ベンチに残る、短い夜
翌日。
朝。
目を開けると、昨日の「四十分」が胸の奥にいる。いるけど、まだ候補だ。候補なら、形は固まらない。固まらないなら、刺さりにくい。
スマホは見ない。
見たら、四十分が「約束」になる。約束になると燃える。燃えたら危ない。
まず顔を洗う。水が冷たい。冷たいから現実だ。現実が冷たいと、頭の中の熱が少し下がる。
キッチン。
母が味噌汁をよそいながら言う。
「今日、バイト?」
「昼から」
「午前は?」
「五分だけ」
「五分、ほんと好きだな」
「好きじゃない。安全」
父が新聞をめくりながら、鼻で笑う。
「安全って言葉、最近増えたな」
「増えると危ないから、先に言う」
「意味分かんねえ」
「分かんなくていい」
母が笑う。
「分かんなくていいって言えるの、いいよ。で、昼からなら午前ちょっと散歩でもすれば?」
散歩。
散歩は軽い。軽い言葉は助かる。でも、散歩は外出だ。外出は形になりやすい。形になったら燃える。
だから、薄く返す。
「気が向いたら」
「気が向いたら、って便利だな」
父がそう言って、新聞をめくる。めくる音が戻る。戻る音は足場になる。
味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。
午前。
五分だけ、キャリアサイト。
タイマーを押す。数字が減っていく。減るなら終わりが見える。終わりが見えると持てる。
五分で閉じる。
閉じたら、机の上が静かになる。静かになると、胸の奥で「四十分」が少しだけ動く。動くのは怖い。でも、動くままにしておく。押さえつけると反動が来る。
代わりに水を飲む。現実で重さを足す。
昼。
バイト。
忙しい。忙しさは、考える余地を小さくしてくれる。余地が小さいと、四十分も薄いままでいられる。
閉店後。裏口。
冷たい空気。白い息。
ここでスマホを見る。
千華さんから来ている。一本。
「今日どう? 私は今のところ普通。四十分の話、頭の中ではもう“やってみたい”って思ってるんだけど、思いすぎると疲れるから、今日は一回忘れたい。忘れても消えないなら安心できる気がする。和樹くんも、もし疲れそうなら話題変えていいからね。私、温かいのって言葉だけで少し落ち着く」
忘れても消えない。
それは、僕がノートに書くのと同じだ。書くのは、消さないためじゃなくて、燃えないため。
会話の温度で返す。
「今日も普通。忙しかった。四十分の話、忘れていいと思う。忘れても消えないし、消えないなら急がなくていい。温かいの、って言葉は確かに落ち着く。今夜は湯気だけでいい日ってことで。疲れそうなら、返事も薄くする」
送って、置く。
置けたら燃えすぎない。
夜。
家。
「ただいま」
「おかえり。今日も忙しかった?」
母が台所から言う。
「普通に忙しい」
「普通、えらい」
「偉いとか言うな」
父がテレビの音を小さくする。
「春休み、昼からバイト多いな」
「そういうシフト」
「金は貯めとけよ」
「分かってる」
言い方が、いつも通りで助かる。いつも通りは、刺さりにくい。
夕飯を食べて、部屋に戻る。
スマホは置く。九時までに見るって決めたから。まだ九時前だけど、今見たら増える。増えたら燃える。
ノートを開く。
丸は付けない。
端に、小さく。
「忘れても消えない」
「湯気だけの日」
書いたら、胸の奥が少し落ち着く。
湯を沸かす。熱い。熱いから現実だ。
次の日。
朝。
カレンダーを見る。日付だけ見る。予定は書かない。書いたら大きくなるから。大きくなったら燃えるから。
でも、頭の中でひとつだけ決める。
「四十分は、二月のどこか」
どこか、が大事だ。どこか、なら安全だ。
午前は五分。午後はバイト。夜は湯気。
それだけ。
数日。
スマホが震える回数は増えたり減ったりする。増える日は怖い。減る日は寂しい。どっちも刺さる。
刺さる前に、区切る。
夜九時まで。
返信は一通で。
内容は条件で。
約束にしない。
そうやって、僕は二月を薄く運ぶ。
そして、週の終わり。
バイト帰りの駅。
冷たい風が、コートの隙間から入る。冷たいのは現実だ。現実が冷たいと、胸の奥の余計な熱が下がる。
スマホが震える。
千華さん。
「今日、行けそう。ほんとに四十分だけ。もし無理なら無理って言う。駅の近くで温かいの買って、座って、帰る。それだけにしたい。和樹くん、今日どう? 返信遅くてもいい。遅くても“遅い”って事実があるだけで安心するから」
今日。
“行けそう”は強い。でも、“無理なら無理”が付いている。付いているなら、燃えにくい。
僕はホームの端で立ち止まる。呼吸を一回。深くしすぎない。早くしすぎない。
それから返す。
「今日、行ける。四十分だけ。駅の近くで温かいの、買って座って帰る、それだけでいい。時間も決めよう。会ってから四十分じゃなくて、開始と終了を決める。例えば、19:10に合流して19:50で解散。終わりが見える方が持てる。無理になったら、その場で言っていい。俺も言う」
送信して、置く。
置いたのに、胸の奥が少し動く。動きは期待に寄る。寄ると危ない。
だから、現実を足す。
改札を抜ける。階段を降りる。足音が増える。人の足音が多いと、僕の足音が薄くなる。薄いのは助かる時がある。
家。
夕飯を早めに食べる。
父が言う。
「今日、夜バイトじゃないの?」
