輪郭が丸い夜
並んで歩き出すと、足音が二つになる。
二つになっただけで、夜の形が少し変わる。変わるのが怖い。怖いけど、変わった夜は、さっきまでの一人よりは少しだけ扱いやすい。
駅前の光が背中に遠ざかっていく。代わりに、街灯の白さが前から来る。白い光は影を作る。影は嘘をつかない。
千華さんはポケットに手を入れたまま歩いている。肩が少し落ちている。落ちているのに、歩けている。歩けているのが、今日の「少しだけ」だ。
「……どこまで行けそうですか」
僕がそう聞くと、千華さんは一拍置いた。
置く、っていう間がある。間があると、息が入る。
「……公園の入口くらい」
「それ以上は、たぶん無理」
「……はい」
「入口までで」
入口まで、と言い切ると、道が短くなる。短い道なら、持てる。
歩く。歩幅は合わせすぎない。少しだけずらす。ずらすと、呼吸が残る。残った呼吸で、言葉が出る日がある。
千華さんが前を見たまま言う。
「今日ね」
「ほんとに、何もできなかった」
何もできなかった、って言葉は重い。重い言葉は、胸の奥に落ちる。落ちた場所が硬くなる。
でも、硬いままでも、今は歩ける。歩けるなら、言葉を受け取れる。
僕は頷く。
「……しんどかったんですね」
「うん」
「しんどい、って言うのも、疲れる」
「言ってもどうにもならないし」
言ってもどうにもならない。
その言葉に、僕の中の「大丈夫です」が喉まで来る。でも、今日は出さない。簡単な大丈夫は嘘になりやすい。嘘は増やしたくない。
代わりに、事実だけを置く。
「……でも、今ここまで来れてます」
「歩けてます」
千華さんが小さく息を吐く。白い息が出る。白い息を見ると、夜が現実になる。現実なら、言葉が浮かびすぎない。
「そういうの、和樹くんっぽい」
「……嫌?」
「嫌じゃないです」
嫌じゃない、は薄い。でも嘘じゃない。嘘じゃない言葉は、少しだけ熱を持つ。
千華さんが少しだけ笑う。薄い笑い。薄いのに、ちゃんと笑いだ。
歩いているうちに、潮の匂いがほんの少し混ざる。混ざるだけで、僕の中の角が丸くなる。丸いと刺さりにくい。
公園の入口が見える。暗い柵。砂利の道。遠くで車の音が低く続く。波の音は、ここだと薄い。薄い音は、今の僕には助かる。
入口の前で止まる。
止まると、足の裏が地面に返ってくる。返ってくると、胸の奥の音も戻ってくる。
千華さんが上を見た。空は黒い。黒い空は答えない。答えないのが助かる時がある。
「……ここ、落ち着くね」
「……はい」
「音が少ないです」
千華さんは頷いて、ベンチに向かった。ベンチに座る。隣じゃない。少しだけ離れる。離れると呼吸が残る。残ると、僕の胸が燃えすぎない。
千華さんは手を膝に置いたまま、しばらく黙っていた。
黙りは怖い。黙りは、胸の奥の音を大きくする。
でも、今日は黙りが「終わり」に寄っていない。黙りが「休む」に寄っている。休むなら、黙りも現実だ。
千華さんがぽつりと言う。
「今日、来なかったら」
「たぶん、潰れてた」
潰れてた、がまた来る。
怖い。怖いけど、逃げたくない。逃げたら千華さんが一人になる。でも、「一人にしたくない」は重い。重い言葉は縛る。
だから、薄いけど嘘じゃない言葉を選ぶ。
「……潰れなくてよかったです」
千華さんが小さく頷く。
「うん」
それだけで、胸の奥が少しだけほどける。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ息が入る。息が入ると、今夜が持てる。
千華さんが僕の方を見ないまま聞いてくる。
「和樹くんは?」
「今日、どうだった」
今日。
父の顔。新聞。言いかけた「説明会」。講義。バイト。全部が重い。全部言うと濃くなる。濃くなると、ここが壊れる。
だから、ひとつだけ。
「……写真、撮りました」
「枝の影」
千華さんが、少しだけ目を細めた。
「いいじゃん」
「見せなくていいから」
「続けて」
見せなくていいから。
その言葉が助かる。見せろ、は刺さる。続けて、は足場になる時がある。
僕は短く頷く。
「……はい」
