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海の匂いがない夜

扉を閉めると、家の音が戻ってきた。


冷蔵庫の低い唸り。廊下のどこかで鳴る床のきしみ。台所から、鍋の蓋が当たる小さな金属音。全部、いつもの音だ。いつもの音なのに、さっきまでの潮の匂いが、胸の奥に薄く残っているせいで、少しだけ輪郭が違う。


「ただいま」


声は小さかった。小さくても、言えたら「帰った」になる。


母が台所から顔を出す。


「おかえり。遅かったね」

「……バイト、でした」


嘘じゃない。嘘じゃない言い方を選べると、胸が少し楽になる。母は「おつかれ」と言って、鍋の火を弱くした。父は居間でテレビの音を小さくして、新聞のページを一枚めくる。視線は上がらない。上がらないのが助かる日もある。


「ごはん、少し残してあるけど食べる?」

「……少し、食べます」


少し、って言葉は僕を守ってくれる。多くなくていい。少しでいい。少しでも、現実は続く。


茶碗に軽く盛られたご飯と、味噌汁。味噌汁の湯気が、眼鏡のない目の前でぼやける。熱い匂いが、さっきの夜を押し返してくる。押し返されるのは寂しい。でも、押し返されるくらいの距離がないと、僕は燃えすぎる。


食べる。口の中が温まる。温まると、肩が少し落ちる。落ちた肩が、今日の終わりの合図みたいで、僕は一回だけ箸を止めた。


止めたところで、何かが変わるわけじゃない。だから、また食べる。


父が何か言いかけた気配がして、僕は味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。現実が熱い時、僕は黙っていられる。


父は結局、何も言わなかった。言わない夜もある。言わない夜は助かる。助かるのに、助かったことに慣れるのが怖い。慣れたら、何もできなくなる気がするから。


でも、今日は慣れていい日にする。


食器を流しに置いて、軽く水で流す。水は冷たい。冷たいから、手がちゃんと手だと分かる。手が手だと分かると、胸の奥のざわつきが少しだけ静かになる。


部屋へ戻る。扉を閉める。閉めたら、僕の空気になる。


机の上にスマホを置く。伏せる、じゃなくて、置く。置くっていう言葉にすると、逃げじゃない気がする。逃げじゃない。燃えすぎないために、置く。


椅子に座って、息を一回。


さっきの夜が、頭の中で反復されそうになる。千華さんの「少しだけ」、白い息、ベンチの距離、帰り道の「海、行こ」。


思い出すと胸が温かくなる。温かくなると怖い。怖いから、温かさを一度「現実」に落とす。


ノートを開く。今日のページを探す。ペンを取る。インクの匂いが戻ってくる。現実の匂い。


今日の丸をつける。


・講義 ○

・バイト ○

・会えた(少しだけ) ○


「会えた」に丸をつけるのは、ずるい気もする。会えたのは僕が偉いからじゃない。千華さんが「抜けられた」だけだ。


でも、会えたこと自体は事実だ。事実なら丸をつけてもいい。丸は「偉い」じゃなくて、「残った」って印だ。


残った印があると、今日が消えない。


スマホが震える。


置いたままにしていたのに、音が来ると、胸の奥が一瞬だけ跳ねる。跳ねるのは仕方ない。仕方ないから、跳ねた後に呼吸を一回入れる。深くしすぎない。深くすると、また期待が大きくなる。


画面を見る。


千華さん。


「ありがとう」

「今日、ほんとに助かった」


短い。短いけど、重い。重いのに、縛ってこない重さだ。縛る重さじゃなくて、置いていく重さ。


僕は指を止める。ここで言葉を増やしたら、濃くなる。濃くしたら、持てなくなる。持てなくなって、潰れるのは嫌だ。


だから、薄いけど嘘じゃない言葉。


「こちらこそ」

「帰れてよかったです」

「無理しないで」


送信する。


送ったら、すぐ置く。置いたら、胸の奥が少し落ち着く。落ち着きは怖い。でも、落ち着きがないと眠れない。


湯を沸かす。カップ。湯気。熱い。熱いから現実だ。


カップを両手で包んで、窓の外を見る。街灯が白い。車の音が遠い。海の音はない。ないのに、さっきの潮の匂いが、胸の奥にまだ残っている。


残っているなら、今日の夜は消えない。


消えない夜があると、明日の昼が少しだけ怖くなくなる。


ベッドに入る。暗い。暗いと、いつものように胸の奥が動く。でも今日は、その動きが「終わり」に寄っていない。「続く」に寄っている。続くのも怖いけど、終わりよりは、まだ扱える。


目を閉じる。


眠りは、少し遅れて来た。遅れて来ても、来た。来たなら合格だ。


 


朝。


起きると、体が少し重い。重いのは、昨日動いたからだと思うことにする。理由がある重さは、怖くない。理由が分からない重さが、いちばん怖い。


スマホを見る。通知がひとつ。


千華さん。


「寝た」

「起きたら、ちょっとだけマシ」


ちょっとだけ。


その言葉が、昨日の「少しだけ」と同じ温度で、胸の奥に落ちる。


僕は短く返す。


「よかったです」

「今日も、ちょっとだけで」


送信して、置く。置けたら、今日も始められる。


キッチン。味噌汁の匂い。母の足音。父の新聞。


「おはよう」

「……おはよう」


母が言う。


「最近、ちゃんと食べてる?」

「……うん」


昨日の「ちゃんと食べた」を思い出して、少しだけ喉が詰まる。詰まると声が出にくい。だから、味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。


