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白い息がほどける場所

翌日。


朝。


目を開けた瞬間、昨日の四十分が、胸の奥のどこかにまだ残っている。残っているのに、押し出してこない。布団の重さの下で、静かに息をしている感じ。


枕元のスマホに手は伸ばさない。伸ばした指の先で画面が光るところまで想像して、そこで止める。


布団をめくって、床に足を下ろす。冷たい。かかとからくる冷えが、頭の中を少しだけ整列させる。


洗面所。


蛇口をひねると、水がいきなり冷たい。指先が一瞬で赤くなる。顔に当てると、眠気より先に「冷たい」が来る。タオルで拭く。繊維が頬をこする。右の頬だけ、少しだけ乾きにくい。


キッチン。


味噌汁の湯気が、鍋の縁から細く立っている。母が汁椀を二つ並べて、最後に僕の分だけ少し多めに具をすくう。父は新聞を広げている。紙が擦れる音が、一定のテンポで続く。


「今日、バイト?」

母が背中越しに聞く。


「昼から」

スプーンで味噌を溶く母の手首が一回止まる。


「午前は?」

「…五分だけ、サイト見る」

「ほんとに五分で閉じるんだな」

父が新聞の上から言う。顔は上げない。


「タイマーかける」

「タイマー好きだな」

「好きじゃない。終わるのが見える方が楽」


母が小さく笑う。

「それでいいと思うよ。春休みって、なんも決めないと逆に疲れるし」


父が新聞をめくる。紙の角が揃う音がする。

「昼からなら、午前ちょっと歩いてこいよ。空気吸え」


「気が向いたら」

「その言い方、逃げ道作ってる感じで腹立つ」

父が鼻で笑う。


「腹立つなら聞かなきゃいい」

母が「ほらほら」と言って箸を置く。


味噌汁を飲む。熱が舌の上を滑って、喉の奥で落ち着く。熱いってだけで、今ここにいるのがはっきりする。



午前。


机の上のマグカップを一回洗って、まだ濡れているまま伏せる。乾く音がしないのが落ち着く時がある。


ノートPCを開く。ログイン。画面が切り替わる白が眩しい。タイマーを五分にして、カウントが始まる数字を見ないように、視線を少しだけ右にずらす。


文字が多い。上から下まで、同じ重さで並んでいる。

「エントリー」「締切」「説明会」――単語だけが先に刺さってくる。


スクロールのホイールを一段だけ回す。ページが少し動く。その「少し」だけで、手のひらが汗ばむ。


タイマーが鳴る前に、画面右上の×を押す。閉じる。キーボードの上に両手を置いたまま、三秒だけ動かないでいる。


それから、台所へ行って水を一杯飲む。コップの縁が冷たい。胃の底に水が落ちていく感覚を追う。



昼。


バイト。


レジの引き出しが開く音。袋のカサカサ。揚げ物の匂い。店内放送のBGM。全部が「今やること」になって、昨日の四十分は奥へ押し戻される。押し戻されるというより、順番が後ろへ回る。


閉店後。裏口。


ドアを押すと、外気が頬にぶつかる。息を吐くと白い。自分の息が見えるってだけで、妙に安心する。


ここで、スマホを見る。


千華さんから、長めに入っている。


「おつかれ。今日はどうだった? 私は今のところ、わりと普通。昨日の“四十分”のこと、頭の中で何回か思い出しちゃうんだけど、思い出すたびにちょっと肩が上がる感じする。だから今日は一回、話から外してもいい? 外してもなくならないなら、それでいい気がして。あと、温かいのって言葉、なんかいいね。あれだけで落ち着く」


画面の文字を読み終わって、親指が一回だけ止まる。返事を考える間に、駅のアナウンスが遠くで鳴る。電車が来る音。


「外していいと思う。俺も今日は店が忙しくて、頭の隙間が少なかった。なくならないっていうの、分かる。温かいのだけでいい日、ある。今夜はちゃんと湯を沸かす。返事が短くなる日もあるけど、嫌とかじゃないから」


送信して、ポケットにしまう。手袋の布越しにスマホの角が当たって、そこだけ硬い。



夜。


家。


玄関を開けると、暖房の匂いと、台所の湯気が混ざった空気が出てくる。靴を揃える。揃えると、背中の力が少し抜ける。


「ただいま」

「おかえり。今日どうだった?」

母の声が、鍋の蓋の向こうから返ってくる。


「普通に忙しい」

「そりゃよかった。風呂、先入る?」

「あとで」


父がテレビの音を少し下げる。

「春休み、昼からばっかだな」

「そういうシフト」

「金、ちゃんと残しとけよ」

「うん」


余計な説明はいらない。ここはそれで回る。


夕飯を食べて、部屋へ戻る。ドアを閉めると、家の音が少し遠くなる。冷蔵庫の低い唸りと、床のきしみが、壁越しに薄く届く。


九時を少し過ぎる前。


スマホが震える。


千華さん。


「ねえ、明日か明後日あたり、もし気が向いたらさ。駅の近くで温かいの買って、座って、ちょっとだけ話して帰るの、どう? 時間は短くていい。最初から“何分”って決めた方が落ち着くなら、そうしよ。無理そうなら、当日でも全然いいから」


