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夜の続きを、昼の海で探していた

布団から体を起こすと、部屋の空気が少しだけ冷たかった。

冬の朝特有の、どこか澄みきった匂いがしていた。


足の裏に触れた床の冷たさに、小さく肩をすくめる。

それだけで、ちゃんと今日が始まってしまったことを思い知らされる。


カーテンを少しだけ開ける。

白っぽい冬の光が、部屋の中に静かに流れ込んできた。


世界は、昨日と何も変わっていない。


向かいの家の屋根。

電柱。

止まったままの空気。


それなのに——

自分の中の何かだけが、少しだけズレている気がした。


洗面所の鏡の前に立つ。

寝癖で跳ねた髪。

少しだけむくんだ顔。

見慣れすぎて、何も感じないはずの自分の顔。


それでも、どこかだけ、

昨日までとは違う人間が立っているような気がした。


蛇口をひねる。

冬の水は、痛いくらい冷たい。

手のひらで掬って、顔に当てる。


一瞬だけ、思考が止まる。


その静けさの中で、

昨夜の空気だけが、ゆっくりと浮かび上がる。


街灯の光。

夜風。

あの人の、少し低い声。


「まだまだ夜は、これからだよ」


不意に、胸の奥が、少しだけ熱を持つ。


タオルで顔を拭きながら、

小さく息を吐く。


別に、何かが始まったわけじゃない。

名前をつけられるような関係でもない。


それでも——

確かに、あの夜は、存在していた。


部屋に戻る。

机の上には、昨日脱ぎっぱなしにした服と、

開いたままのノート。


現実は、何も待ってくれない。


大学。

講義。

レポート。

電車。

帰宅。


それだけの一日が、

今日も、きっと繰り返される。


それなのに。


靴下を履きながら、

ふと、思う。


もし、またあの人がいたら。


もし、また話せたら。


もし、あの夜が、

一度きりじゃなかったら。


そんなことを考えている自分が、

少しだけ可笑しくて、

少しだけ、怖かった。


スマホを手に取る。

特に見るものもないのに、

画面を開く。


通知は、何も増えていない。


当たり前だと思いながら、

ほんの少しだけ、

残念だと思っている自分がいた。


部屋を出る。

廊下の空気は、少しだけ冷たい。


家のドアを開けると、

朝の匂いがした。


どこかの家の朝ご飯の匂い。

冷たい空気。

遠くの車の音。


世界は、

今日も普通に動いている。


それでも——


昨日までとは、

ほんの少しだけ、

違う場所に立っている気がした。


理由は、分からない。


ただ、

今日が終わったら。


また、

夜が来る。


そして、もしかしたら——


僕は、

また、あの公園に行くのかもしれない。


また、夜が来る。


そう思いながら、

何でもない一日を、何でもない顔でやり過ごした。


講義の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。

ノートを取る手だけが、惰性で動いていた。


一限が終了した。

窓の外の空は、やけに青かった。


理由もなく、

このまま、どこかへ行ける気がした。


衝動、というほど強いものじゃない。

ただ、少しだけ、

いつもと違う選択をしてみてもいい気がした。


そのまま、

電車に乗った。


行き先を、深く考えたわけでもない。


ただ、

海が見たいと思った。



電車に揺られながら、車窓から見える、日光が反射して眩しい海を眺める。

光が、水面の上で砕けて、無数の粒になって散っていた。


ただ、それを見ているだけなのに、

胸の奥が、少しだけ軽くなる。


駅に停車し、扉が開く。

目の前には、綺麗な砂浜が広がっていた。


改札を通り、砂浜に降り立つ。


砂浜へ降りる階段に、腰を下ろして海をただ眺める。

それ以上の目的が無かったことに、今更ながら気づいた。


それでも、

ここに来てよかったと思った。


平日の午前中。

砂浜にいるのは、外国人観光客と、ジョギングしている地元の住人が、まばらにいるだけだった。


燦爛と輝く太陽が、少し暑かった。

冬の空気と、太陽の熱が、少しだけちぐはぐに混ざっている。


キラキラと輝く水面が、行ったり来たりしていた。

波は、同じ形を二度と作らないのに、

ずっと同じことを繰り返している。


長く広がる砂浜。

端から端まで歩くつもりだったが、やめておく。


今は、

ここにいるだけで、十分だった。


時折吹く海からの風が、少し火照った体を冷やしてくれた。

その風が、昨日までの自分を、少しずつ剥がしていく気がした。


駅のホームで買ったペットボトルを開け、喉に冷たい飲み物を流し込む。

すぐに、ペットボトルの中身が、半分まで減った。


体が、水を求めていた。


リュックを背負いながら、砂浜に踏み入れる。

きめの細かい砂に、僕の足跡がつく。


振り返ると、

それはすぐに、少しずつ形を崩していった。


波打ち際までやってきた。

見下ろした水面下には、素早く動く小魚がいた。


いつか行ってみたい、遥か南方の滄海に、思いを馳せていた。


そこに行ったら、

今の自分は、少しだけ変われるだろうか。



「学校サボって海に行ったんだ。青春してるね」


昨日と今日との境界線でまた出会ったお姉さんは、

大人っぽく、余裕のある笑みを浮かべている。


夜の街灯の下で見る顔とは、

少しだけ違って見えた。


「一人だけで行ったんですけどね」


青春という、自分とはかけ離れている言葉に反応して、

ほとんど無意識の内に、自虐めいた言葉を吐いていた。


「青春って誰かと一緒に過ごす必要ないと思うけどな、私は」


「そういうもの何ですか?」


「そういうものだよ」


僕とお姉さんの、二人だけの時間が、溶けるように流れていく。


沈黙すら、

どこか心地よかった。


「お腹空いてきた」


唐突な空腹の告白に、戸惑う。


「夜食買いに行くけど、君も来る? 少しなら奢るよ」


余りにも魅力的な誘いを、

断る勇気も、理性も、持ち合わせていなかった。



寂しい夜の風景の中、

迷える旅人の道標のようなコンビニに、僕は二人で入る。


自動ドアが開くと、

暖かい空気と、油の匂いと、蛍光灯の白い光が、

一気に体を包み込んだ。


「欲しい物入れていいからね」


お姉さんの優しさに甘えて、

飲み物と、菓子パンと、スナック菓子を、

お姉さんのかごに入れた。


お姉さんが会計に向かう。


「から揚げください。あっ、君もいる?」


僕は、勿論頷いた。


「から揚げ二つください」



「はい、どうぞ」


「ありがとうございます」


お姉さんから奢ってもらったものを受け取る。


ホクホクとしたから揚げを、口に放り込む。


「あつっ!」


「冷たい方が良かった?」


彼女のからかいすらも、ドキッとする。


こんな、

何でもない夜が。


こんなにも、

特別に思えるなんて、知らなかった。


今夜も、こうして更けていった。

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