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缶の熱が残る夜

朝。


目を開けた瞬間、昨日の夜はもう薄い。薄いのは寂しい。でも、薄いから持てる。持てるなら、今日も始められる。


体は少し重い。重いのは、歩いたからだと思うことにする。理由がある重さは怖くない。理由が分からない重さがいちばん怖い。


スマホを見る。通知はない。


ないのが普通だ。普通だから助かる。助かるのに、心臓は一回だけ跳ねる。跳ねた分だけ、息を整える。深くしすぎない。深くすると、昨日の夜が大きくなる。


キッチン。味噌汁。母の足音。父の新聞。


「おはよう」


「……おはよう」


母は、昨日と同じ温度で言った。


「今日は、バイトあるの?」

「……あります」


父は新聞をめくる指を止めない。止めない朝は助かる。


味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。現実の熱は、胸の奥の余計な音を少しだけ小さくする。


大学へ向かう。


電車の窓に映る自分の顔は普通だ。普通の顔のまま、胸の奥は少しだけ静かだ。静かでも、怖い。怖いから、今日もひとつだけにする。


講義室。板書。ペン。インク。


写す。写す。写す。


写している間、昨日の「熱っ」が何度か浮かぶ。浮かぶたびに、口の端が動きそうになる。動くのが怖い。でも、動きそうなままにしておく。ままにしておくと、僕が薄くなりすぎない。


昼休み。


いつものベンチ。温かい缶。缶の熱が指に落ち着くまで、少し時間がかかる。冷えた指は熱を受け取るのが下手だ。下手でも、今日も受け取る。


スマホを出す。カメラを起動する。


枝の影が揺れている。昨日より少し濃い。濃い影は、地面にちゃんと乗っている。乗っている影を見ると、僕も少しだけ乗れる気がする。


シャッターを押す。


音は小さい。小さいけど、残る。残るなら、今日の足場になる。


確認はしない。良い悪いを見たら、僕はすぐに自分を削る。削ったら、また夜に響く。今日は、撮っただけで合格にする。


午後。講義。終わる頃、空は橙に寄っている。冬は早い。早い終わりは、時々助かる。長い昼が短くなるから。


バイトへ行く。制服。明るい店内。


「いらっしゃいませ」


軽い言葉が口から出る。軽い言葉を繰り返すと、自分も軽くなる気がする。軽くなると薄くなる。薄くなるのは怖い。でも、薄いままでいられる時間があると、夜の重さに潰れにくい。


閉店後。裏口。冷たい空気。肺が起きる。


駅へ向かう途中、スマホが震えた。


一拍置く。置けたことが、少しだけ嬉しい。嬉しいのが怖い。でも、置けた。


画面を見る。


千華さん。


「今日、ちょっとだけ寝れた」

「昨日の缶、まだ手の中に残ってる感じする」


残ってる。


その言葉が、僕の胸の奥に小さく落ちる。落ちたら、少しだけほどける。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ息が入る。息が入るなら、崩れにくい。


僕は短く返す。


「よかったです」

「残ってるなら、今日も持てます」

「無理ない方で」


送信して、置く。


置けたら、燃えすぎない。


家に帰る。鍵。扉。いつもの匂い。海の匂いはない。ないのに、昨日の夜は胸の奥に薄く残っている。


夕飯。


父が、箸を置く音のあとに言った。


「……就活の件」

「説明会、いつ行く」


来た。


胃の奥が固くなる。固くなったら、味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。


「……まだ、決めてません」

「……今週、ページは開きます」


父は「そうか」と言って、何も続けなかった。続けないのが助かる。助かるのに、助かった自分を責めそうになる。責めたら、今日が壊れる。


だから、責める前に部屋へ戻る。


扉を閉める。僕の空気になる。


机の上にスマホを置く。置く。逃げじゃない。燃えすぎないために、置く。


ノートを開く。ペン。インクの匂い。現実の匂い。


今日の丸。


・講義 ○

・バイト ○

・写真(影) ○

・説明会:今週開く、って言えた ○


四つ。多い。多いと怖い。


でも、今日はページを閉じない。閉じたら、父の言葉が大きくなる気がしたから。大きくなるなら、別の現実で押さえる。


ページの端に小さく書く。


「開く=予約じゃない」


書いたら、胸の奥が少し落ち着く。落ち着いたら、湯を沸かす。熱い。熱いから現実だ。


布団に入る。暗い。


暗いと、胸の奥が動く。動くけど、今日は「痛い」じゃなくて「忙しい」に近い。忙しいなら、呼吸で形にできる。


数える。吸って、吐く。


そのまま眠りに近づく。


 


翌日。


朝。体は少し軽い。軽いのが怖い。軽いと油断する。油断すると刺さる。だから、今日も小さくする。


スマホを見る。通知がひとつ。


千華さん。


「今日は、仕事、普通にできた」

「普通、ってすごいね」


普通。


その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。温かいのが怖い。でも、「普通」は強くない。強くないから、壊れにくい。


