶を見つめたまま言う。

「こうやって座ってるとさ、今日がちゃんとあるって思える。…変かな」

「変じゃない」

和樹はそう言ってから、続ける。

「ちゃんと、って言葉、好きじゃないけど。今日は、ある」


千華さんが小さく頷く。

「うん。ある」


時計を見る。今日は時間を決めてない。決めてないのに、長居してない。長居してないのが分かる。身体が勝手に切り上げる準備をしてる。缶を飲み終わる速さ。足の位置。視線の落ち着き方。全部が「そろそろ」って言ってる。


和樹が立つ。

「帰ろ」

千華さんも立つ。

「うん。帰ろ」


改札の手前まで歩く。歩く速さが、さっきより揃ってる。揃えようとしてないのに、揃う。揃うと、ちょっと照れる。


「ありがと」

千華さんが言う。

「うん」

和樹が言う。

言葉が少ないのに、足りる。足りるって感覚が、たぶん、今日のいちばんの出来事だ。


別れて、和樹は家へ帰る。



家。


玄関を開けると、父の咳払いが聞こえる。テレビの音。母が洗い物をしてる水音。


「ただいま」

「おかえり。寒かった?」

母が聞く。


「…寒い」

「そりゃ寒いわ」


父がテレビを見たまま言う。

「ちゃんと帰ってきたならいい」

それだけ。いつも通り。いつも通りが、今日の外出を家の中に馴染ませる。


部屋に戻って、ノートを開く。


今日は、書きすぎない。書きすぎると、紙が今日を大きくする。


だから短く。


「甘い缶」

「ある」

「揃った歩幅」


ペンを置く。机に手のひらを置く。机は冷たい。でも、手のひらは今日の熱を少し持ってる。


スマホが震える。


千華さん。


「帰った。今日は甘いのでもよかった。甘いのって、たまに救いだね。和樹くん、ありがとう。…今日、ちゃんと“ある”って言ってくれたの、なんか嬉しかった」


和樹は少しだけ迷ってから返す。


「俺も帰った。甘いの、たまに救い。今日は…あった」


送って、スマホを机に置く。


窓の外が、少しだけ暗い。暗いのに、家の中の音がちゃんとある。換気扇。テレビ。水音。足音。いつもの音が、今日の続きを許してくれる。


和樹は椅子の背にもたれる。背中の布が沈む。沈んだぶんだけ、体が「ここ」に落ちる。


落ちたまま、しばらく動かない。


動かない時間が、少しだけ長くなっても、大丈夫な日がある。


今日は、たぶん、それだ。

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