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少しだけ遠い場所の話

朝。


目を開けた瞬間、昨日の夜はもう薄い。薄いのは寂しい。でも、薄いから持てる。持てるなら、今日も始められる。


体は少し重い。重いのは、歩いたからだと思うことにする。理由がある重さは怖くない。理由が分からない重さがいちばん怖い。


スマホを見る。通知はない。


ないのが普通だ。普通だから助かる。助かるのに、心臓は一回だけ跳ねる。跳ねた分だけ、息を整える。深くしすぎない。深くすると、昨日の夜が大きくなる。


キッチン。味噌汁。母の足音。父の新聞。


「おはよう」


「……おはよう」


母は、昨日と同じ温度で言った。


「今日は、大学?」

「……あります」


ある、は嘘じゃない。まだ一月の終わりで、講義が残っている。残っているから、二月の頭に来る「春休み」が大きく見える。大きいものは怖い。怖いから、今日もひとつだけにする。


父は新聞をめくる指を止めない。止めない朝は助かる。


味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。現実の熱は、胸の奥の余計な音を少しだけ小さくする。


大学へ向かう。


電車の窓に映る自分の顔は普通だ。普通の顔のまま、胸の奥は少しだけ静かだ。静かでも、怖い。怖いから、今日も「写す」に逃がす。


講義室。板書。ペン。インク。


写す。写す。写す。


写している間、昨日の「熱っ」が何度か浮かぶ。浮かぶたびに、口の端が動きそうになる。動くのが怖い。でも、動きそうなままにしておく。ままにしておくと、僕が薄くなりすぎない。


昼休み。


いつものベンチ。温かい缶。缶の熱が指に落ち着くまで、少し時間がかかる。冷えた指は熱を受け取るのが下手だ。下手でも、今日も受け取る。


スマホを出す。カメラを起動する。


枝の影が揺れている。昨日より少し濃い。濃い影は、地面にちゃんと乗っている。乗っている影を見ると、僕も少しだけ乗れる気がする。


シャッターを押す。


音は小さい。小さいけど、残る。残るなら、今日の足場になる。


確認はしない。良い悪いを見たら、僕はすぐに自分を削る。削ったら、また夜に響く。今日は、撮っただけで合格にする。


午後。講義。終わる頃、空は橙に寄っている。冬は早い。早い終わりは、時々助かる。長い昼が短くなるから。


帰り道、掲示板の前で足が一瞬だけ止まる。


「春季休業 2月◯日〜」


二月の頭から春休み。頭では知っているのに、文字で見ると形になる。形になると、期待と怖さが一緒に来る。来るのが怖い。


だから、目線を外す。外したら、足が動く。


バイトへ行く。制服。明るい店内。


「いらっしゃいませ」


軽い言葉が口から出る。軽い言葉を繰り返すと、自分も軽くなる気がする。軽くなると薄くなる。薄くなるのは怖い。でも、薄いままでいられる時間があると、夜の重さに潰れにくい。


閉店後。裏口。冷たい空気。肺が起きる。


駅へ向かう途中、スマホが震えた。


一拍置く。置けたことが、少しだけ嬉しい。嬉しいのが怖い。でも、置けた。


画面を見る。


千華さん。


「今日、ちょっとだけ寝れた」

「昨日の缶、まだ手の中に残ってる感じする」


残ってる。


その言葉が、僕の胸の奥に小さく落ちる。落ちたら、少しだけほどける。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ息が入る。息が入るなら、崩れにくい。


