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海は遠いまま

大学へ向かう電車は、いつもより少し混んでいた。年が変わっても、朝の車内は同じ顔をしている。つり革を握る手に力が入る。力の入り方だけが、今日の僕の状態を教えてくる。


改札を抜けると、冷たい空気が頬に当たった。息が一度だけ深くなる。深くなった息を、わざと元に戻す。深すぎると、期待が顔を出すから。


キャンパスに着く。冬の光がコンクリートを白くしている。白いのに柔らかくない。柔らかくない白さは、今日も「動け」と言ってくる。


講義室に入って、空いている席に座る。周りの会話は聞こえる。聞こえるけど、僕のところまでは届かない。届かないのが普通で、普通だから助かる。助かるのに、たまに刺さる。


ノートを開く。ペンを持つ。板書を写す。写している間は、胸の奥の音が少し小さくなる。小さくなるのが助かる。でも、写すだけだと、たまに自分が空っぽだって分かってしまう。


昼休み。食堂へは行かない。人が多いと、息の仕方が分からなくなるからだ。構内の自販機で温かい缶を買って、ベンチに座る。缶の熱が手のひらに落ち着くと、呼吸が少しだけ戻る。


ふと、昨日の海のことを思い出す。思い出すと胸が軽くなる。軽くなると怖い。怖いから、わざと目の前の木を見る。枝の影が揺れている。揺れる影は、嘘をつかない。


午後の講義が終わる頃には、空が少し橙に寄っていた。冬の夕方は、勝手に終わりの色になる。終わりの色を見ると、今日の残りが怖くなる。怖くなった分だけ、足を動かす。


バイト先に着く。制服に着替える。店内の明るさは、いつも同じテンションで僕を飲み込む。レジの数字、袋の音、「いらっしゃいませ」。動いていれば、考えなくて済む。考えなくて済むのが、今日もありがたい。


初売りの札がまだ残っていて、「おめでとうございます」が口から出るたびに、口の中が乾く。乾くのに笑う。笑うふりをする。ふりは上手くなる。上手くなるほど、自分が薄くなる気がする。