僕は短く返す。


「普通、すごいです」

「今日は普通で合格です」


送信して、置く。


大学。講義。昼。缶。ベンチ。


今日は、影を撮らない。撮らないのも選びだ。選べたら、僕は少しだけ強い。強いのが怖い。でも、強さを小さくすればいい。


代わりに、説明会のページを開く。開く時間を決める。五分。


開く。文字が多い。胃が固くなる。固さを感じたら、戻る。押し切らない。今日は、押し切らない日だ。


五分で閉じる。


閉じた瞬間、達成感が出る。出る達成感が怖い。怖いけど、今日は「閉じれた」も合格にする。


ノートはここでは開かない。今ここで丸を付けたら、増えすぎる。増えすぎると燃える。燃えたら危ない。


午後。バイト。帰り道。


スマホが震える。


千華さん。


「今週末、海、どうする?」

「少しだけでいい」


海。


海は強い。強いから、頼りたくなる。頼りたくなるのが怖い。


でも、「少しだけ」がついている。少しだけなら、海も小さくできるかもしれない。


僕は立ち止まって、呼吸を一回。


波じゃない呼吸。冷たい空気の呼吸。


それから、薄いけど嘘じゃない言葉を選ぶ。


「少しだけなら」

「行けそうならで」

「当日で」


送信して、置く。


置けたら、今日も崩れない。


家。鍵。扉。いつもの音。


夕飯。父がまた何か言いかけて、やめる。やめた間だけが刺さる。でも、刺さったら味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。


部屋へ戻る。


ノートを開く。


今日の丸。


・講義 ○

・バイト ○

・説明会:ページ開いて閉じた ○

・海:少しだけなら、って返せた ○


四つ。多い。多いと怖い。


でも、今日はページを閉じる。閉じても、丸は消えない。消えないなら、見なくてもいい。


スマホを置く。置く。燃えすぎないために、置く。


布団に入る。暗い。


暗いと、海が少しだけ浮く。浮いた海を、押し戻す。押し戻すために、呼吸を数える。数えると、呼吸が形になる。


形になった呼吸で、眠りに入る。


 


週末。


土曜の夕方。


スマホが震える。


千華さん。


「今日、いける」

「ほんとに少しだけ」

「海、見に行く?」


見に行く。


胸の奥が一気に動く。動きすぎると燃える。燃えたら危ない。


僕は息を一回。


深くしすぎない。

早くしすぎない。


それから返す。


「了解です」

「少しだけで」

「無理なら無理って言ってください」


送信して、歩く。


駅前。柱の近く。待つ場所を決める。決めたら、体が落ち着く。落ち着けたら、海でも崩れにくい。


千華さんが来る。コート。少し疲れた目。でも、歩ける足。


「おつかれ」

「今日は、海、見たい」


見たい。


その言葉が現実だ。現実の言葉は、僕の中の怖さを小さくする。


「……はい」

「少しだけ、見ましょう」


歩く。足音が二つ。潮の匂いが少しずつ混ざる。


海は強い。強いのに、今日は遠い位置から見る。近づきすぎない。近づきすぎない距離なら、持てる。


堤防の手前で止まる。風。波の音。薄い光。


千華さんが息を吐く。白い息が出る。白い息は、夜を現実にする。


「……ここまででいい」

「ここまでで、助かる」


「……はい」

「ここまでで」


同じ言葉が並ぶ。並ぶと、夜が残る。


千華さんが小さく笑って言う。


「ねえ」

「今日も、缶、買う?」


「……買いましょう」

「熱いの」


自販機の光。短い明るさ。耐えられる明るさ。


缶が落ちる音。熱い。熱いから現実だ。


千華さんが一口飲んで、また言う。


「熱っ」


その一言で、僕の胸の奥が少しだけほどける。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ息が入る。


息が入るなら、海でも崩れない。


ほんの少しだけ、二人で海を見る。


見るだけ。話さなくてもいい。話さなくても、足音が二つだった事実が残る。残るなら、足場になる。


千華さんがスマホを見て、眉が寄る。現実のサイン。


「……戻らないと」

「ごめん」


「……大丈夫です」

「少しだけ、できました」


千華さんが頷く。


「うん」

「少しだけ、できた」


駅へ戻る道で、潮の匂いが薄くなる。街の匂いが混ざる。戻る匂いだ。


改札の手前。


「また、少しだけで」


「……はい」

「少しだけで」


千華さんは人の流れに溶けていく。溶け方が普通で、少しだけ安心する。


僕も帰る。電車。窓。普通の顔。


普通の顔のまま、胸の奥が少しだけ静かだ。


家。鍵。扉。


扉を閉めると、家の音が戻ってくる。冷蔵庫の唸り。床のきしみ。鍋の蓋の金属音。


いつもの音なのに、今夜は少しだけ潮が混ざっている気がする。気のせいでもいい。気のせいで明日を越えられるなら。


部屋へ戻る。スマホを置く。置く。燃えすぎないために、置く。


ノートを開く。ペン。インクの匂い。現実の匂い。


今日の丸をつける。


・海:見ただけ ○

・缶:熱っ ○

・帰れた ○


丸が三つ。三つは多い。多いと怖い。


でも、今日はその下に小さく書く。


「少しだけで、十分」


書いたら、言葉が現実になる。現実になると、燃えすぎない。


布団に入る。暗い。


海の音はない。

でも、海を見た夜が残っている。


残っているなら、明日も越えられる。


そう思って、僕は呼吸を数える。


波じゃない呼吸。

でも、ちゃんと呼吸だ。


数えているうちに、眠りが来た。

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