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地図にしない旅の話

翌朝。


目を開けると、昨日の「旅行」がまだ胸の奥にいる。いるけど、輪郭は薄い。薄いなら持てる。持てるなら、今日も始められる。


スマホは見ない。見たら増える。増えたら燃える。燃えたら危ない。


まず水を飲む。冷たい。冷たいから現実だ。


キッチン。


味噌汁の匂い。母の足音。父の新聞。いつもの音が、いつもの場所にある。あるだけで足場になる。


「今日、学校ないんだっけ」

母が鍋をかき回しながら言う。


「春休み」

「長いね、春休み。何すんの」

「……バイトと、ちょっとだけ」

「ちょっとだけって何」

父が新聞をめくらないまま言う。めくらないのが怖い。でも、見るほどじゃない。視線は紙のままだ。


「就活のページ、五分だけ開く」

「また五分かよ」

「五分なら続けられる」

母が笑う。


「それでいいじゃん。五分でも“やった”になるし」

父が小さく鼻で笑う。


「逃げんなよ」

「逃げない。薄くやる」

「薄いとか分厚いとか、分かりにくいんだよ」

「……大きくしないってこと」

母が「それ、分かる」と言って、茶碗を置く。


「春休みってさ、時間あるぶん逆にしんどい時あるよね」

母の声が少しだけ柔らかくなる。柔らかいのは刺さりやすい。でも、刺さる前に味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。


「……うん。だから区切る」

「区切れたら勝ちだな」

父がやっと新聞をめくる。めくる音が戻る。戻ると、朝が持てる。


 


午前。


五分だけ、キャリアサイト。


開く。文字が多い。目が滑る。滑るのは普通だ。二月の頭で、春休みが始まったばかりだ。「まだ」って言えると楽になる。


五分で閉じる。


閉じたら終わり。終われたら合格。合格って言葉は口にしない。増えるから。


 


昼。


バイト。


客の声。レジの音。袋の擦れる音。現実が多い。多い現実は、考える余地を減らす。余地が減ると、昨日の「旅行」は遠のく。遠のくのは寂しい。でも、遠のくくらいがちょうどいい。


閉店後。裏口。冷たい空気。


ここで、スマホを見る。


千華さんから、一本で来ている。


「おつかれ。今日どうだった? こっちは午前だけちょっと動けた。昨日の旅行の話、言ったあとで自分でもびっくりしてるけど、無理して決めたいわけじゃないんだ。行けそうな日があれば、ほんとに一泊とか近場でいい。『場所変えたい』って気持ちだけが先に出た感じ。和樹くんがしんどくなる決め方はしたくないから、返事も急がなくていいし、もし“候補だけ”出すならそれで十分」


“候補だけ”。


その言葉は強くない。強くないから壊れにくい。壊れにくい言葉は、僕の胸の奥を少しだけほどく。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ息が入る。


会話の温度のまま返す。


「おつかれ。こっちは昼からバイトだった。旅行の話、急がなくていいって言ってくれて助かった。候補だけなら出せる。近場で一泊、帰り道が短い方が安心する。海は強いから、行くなら“見るだけ”にしたい。あと、当日までに体調で変えていい? 決めるのは“できそうな日”だけにしたい」


送って、置く。


置けたら燃えすぎない。


 


夜。


家。


扉を閉めると家の音が戻る。冷蔵庫の唸り。床のきしみ。鍋の蓋の金属音。


夕飯。


父が箸を止めて言う。


「春休み、ずっとバイト?」

予定、って言葉が出ないのが助かる。知られてない予定は、形にならない。形にならないなら燃えにくい。


「多め。あと、五分だけ」

「五分好きだな」

「五分なら潰れない」

母が頷く。


「潰れないの大事。春休みって、潰れやすいもん」

父が「まあな」と言って味噌汁を飲む。言わない夜は助かる。


 