閉店後、裏口を出ると空気が冷たくて静かだった。昼の音が薄くなると、今度は胸の奥がうるさくなる。うるさいまま、駅へ歩く。


ホームで電車を待っていると、スマホが震えた。反射で画面を見る。千華さんからだ。


「今日、夜は早めに寝る」

「今週の“少しだけ”、たぶん木曜か金曜」


木曜か金曜。たぶん。確定じゃない。その曖昧さが、逆に現実っぽくて助かる。助かるのに、胸が少し軽くなる。軽くなると、また怖い。


僕は短く返した。


「了解です」

「無理ない方で」

「空いたら教えてください」


送信して、すぐ画面を閉じる。閉じたら、余計な期待が入りにくい。そういうことにする。


家に帰ると、台所から味噌汁の匂いがした。母が「おかえり」と言って、鍋の蓋を少し開ける。湯気が立つ。湯気を見ると、海の湯気じゃないのに、少しだけ安心する。


夕飯の席で、父が言う。


「大学、そろそろ動き始める時期だろ」

「説明会とか、見とけ」


来た。胃の奥が固くなる。固くなったまま、口だけ動かす。


「……うん」

「……見る」


父はそれ以上は言わなかった。言わないだけで、今日は助かる。助かるのに、助かった自分が情けない気もする。情けないけど、今は生き延びる方が先だ。


部屋に戻る。扉を閉めると、外の音が薄くなる。薄くなると、胸の奥の音が少し聞こえる。聞こえると怖い。でも、今日は怖さを押し込める場所がある。


机に座って、ノートを開く。やることを小さく書き出す。


・説明会、ひとつだけ見る

・写真のこと、調べる

・明日の講義の準備、少し


全部やらなくていい。ひとつでも「やった」になれば、明日の朝が少しだけ楽になる。


スマホを手に取る。千華さんに、もう一言送りたくなる。でも、今日は送らない。送らないで持つ練習をしたい。持てたら、それだけで少し強くなれる気がする。


代わりに、湯を沸かしてカップを持つ。熱い。熱いから現実だ。カップの熱を両手で挟んで、書いた箇条書きを見た。そこにあるだけで、足場になる。


ベッドに入る前に、カーテンの隙間から外を見る。白い街灯。遠い車の音。海の音はない。でも、海の音がない夜もあるってことを、昨日の昼が教えてくれた気がする。


布団に入る。暗い。暗いと、胸の奥がまた動く。でも、今日はその動きが「死にそう」じゃなくて「生きてる」に近い。


目を閉じて、小さく決める。


明日は、説明会をひとつだけ見る。

今週の“少しだけ”は、来たら受け取る。来なくても、崩れない。


崩れない、って決めるのは難しい。難しいけど、決めないと揺れるから。


息を吸って、吐く。

波じゃない呼吸。

でも、ちゃんと呼吸だ。


そのまま、眠りの方へ体を預けた。



眠りは、すぐには来なかった。


布団の中で目を閉じても、体の奥がまだ働いている感じがする。昼の蛍光灯、レジの音、父の「見とけ」。それぞれが別々の方向から、同じ場所を押してくる。押されている場所は、胸の奥だ。


僕は一度だけ寝返りを打つ。布団の中で体温が動くと、ほんの少しだけ安心する。生きてる体は、こういう時にちゃんと重い。


スマホは触らない。触ったら、千華さんの言葉をもう一回読んでしまう。もう一回読むと、木曜か金曜が形になる。形になったら、期待が勝手に膨らむ。膨らむと、もし違った時に僕は崩れる。


崩れるのが怖いから、今日は寝ることに集中する。集中って言い方も違う。ただ、呼吸に戻る。波じゃない呼吸。部屋の呼吸。自分の呼吸。


いつの間にか、眠りの方が勝った。


 


朝。


目を開けると、窓の外は白い。昨日より少しだけ明るい白さで、まだ優しくない。優しくないけど、今日は起きられる気がした。起きられる「気がする」だけで十分な朝がある。


スマホを見る。通知はない。ないのに、胸が少しだけ軽くなる。軽くなるのは、何かが来たからじゃなくて、「来てない」って確認できたからだ。確認できると、予定が増えない。予定が増えないのは、助かる時がある。


キッチンへ行く。味噌汁の匂い。母が「おはよう」と言う。父は新聞をめくっている。今朝は何も言わない。言わない朝は、やっぱり助かる。助かるのに、助かってしまう自分が情けない気もする。でも、情けなさで今日を壊したくない。


大学へ向かう。電車の揺れが、いつもより現実っぽい。現実っぽいって言い方も変だ。現実は現実だ。でも、眠気が残っていると、現実の輪郭が少しだけ丸くなる。丸い輪郭は刺さりにくい。


午前の講義を終えて、昼休み。今日も食堂は避けて、構内の端のベンチに座る。温かい缶を買う。指先が熱を覚えると、胸の奥の音が少し小さくなる。


昨日書いた箇条書きを思い出す。


・説明会、ひとつだけ見る

・写真のこと、調べる


今日は、どっちかをやる日だ。どっちかでいい。どっちかをやれば「やった」になる。「やった」がひとつあると、夜が少しだけ静かになる。


スマホで大学のキャリアサイトを開く。開いた瞬間、胃の奥が少しだけ固くなる。固くなるのは悪いことじゃない。固くなって、ちゃんと踏ん張ってる。


説明会の一覧が出る。文字が多い。多い文字は、すぐに僕を薄くする。薄くなる前に、ひとつだけ選ぶ。いちばん短い、オンラインの会社説明会。内容はどうでもいいわけじゃない。でも、今は「見る」が目的だ。「見る」だけで、今日は合格にする。


予約ボタンを押す。押した瞬間、胸の奥が少し動く。動いたのは、達成感じゃない。むしろ怖さだ。予定が入った怖さ。でも、予定は、形がある。形があると溶けない。溶けないなら、今はそれでいい。


スマホを閉じる。息を吐く。白い息は出ない。外じゃないから。代わりに、胸の中でだけ白いものが広がる気がする。広がるのが怖いけど、今日は広がりすぎない。


午後の講義。板書を写す。写している間は、余計なことを考えにくい。終わる頃には、空がまた橙に寄っている。冬はいつも早い。早い終わりは、たまに救いだ。


バイトへ行く。今日も「おめでとうございます」を言う。言って、乾いて、笑って、動く。動いていると、昼のことが少し遠くなる。遠くなるのが助かる。


閉店後、外へ出ると冷たい空気が肺に入る。肺が起きる。起きた肺で、駅へ向かう。歩きながら、木曜か金曜を思い出しそうになって、やめる。思い出さない努力をしている時点で、もう思い出している。矛盾。でも、矛盾は今日も一緒だ。