画面を見ながら、指先が勝手に爪を触る。爪の端が少し欠けている。そこをなぞると、妙に気が紛れる。


返す文章は、なるべく手順みたいにしておく。手順なら、余計な色がつかない。


「いいよ。短いのならいける。時間、最初から決めたい。例えば19:10に会って、19:50で終わり。終わりが決まってる方が安心する。しんどくなったら、その場で言っていいし、俺も言う」


送って、スマホを伏せる。裏面のカメラが机の光を反射する。反射が眩しくて、少しだけ位置をずらす。



当日。


夕飯を少し早めに食べる。箸の音が自分の耳に大きい。味噌汁を一口飲んで、喉を通る熱だけを追う。


父が言う。

「今日、夜バイトじゃないのか」

声のトーンは普段のまま。


「ちょっとだけ出る」

「どこ」

母が先に笑う。

「また“ちょっとだけ”? 最近それ多いじゃん」


「駅の近く。すぐ帰る」

父が鼻で笑う。

「ほんとにすぐ帰れよ」

「うん」


部屋に戻る。


コート。財布。鍵。スマホ。ポケットに入れたスマホの位置を一回直す。右だと落ち着かないから左。


玄関で靴紐を結ぶ。結び目を二回引く。二回引くとほどけにくい。外へ出ると、空気が鋭い。


「いってきます」

「気をつけて」

母が言う。父は何も言わないけど、テレビの音がいつも通りある。



駅前。


柱の近く。前に立った位置と、同じタイルの線に足を合わせる。足の裏に段差がない。段差がないと呼吸が乱れない。


スマホが震える。


「着いた。柱のとこいる。今日さ、笑ったら変かなって一瞬思ったけど、もう笑ってる」


その一文が、少しだけ肩の力を抜かせる。


「変じゃない。もうすぐ行く」


送って、しまう。画面を閉じてから、周りを見る。人の歩く速さ。スーツの足音。学生の笑い声。世界が普通に動いている。


千華さんが見える。


コートの襟を少し立てて、両手をポケットに突っ込んでいる。肩が少し落ちているのに、足はちゃんと地面を掴んでいる。


「おつかれ」

「おつかれ。今日、いけそう?」

千華さんが頷く。頷くまでの間が短い。


「うん。短いなら」


「じゃ、温かいの買って、座って帰ろう」

「それがいい」


自販機の前で立ち止まる。小銭の音。ボタンの押し込み。缶が落ちる鈍い音。取り出すと、すぐ熱い。手のひらが「熱っ」って言う前に、千華さんが小さく言う。


「熱っ」


その声が、笑いに寄りそうで寄らない。ちょうどいいところにいる。


ベンチまで歩く。歩幅を合わせない。合わせようとすると変になるから、少しだけずらしたまま並ぶ。


座る。


背中がベンチの冷たさに触れて、その冷たさがコート越しにじわっと来る。缶を両手で包む。熱が手の中心に落ち着くまで、数秒かかる。


人の流れが見える。改札が開く音。電車の到着案内。流れがあると、ここだけが取り残されない。


千華さんが缶を見つめたまま言う。


「短いのにさ、こういうのって…今日はこれでいいって思える。そう思えるの、久しぶり」

「うん」

「“旅行”って言った時、ちょっと怖かったんだよね。言ったら、戻れない感じして」

「言ったままでも、戻れるよ」

僕はそう言いながら、自分の缶を一口だけ飲む。熱が喉に落ちる。落ちた分、声が出しやすくなる。


千華さんが息を吐く。白い。

「戻れるって思えたから、今日ここに来れた」

「来れたね」

「うん」


時計を見る。19:47。


残り三分って数字を言わないでおく。言うと急に締め切りみたいになるから。代わりに立ち上がる準備だけする。缶をもう一口、飲む。缶を膝の上に置く。足の位置を少し整える。


「そろそろ、行こうか」

「うん。帰れるって分かってるの、助かる」


立つ。歩く。改札の手前まで一緒に行く。人の流れの中で、千華さんの歩く速さが少しだけ安定しているのが分かる。


「ありがと。今日、ちゃんと帰れそう」

「俺も」

千華さんが小さく手を上げる。


「また、ちょっとだけ」

「うん。ちょっとだけ」


背中が人に溶けていく。溶け方が自然で、変に引っかからない。見送ってから、僕も反対側へ向かう。



家。


扉を閉めると、家の音が戻る。冷蔵庫の唸り。床のきしみ。鍋の蓋がどこかで当たる金属音。


「おかえり」

母が言う。


「ただいま」

「どうだった?」

聞き方が軽い。軽いのが助かる。


「…よかった。短くて」

父が居間から言う。

「ちゃんと帰ってきたなら、それでいい」


それだけで、喉の奥が少しだけゆるむ。ゆるむのに、泣くほどじゃない。ちょうどいいところにいる。


部屋。


スマホを置く。ノートを開く。丸は付けない。


ペン先を紙に当てて、短く書く。


「駅のベンチ」

「温かいの」

「ちゃんと終わった」


書き終えると、手が少しだけ疲れている。疲れがあるってことが、今日の輪郭になる。


湯を沸かす。ケトルの小さな音。沸騰の前に、細かい泡が底から上がっていく。カップに注ぐ。湯気が立つ。指先が熱を知る。


布団に入る。


暗い中で、さっきのベンチが浮かぶ。浮かんでも、刺さらない。白い息と、缶の熱と、人の流れ。その順番で、ちゃんと収まる。


呼吸を数える。


数えているうちに、眠りが来る。

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