部屋。


スマホを置く。置く。燃えすぎないために。


ノートを開く。丸は増えるから付けない。


代わりに端に小さく書く。


「候補=まだ予定じゃない」

「一泊=帰り道が短い」


書いたら、胸の奥が少し落ち着く。落ち着いたら湯を沸かす。熱い。熱いから現実だ。


現実の湯気を手のひらで受け取りながら、僕は思う。


二月の春休みは長い。長いけど、薄く区切れるなら越えられる。


カップを両手で包んで、息をひとつだけ整えた。



翌日。


朝は、昨日と同じ顔で来る。昨日と同じ顔で来る朝は助かる。助かるのに、油断すると刺さる。だから、今日も小さくする。


スマホは見ない。見たら増える。増えたら燃える。燃えたら危ない。


まず顔を洗う。水が冷たい。冷たいから現実だ。


キッチン。


母が「パン焼けたよ」と言って、皿を置く。父は新聞を開いたまま、視線は紙に置いたまま。


「今日バイト?」

母が聞く。


「昼から」

「午前は?」

「五分だけ」

「また五分」

「五分が限界」

母が笑う。


「限界分かってるなら偉いじゃん」

父が鼻で笑う。


「偉いとか言うなよ。やるだけだろ」

「やるだけが、いちばんむずいんだよ」

母がそう言うと、父は返さない。返さない朝は助かる。


パンをかじる。口の中が乾く。乾くから現実だ。現実が乾いてると、頭の中が勝手に湿っぽくならない。


 


午前。


キャリアサイトを開く。タイマーを五分にする。


開く。閉じる。終わり。


終わりにしたら、体が少しだけ軽くなる。軽いのは怖い。でも、軽いままにしない。コップの水を飲む。現実で重さを足す。


 


昼。


バイト。


忙しい。忙しいと、考える余地が少なくなる。少ない余地なら、旅行の言葉も薄くなる。薄いなら持てる。


閉店後。裏口。


冷たい空気が肺を起こす。息が白い。白い息は嘘をつかない。嘘をつかないものが見えると、安心する。


ここで、スマホを見る。


千華さんから、返事が来ていた。一本で、会話のまま。


「うん、候補だけで十分。海って強いよね、分かる。私も“見に行く”って言うと勝手に頼りたくなる感じする。でも見ただけでいいなら、むしろちょうどいいかも。あと当日で変えていいって言ってくれて助かった。私も、その日の自分がどうか分かんない日多いし。でさ、候補って言われても私も土地勘なくて…和樹くんが“帰り道短い”って言ったの、すごい正しい気がした。駅から近いとか、電車一本とか、その感じ。おすすめある?」


おすすめ。


おすすめって言葉は、ちょっとだけ責任を連れてくる。責任は重い。重いと燃える。燃えたら危ない。


だから、ここでも“候補”のまま、薄く置く。


「おすすめってほどじゃないけど、条件だけなら言える。駅から歩く時間が短いこと、帰りが一本で戻れること、夜に人が少なすぎないこと。海も行くなら近づきすぎないで、堤防の手前とか“見える場所”まで。あと一泊なら、チェックインが遅くても大丈夫なとこ。調子悪い日に急ぐのが一番きついから。場所は…名前出すと大きくなるから、まず条件だけで決めたい。行けそうな週が出たら、その時に二つか三つに絞る、でどう?」


送って、置く。


置いた瞬間、胸の奥が少しだけ動く。動きは期待に寄りそうになる。でも、すぐ現実を足す。改札に向かって歩く。足音がひとつ。ひとつの足音は、僕のサイズだ。


 


夜。


家。


扉を閉めると家の音が戻る。冷蔵庫の唸り。床のきしみ。鍋の蓋の金属音。


「ただいま」

「おかえり。今日どうだった?」

母の声がいつも通りで助かる。


「普通」

「普通が一番」

母がそう言って味噌汁をよそう。父はテレビの音を小さくする。


夕飯。


父が箸で魚をほぐしながら言う。


「春休み、友達と遊ぶとかないの」

来た。


“友達”は、具体にすると形になる。形になると燃える。燃えたら危ない。


でも、嘘は増やしたくない。増やしたら刺さる。刺さるくらいなら、薄い本当を出す。


「……あるかも。まだ候補」

「候補って何だよ」

「まだ決まってないってこと」

母が「それでいいじゃん」と言う。


「決めるとしんどい時あるんでしょ。候補で止めとくの賢いじゃん」

父は「まあ」とだけ言って、味噌汁を飲む。突っ込まない夜は助かる。


部屋に戻る。


スマホを置く。置く。燃えすぎないために。


ノートを開く。丸は付けない。端に、小さく。


「おすすめ=条件で返す」

「友達=候補のまま」


書いたら、胸の奥が少し落ち着く。落ち着いたら湯を沸かす。熱い。熱いから現実だ。


 