電車に乗る。窓に自分の顔が映る。顔は普通だ。普通の顔のまま、胸だけが忙しい。忙しさを落ち着かせるために、目を閉じる。


家に帰る。鍵を回す。いつもの匂い。洗剤、畳、古い木。変わらない匂いは逃げられないけど、今日は逃げなくていい気がする。説明会をひとつ「見た」ことが、足場になっている。


夕飯の後、部屋に戻る。机に座る。昨日書いた箇条書きを見て、今日できた分に小さく丸を付ける。


・説明会、ひとつだけ見る ○

・写真のこと、調べる —


丸がひとつあるだけで、少しだけ息が深くなる。深くなりすぎないように、すぐ湯を沸かす。湯気が立つ。熱い。熱いから現実だ。現実があるなら、今日は壊れない。


カップを持ちながら、スマホで「写真」のことを少しだけ調べる。カメラの機種とかじゃない。撮りたいものの話だ。何を撮りたいのか。自分が何を見ていたいのか。そういうのを考えるのは、就活より少しだけ呼吸がしやすい。


海を撮る、って言葉が頭をよぎって、胸が少しだけ動く。動いたのを、そのままにする。追いかけない。追いかけなくても、海は消えない気がしたから。


その時、スマホが震えた。


一拍置いてから、画面を見る。置けたことが少しだけ嬉しい。嬉しいのが怖い。でも、今日は見る。


千華さん。


「今日、ちゃんと食べた」

「あと、少しだけ寝れた」


ちゃんと。昨日の「ちゃんと使っていい」が、ここにも来た気がした。千華さんの「ちゃんと」は、父の「ちゃんと」と違う。押すためじゃなくて、支えるための言葉だ。


僕は短く返す。


「よかったです」

「寝れたの、えらいです」


送信して、すぐに後悔しそうになる。「えらい」って言葉が、近い気がしたから。でも、撤回はできない。できないから、今日の僕は、それを受け入れる。


少しして返事が来る。


「えらい、は笑う」

「でも、ありがと」


笑う。笑った、ってことだ。笑ったことを言える、ってことだ。胸の奥が勝手にほどける。ほどけた分だけ、僕はカップを両手で包む。熱で戻す。戻すと、ほどけすぎない。


「木曜か金曜、どっちになりそうですか」


聞くのは怖い。聞いたら形になる。でも、形がないと溶ける。溶けたら、僕はまた白い円を探す。探すのが怖いから、今日は小さく形を作る方を選ぶ。


返事は少し遅れて来た。


「たぶん金曜」

「昼は無理で、夜寄り」

「でも、当日にならないと分かんない」


当日にならないと分かんない。その言葉が、現実の輪郭だ。輪郭があると、僕は踏ん張れる。


僕は短く返す。


「了解です」

「決まったらで大丈夫です」

「無理ない方で」


送って、スマホを伏せる。伏せたら、熱が逃げない気がする。熱を逃がさないためじゃない。燃えすぎないために、置く。


布団に入る前に、もう一回、今日の丸を見た。丸は小さい。でも、丸がある。丸があるなら、明日も越えられる。


電気を消す。暗い。暗いと、海の音が欲しくなる。でも、今日は欲しさを否定しない。欲しいと思えるのは、生きてるからだ。


目を閉じて、呼吸を数える。数える呼吸は波じゃない。でも、ちゃんと呼吸だ。


金曜の夜が、まだ遠いままでいる。遠いままだから、今夜は崩れない。


そのまま、眠りの方へ体を預けた。


 


翌朝。


起きると、体が少しだけ重かった。重いのに、昨日より悪くない。悪くない朝は、それだけで助かる。


スマホを見る。通知はない。ないのに、今日はすぐ置けた。置けたことが、少しだけ「進んだ」気がする。進んだ気がするのは怖い。でも、進まないと、ずっと同じ場所で擦り切れる。


キッチンで味噌汁を飲む。熱い。熱いから現実だ。父は新聞をめくる。母が洗濯物の話をする。普通の朝が流れていく。流れていく普通の中で、僕の中にも小さな予定がある。金曜の夜。確定じゃない予定。でも、予定の匂いはある。


大学へ向かう道で、僕はポケットの中でスマホの角を確かめた。熱はない。でも形はある。形があるなら、今日も大丈夫だと思える。


講義室に入る。席に座る。ノートを開く。ペンを持つ。


今日も、ひとつだけやる。ひとつだけでいい。ひとつだけが、僕の呼吸のサイズだ。


胸の奥が動く。動いたままでも、書き始められる。書き始められるなら、昼は越えられる。


そう思って、僕は板書を写し始めた。

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