父は新聞をめくる手を止めない。止めない方がいい朝もある。


大学へ向かう。電車。つり革。朝の顔。僕は息の速度を決める。早くしない。遅くもしない。ちょうどいい、って言葉が嫌いでも、今日はちょうどいい方に寄せる。


講義室。板書。ペン。インク。写す。写す。写す。


写している間、昨日の夜の匂いが薄くなる。薄くなるのは寂しい。でも、薄くなるのは「持ててる」ってことでもある。全部抱えたら、壊れる。薄くなるくらいが、ちょうどいい。


昼休み。


いつものベンチ。温かい缶。指先が熱を受け取るまでに、少し時間がかかる。冷えた指は熱を受け取るのが下手だ。下手でも、受け取る練習はできる。


僕はスマホを出して、カメラを起動する。写真のことを考えたからだ。


撮るものを探す、というより。目を置く場所を探す。


枝の影が揺れている。昨日より薄い影。風がある。影の揺れ方は嘘をつかない。


画面越しに見ると、影は少しだけ遠くなる。遠くなると、怖さが小さくなる。


シャッターを押す。


音は小さい。小さいけど、押したっていう事実が残る。残ると、今日の足場になる。


確認しない。確認すると、良い悪いが出る。良い悪いが出ると、僕はすぐ自分を薄くする。今日は、撮っただけで合格にする。


午後の講義。終わる頃、空が橙に寄っている。冬は早い。早い終わりは、たまに救いだ。


バイトへ行く。制服。店の明るさ。数字。袋。声。


「いらっしゃいませ」


言葉は軽い。軽い言葉を繰り返すと自分も軽くなる。軽くなると薄くなる。薄くなるのは怖い。でも、薄いままでいられる時間があると、夜の重さに潰されにくい。


閉店後。裏口。冷たい空気。肺が起きる。


駅へ向かう途中、スマホが震える。


千華さん。


「今日、無理せず帰る」

「金曜じゃなくてもいいから、また少しだけ」


金曜じゃなくてもいい。


その言葉に、胸の奥が少しほどける。ほどけるのが怖い。でも、ほどけた分だけ、息が入る。


僕は短く返す。


「了解です」

「少しだけ、で」

「無理ない方で」


送信して、置く。置けたら、燃えすぎない。


帰りの電車。窓。普通の顔。普通の顔のまま、胸の奥が少しだけ静かだ。


家。鍵。いつもの匂い。海の匂いはない。でも、海の匂いがない夜を越えたから、今日も越えられる気がする。


夕飯。父がまた何か言いかけて、言わない。言わない間がある。間は刺さる。でも、刺さったら味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。


部屋へ戻る。ノート。


今日の丸。


・講義 ○

・バイト ○

・写真(影) ○


丸が三つ。三つは多い。多いと怖い。怖いから、丸を見ないでページを閉じる。閉じても、丸は消えない。消えないなら、見なくてもいい。


スマホを手に取る。千華さんに「写真撮った」って言いたくなる。でも、言うと濃くなる気がする。濃くなったら、期待が増える。増えた期待は、いつか刺さる。


今日は言わない。今日は、残すだけ。


残すために、写真をもう一回だけ開く。開いて、すぐ閉じる。見た、閉じた。合格。


布団に入る。暗い。暗いと胸の奥が動く。動いても、呼吸で形にする。


波じゃない呼吸。

でも、ちゃんと呼吸だ。


目を閉じると、昨日のベンチの距離が浮かぶ。隣じゃない距離。呼吸の距離。あの距離なら、持てる。


持てる距離があるなら、続けられる。


 


数日が、同じ顔で過ぎていく。


同じ朝。同じ電車。同じ講義。同じ缶。同じバイト。同じ家の匂い。


同じなのに、少しだけ違う日が混ざる。


スマホを見る回数が、一回だけ減った日。

父の「説明会」が、喉まで来て引っ込んだ日。

母の「疲れてない?」が、刺さらずに流れた日。

枝の影が、昨日より濃かった日。

千華さんの「寝れた」が、「ちゃんと寝た」に変わった日。


小さな違いは、すぐ消える。でも、消える前に丸をつけられたら、足場になる。


僕は、足場を増やしすぎないように、ひとつだけを守る。


ひとつだけやる。

ひとつだけ残す。

ひとつだけで合格にする。


そうして、夜を越える。


そして、ある夜。


バイトから帰る途中、スマホが震える。


千華さん。


「今日、少しだけいける」

「この前みたいに、歩く?」


歩く。


その言葉が、胸の奥に落ちる。落ちたら、少しだけ温かくなる。温かいのが怖い。でも、温かいものがないと、ずっと乾く。


僕は立ち止まって、呼吸を一回。


深くしすぎない。

早くしすぎない。


それから、短く返す。


「了解です」

「今から向かいます」

「無理なら、無理って言ってください」


送信。


送って、歩く。歩幅は小さくする。燃えすぎないために。


駅前の光。人の流れ。顔が薄い夜。薄い夜は、今の僕には助かる。


待つ場所を決める。柱の近く。ここ、と決めると、体が少し落ち着く。落ち着けたら、会っても崩れにくい。


数分後。


千華さんが来る。


コートの襟。少し疲れた目。それでも歩ける足。


僕は近づきすぎない距離で止まる。


「……お疲れさまです」


千華さんが頷く。


「おつかれ」

「今日も、ほんとに少しだけ」


「……はい」


少しだけ、でいい。


少しだけが、僕の呼吸のサイズだ。

少しだけが、千華さんの生き方のサイズだ。


それが、同じ方向を向く夜があるなら。


今日も、越えられる。


僕は、息をひとつだけ整えてから、彼女と並んで歩き出した。

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