数日が、少しだけ違う顔で過ぎていく。


春休みの時間は、勝手に伸びる。伸びる時間は怖い。でも、伸びるなら区切れる。区切れたら勝ちだ。


午前は五分。

午後はバイト。

夜は湯気。


それだけ。


その“それだけ”の間に、スマホが震える日が増える。増えるのが怖い。怖いから、見る時間を決める。夜九時まで。九時以降は置く。置けたら燃えすぎない。


九時前。


千華さんから、また一本。


「条件で決めるの、すごく助かる。名前出すと大きくなるっていうの、なんか分かる。私も“旅行”って言った瞬間に、勝手に特別なものにしちゃう癖ある。特別にすると、こけた時に痛い。だから条件でいい。駅近、一本、夜に人が少なすぎない、チェックイン遅くてもOK。全部いい。あとさ、二つか三つに絞るって言ってくれたのも助かる。選択肢多いと私は疲れる。で、もしさ…三月って言ってたけど、二月のどっかで“予行演習”みたいに、ほんとに短い外出だけしてみるのはどう? 旅行じゃなくて、駅の近くで温かいの飲んで帰るとか。旅行の話すると疲れる日があるって自分でも思うから、疲れない形のまま進めたい」


予行演習。


その言葉が、少しだけ可笑しい。可笑しいのが怖い。でも、可笑しいままにしておく。ままにすると夜が硬くなりすぎない。


旅行じゃない。駅の近く。温かいの。帰る。


それは、もうやった形に近い。近いなら持てる。持てるなら、返せる。


「それいい。旅行じゃなくて、短い外出なら“候補”のまま保てる。駅近で温かいの買って、座れるとこがあって、帰り道が短い場所。時間も決めたい。例えば四十分とか。四十分なら、終わりが見える。終わりが見えると持てる。二月のどっかで、行けそうな日が出たらその日で。無理なら無理でいい。予行演習、って言い方も嫌じゃない」


送って、置く。


置いたら、胸の奥が少しだけ静かになる。静かになると、余計なことを考えそうになる。考えそうになったら、現実を足す。


湯気を吸う。カップを持つ。熱い。熱いから現実だ。


 


週の途中。


昼のバイト前、母が洗濯物を畳みながら言う。


「この春休み、ずっと家にいるの?」

「バイト多め」

「それだけ?」

「それだけ」

母が一瞬だけこっちを見る。視線が刺さりそうになる。


「…たまには、外で息抜きしてこいよ」

言い方が軽いのが助かる。軽いなら受け取れる。


「うん。候補で」

「また候補」

「候補が一番安全」

母が笑う。


「安全大事。怪我すんな」

父が居間から言う。新聞の音がする。新聞の音はいつも通りで、足場になる。


 


夜。


スマホが震える。


千華さん。


「予行演習、四十分いいね。終わりが見えるの助かる。私も終わり見えないと怖くなる。でさ、もし四十分ができたら、その次に“日帰り”とか“一泊”って、段階にできる。段階なら怖くない。怖くない形で、ちょっとだけ前に行きたい」


段階。


その言葉が、胸の奥でゆっくり現実になる。現実になると、燃えすぎない。


僕は返す。


「段階でいい。四十分できたら合格。できなくても、やろうとした時点で合格。旅行はその次。名前も場所も、決めるのは最後でいい。最後に決める方が、刺さりにくい。だから、まずは“温かいの”と“帰り道短い”だけ」


送って、置く。


 


ノートを開く。


丸は付けない。代わりに、端に小さく書く。


「予行演習=四十分」

「段階=最後に決める」


書いたら、胸の奥が少し落ち着く。


落ち着いたら、布団に入る。


暗い。


暗いと、三月が浮く。浮くけど、まだ遠い。遠いなら薄い。薄いなら持てる。


そして、二月の春休みは、今日も静かに増えていく。


増えていく時間を、僕は薄く区切る。区切った分だけ、夜を越えられる。


そう思って、呼吸を数える。


波じゃない呼吸。

でも、ちゃんと呼吸だ。


数えているうちに、眠りが来る。


来たなら、今日も合格だ。

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