来た。
“外出”は形になりやすい。形になったら燃える。燃えたら危ない。
でも、嘘は増やしたくない。増やすと刺さる。
薄い本当を出す。
「夜、ちょっとだけ出る」
「どこ」
父の声が、強くない。強くないから受け取れる。
「駅の近く。四十分だけ」
「四十分って、また中途半端だな」
母が笑う。
「中途半端が一番いいんでしょ」
「うん。中途半端が安全」
父が「まあ」と言って味噌汁を飲む。追ってこない。追ってこない夜は助かる。
部屋に戻る。
コートを着る。財布。スマホ。鍵。
スマホは、見ない。行く途中で見たら増えるから。増えたら燃える。
玄関で靴を履く。靴紐を結ぶ。結ぶ動作は現実だ。現実は足場になる。
「いってきます」
「気をつけて」
母が言う。
父は何も言わない。でもテレビの音がある。音があるなら、家はいつも通りだ。
駅前。
柱の近く。前に“待つ場所”を決めた時と同じ場所。
同じ場所は助かる。助かるのに、心臓が少し速い。速いのが怖い。
怖いから、呼吸を数える。三回だけ。
一、吸って。
二、吐いて。
三、肩を落とす。
それだけ。
スマホが震える。
千華さん。
「着いた。柱のとこいる。今日、ちゃんと“少しだけ”の顔してる。笑ったら変かな」
変じゃない、は簡単だ。簡単な言葉は嘘になりやすい。
だから、嘘じゃない方を返す。
「変じゃない。笑えるなら、今日はそれで十分。俺も柱のとこ。今から行く」
送って、しまう。
しまったら、目の前の現実を見る。
千華さんがいる。コート。少しだけ落ちた肩。でも歩ける足。
「おつかれ」
「おつかれ。今日、いけそう?」
千華さんは、息を一回置いてから頷く。
「うん。四十分なら」
四十分。
言葉が現実になる。現実になると、胸の奥が落ち着く。落ち着くのが怖い。でも、落ち着きは今夜を運ぶ。
「じゃ、温かいの買って、座って、帰ろう」
「うん。それだけがいい」
歩く。足音が二つ。二つになると夜の形が変わる。変わるのは怖い。怖いけど、二つの夜は扱いやすい時がある。
自販機の光。短い明るさ。短いなら耐えられる。
缶が落ちる音。熱い。熱いから現実だ。
千華さんが缶を持って、息を吐く。
「熱っ」
その一言が、少しだけ可笑しい。可笑しいのが怖い。でも、可笑しいままにする。ままにすると、夜が硬くなりすぎない。
座れる場所に行く。駅の近くのベンチ。人の流れが見える。流れがあると、世界が止まってないって分かる。止まってないのは助かる。
缶を両手で包む。手のひらに熱が落ち着く。落ち着くと、呼吸が戻る。
千華さんが言う。
「四十分ってさ、短いのに、今日の私はそれでもう十分だと思う。十分って言えるの、なんか…久しぶり」
「うん。十分って言えたら勝ち」
「勝ちって言葉、強くない?」
「強い。でも、今日は小さい勝ち」
千華さんが小さく笑う。
「小さい勝ち、いいね」
スマホは見ない。時計だけ見る。開始は19:10。終わりは19:50。終わりが見えると、胸の奥が燃えにくい。
少しだけ話す。話しすぎない。話しすぎると濃くなる。濃くなると刺さる。
千華さんが缶を見つめたまま言う。
「旅行って言ったのさ、ほんとは怖かった。言ったら戻れなくなる気がして。でも、候補って言ってくれたから戻れた。戻れたから、今ここにいる」
僕は頷く。頷くのは事実だ。事実は嘘じゃない。
「候補のまま、でいい」
「うん。候補のままがいい」
「今日の四十分も、候補のままでやれた」
「やれたね」
時計を見る。19:47。
終わりが近い。近いのは寂しい。でも、終わるから持てる。終わらないと燃える。燃えたら危ない。
「そろそろ、終わりにしようか」
僕がそう言うと、千華さんがすぐ頷く。
「うん。終わりにできるの、助かる」
立つ。歩く。改札の手前まで行く。
人の流れ。薄い夜。薄い夜は、僕らを助ける。
「ありがと。今日、ちゃんと帰れそう」
「俺も。帰れたら合格」
「合格って言っていいんだっけ」
「口には出してる。ノートには書かない」
「それ、分かる」
千華さんが小さく手を上げる。
「また、少しだけで」
「うん。少しだけで」
別れる。人の流れに溶ける背中。溶け方が普通で、少しだけ安心する。
家。
扉を閉めると家の音が戻る。冷蔵庫の唸り。床のきしみ。鍋の蓋の金属音。
「おかえり」
母が言う。
「ただいま」
「どうだった? 四十分」
「……普通に、よかった」
父が居間から言う。
「ちゃんと帰ってきたならそれでいい」
それだけで、胸の奥が少しだけほどける。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ息が入る。
部屋。
スマホを置く。置く。燃えすぎないために。
ノートを開く。
丸は付けない。丸にしたら増える。増えたら燃える。
だから、端に小さく書く。
「予行演習=できた」
「終わりにできた」
「温かいの=現実」
書いたら、胸の奥が少し落ち着く。
湯を沸かす。熱い。熱いから現実だ。
布団に入る。暗い。
暗いと、今日のベンチが浮かぶ。浮くけど、強くない。強くないから壊れにくい。
四十分は短い。
短いのに、残っている。
残っているなら、次も候補でいい。
そう思って、僕は呼吸を数える。
波じゃない呼吸。
でも、ちゃんと呼吸だ。
数えているうちに、眠りが来た。