僕は短く返す。


「よかったです」

「残ってるなら、今日も持てます」

「無理ない方で」


送信して、置く。


置けたら、燃えすぎない。


家に帰る。鍵。扉。いつもの匂い。海の匂いはない。ないのに、昨日の夜は胸の奥に薄く残っている。


夕飯。


父が、箸を置く音のあとに言った。


「……就活の件」

「説明会、いつ行く」


来た。


胃の奥が固くなる。固くなったら、味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。


「……まだ、決めてません」

「……今週、ページは開きます」


父は「そうか」と言って、何も続けなかった。続けないのが助かる。助かるのに、助かった自分を責めそうになる。責めたら、今日が壊れる。


だから、責める前に部屋へ戻る。


扉を閉める。僕の空気になる。


机の上にスマホを置く。置く。逃げじゃない。燃えすぎないために、置く。


ノートを開く。ペン。インクの匂い。現実の匂い。


今日の丸。


・講義 ○

・バイト ○

・写真(影) ○

・説明会:今週開く、って言えた ○


四つ。多い。多いと怖い。


でも、今日はページを閉じない。閉じたら、父の言葉が大きくなる気がしたから。大きくなるなら、別の現実で押さえる。


ページの端に小さく書く。


「開く=予約じゃない」


書いたら、胸の奥が少し落ち着く。落ち着いたら、湯を沸かす。熱い。熱いから現実だ。


布団に入る。暗い。


暗いと、胸の奥が動く。動くけど、今日は「痛い」じゃなくて「忙しい」に近い。忙しいなら、呼吸で形にできる。


数える。吸って、吐く。


そのまま眠りに近づく。


 


二月。


朝。目を開けると、部屋の空気が少し違う。違うのは、講義がないからだ。


大学の春休みは二月の初めから始まる。


「始まる」って言葉は、軽い。軽いのに、僕の胸の奥では少し重い。時間が増えるからだ。増えた時間は、勝手に考える時間になる。考えると、怖い。


だから、今日もひとつだけ決める。


「午前はバイト」

「午後は五分だけ、キャリアサイト」


増やしすぎない。増やさないことが、今は一番の作業だ。


キッチン。味噌汁。母の足音。父の新聞。


「今日、学校ないんだっけ」

「……春休み、です」


母は「そうか」と言って、鍋をかき回す。父は新聞をめくる。めくる音が、いつものままある。いつもの音は足場になる。


午前、バイト。


いつもより街の人が多い気がする。多いのに、僕は薄いままでいられる。薄い制服が、僕を守ってくれる。


閉店後。裏口。冷たい空気。肺が起きる。


スマホが震える。


千華さん。


「今日、午前だけ動けた」

「春休み入ったんだよね、大学」


春休み。


相手に言われると、形が増える。増えるのが怖い。でも、嘘じゃない形なら、持てることもある。


僕は短く返す。


「入りました」

「二月の頭からです」

「無理ない方で」


送信して、置く。


家に帰る。五分だけ、キャリアサイトを開く。開いて、閉じる。閉じたら終わり。終わりにできたら合格。


その夜。


スマホが震える。


千華さん。


「ねえ」

「春休みって、二月からなんだよね」

「……旅行、行かない?」


旅行。


言葉が大きい。大きい言葉は、胸の奥で膨らむ。膨らむと燃える。燃えたら危ない。


僕は立ち止まって、息を一回。


波じゃない呼吸。部屋の呼吸。湯気のない空気の呼吸。


画面の続きを待つみたいに、次の通知が来る。


千華さん。


「遠くじゃなくていい」

「一泊とかでもいい」

「少しだけ、場所変えたい」

「榊さんも、誘えるなら」


榊さん。


名前が出ると、旅が少し現実になる。二人きりの旅行より、三人の方が形が分散する。分散したら、燃えすぎないかもしれない。


でも、やっぱり怖い。予定は増やしたくない。増やしたら、崩れた時に刺さる。


刺さるのが怖いから、薄いけど嘘じゃない言葉を選ぶ。


「……春休み、二月からです」

「一泊なら、少しだけなら」

「当日までに決めてもいいですか」

「榊さんの都合もあるし」


送信する。


送信した瞬間、胸の奥が少しだけ動く。動いたのは期待じゃない。怖さと、同じくらいの小さな現実だ。


すぐにスマホを置く。置く。燃えすぎないために、置く。


湯を沸かす。カップ。湯気。熱い。熱いから現実だ。


しばらくして、スマホがもう一度だけ震える。


千華さん。


「いいよ」

「当日まででも」

「少しだけ、で」

「決められそうな日だけでいい」


少しだけ。


その言葉は強くない。強くないから、壊れにくい。


僕は短く返す。


「了解です」

「少しだけで」

「決められる範囲で」


送って、置く。


ノートを開く。ペン。インクの匂い。現実の匂い。


丸を付けるか迷う。迷うくらい大きいことだ。でも、丸にしたら増えすぎる。増えすぎたら燃える。


だから、丸じゃなくて、端に小さく書く。


「旅行=まだ予定じゃない」


書いたら、胸の奥が少し落ち着く。落ち着いたら、布団に入る。


暗い。


暗いと、二月の春休みが浮く。浮くけど、まだ輪郭は薄い。薄いなら、持てる。


僕は呼吸を数える。


波じゃない呼吸。

でも、ちゃんと呼吸だ。


数えているうちに、眠りが来た。

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