千華さんが缶を買うみたいな軽さで言う。
「なんか、温かいの飲む?」
「まだ、手が冷たい」
手が冷たい、は現実だ。現実の言葉は、僕の中の怖さを小さくする。
「……この近くに自販機あります」
「少し歩きますけど」
「歩けるなら」
また、その条件。
僕は頷く。
立つ。歩く。自販機の光が見えてくる。光は明るい。明るいと刺さりやすい。でも、自販機の明るさは短い。短い明るさなら耐えられる。
千華さんがボタンを押す。カチ。缶が落ちるゴトン。音が現実を作る。
「どれがいい?」
「……甘くないのが」
「……でも、温かいの」
「じゃ、これ」
同じものを買う。合わせるのは簡単だ。でも、今日は合わせるというより、並べる。並べるくらいがちょうどいい。
缶を持つ。熱い。熱いから現実だ。現実を手のひらで挟むと、胸の奥の音が少し小さくなる。
ベンチに戻る途中、千華さんが一口飲んで眉を動かした。
「熱っ」
その一言が、少しだけ可笑しい。可笑しいのが怖い。でも、可笑しいままにしておく。ままにすると、夜が硬くなりすぎない。
ベンチに座る。缶を両手で包む。手のひらに熱が落ち着くと、呼吸が戻る。
千華さんが小さく言った。
「ありがと」
「ほんとに、さっきからそれしか言えない」
「……それで、いいです」
「それでいい」が、僕の中で少しだけ揺れる。揺れるけど、今日は揺れていい夜だ。
しばらく、二人とも缶を持ったまま黙る。
黙りの中で、街の音が遠くなる。遠くなると、潮の匂いが少しだけ戻る。
千華さんが、スマホを見た。画面を見て、眉が寄る。
現実のサイン。
「……戻らないと」
「ごめん」
「……大丈夫です」
大丈夫です、は薄い。でも、今日は嘘じゃない。少しだけ歩けた。温かいのを飲めた。笑いに近いものも出た。残った。
立つ。歩く。駅へ向かう道で、潮の匂いが薄くなる。街の匂いが混ざる。戻る匂いだ。
改札の手前で止まる。人の流れ。顔が薄い夜。薄い夜は、僕を助ける。
千華さんが小さく手を上げる。
「また、少しだけで」
「……はい」
「少しだけで」
同じ言葉が並ぶ。並んだだけで、今日が残る。
千華さんは人の流れに溶けていく。溶けるのが怖いのに、溶け方が普通で、僕は少しだけ安心する。
僕も帰る。電車。窓。普通の顔。
普通の顔のまま、胸の奥が少しだけ静かだ。
家に着く。鍵。扉。
扉を閉めると、家の音が戻ってきた。冷蔵庫の唸り。床のきしみ。鍋の蓋の金属音。いつもの音。
いつもの音なのに、今夜は少しだけ輪郭が丸い。丸いと刺さりにくい。
「ただいま」
母が台所から顔を出す。
「おかえり。遅かったね」
「……バイト、でした」
嘘じゃない。嘘じゃない言い方ができると、胸が少し楽になる。
部屋に戻る。扉を閉める。僕の空気になる。
机にスマホを置く。置く。伏せるじゃなくて、置く。逃げじゃない。燃えすぎないために、置く。
ノートを開く。ペン。インクの匂い。現実の匂い。
今日の丸をつける。
・講義 ○
・バイト ○
・歩いた(少しだけ) ○
・温かいの ○
丸が四つ。多い。多いと怖い。
でも、今日はページを閉じない。閉じたら、今夜が急に薄くなる気がしたから。
丸の横に、小さく書く。
「見せなくていいから、続けて」
書いたら、言葉が現実になる。現実になると、燃えすぎない。
スマホが震える。
一拍置く。置けたことが、少しだけ嬉しい。嬉しいのが怖い。でも、今日は置けた。
画面を見る。
千華さん。
「戻った」
「缶、熱くて笑った」
「ありがとう」
熱くて笑った。
僕は短く返す。
「おつかれさまです」
「笑えてよかったです」
「寝れる時に寝てください」
送信して、置く。置けたら、今日も終われる。
布団に入る。暗い。
暗いと胸の奥が動く。でも今日は、その動きが「痛い」より「静か」に寄っている。静かなら、眠りに近づける。
目を閉じる。
海の音はない。
でも、少しだけの夜は残っている。
残っているなら、明日も越えられる。
そう思って、僕は呼吸を数える。
波じゃない呼吸。
でも、ちゃんと呼吸だ。
数えているうちに、眠りが来た。




