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並べる距離

公園の出口を抜けると、車の音が少し近くなった。潮の匂いはまだ薄く残っているのに、街の匂いが混ざってくる。戻る場所が近い匂いだ。


千華さんはポケットに手を入れたまま、歩く速度を少しだけ落とした。


「なんか飲む?」

「温かいの」


僕はうなずいて、周りを見た。駅前ほどじゃないけど、人はいる。昼の人は、夜よりも顔がある。顔がある分、怖い。


「……コンビニ、あります」

「うん。そこでいい」


コンビニのガラス戸を開けると、暖房の空気が頬に当たった。さっきまで冷えていた指が、じわっと痛い。痛いから、生きてるって分かる。分かるのに、少しだけ笑えない。


千華さんは温かいカフェラテを手に取って、僕の方を見た。


「和樹くんは?」

「……僕も、それで」


同じものにするのは簡単だ。簡単すぎて、また怖い。でも、今日は“合わせる”じゃなくて、“並べる”くらいの距離感でいい気がした。


会計を終えて外に出る。缶の熱が手のひらに落ち着いて、呼吸が少しだけ深くなる。僕はふと思い出して、口に出した。


「……昨日のラーメン、味噌だったの、ちょっと嬉しかったです」

千華さんは目を細める。

「何それ。可愛いこと言うじゃん」

「……すみません」

「謝るなって」


また同じやり取り。なのに、今日はほんの少しだけ笑える。


海沿いの道を少し歩く。公園を出たのに、風はまだ正直で、波の音も遠くで聞こえる。遠い音があると、胸の奥のざわつきが小さくなる。


千華さんが缶を口に付ける。熱いのか、少しだけ眉が動いた。


「昼、会ってよかった」

「……僕もです」

「夜の方が楽なの、分かるけどさ」

彼女は前を見たまま続けた。

「昼に会えると、“終わりじゃない”って感じする」


終わりじゃない。

その言葉が、胸の奥で柔らかいところに触れた。触れられるのが怖いのに、触れられないとずっと乾く。


「……昼に会うの、最初は怖かったです」

「うん。私も」

「でも、来てよかった」

「うん」


肯定が二つ並ぶだけで、昼の騒がしさが少し遠のく。僕は缶を握り直して、熱の逃げ道を塞ぐみたいに指を巻いた。


駅が近づく。人が増える。車の音が太くなる。現実が戻ってくる。


千華さんはスマホを取り出して、画面を一度だけ見た。眉が少し寄る。


「……仕事?」

僕が言うと、彼女は短く息を吐く。

「うん。ちょっとだけ」

「……無理しないで」

「それ、さっきも言った」

「……すみません」

「だから謝るなって」


彼女はそう言って、だけど目だけ少しだけ柔らかくした。柔らかい目があると、僕は“言ってよかった”って思ってしまう。思ってしまうのが怖い。


駅前の交差点で信号が赤になる。二人の足が止まる。止まった瞬間、何か言わなきゃいけない気がして、でも言葉を増やすのが怖くて、結局、僕は缶の熱だけを確かめる。


千華さんが小さく言った。


「今週、どっかでまた“少しだけ”取れるかも」

「……本当ですか」

「うん。確定じゃないけど」

確定じゃない。

その言い方が彼女らしくて、同時に、ちゃんと現実だった。


「……分かりました」

「和樹くんは?」

「僕は……合わせます」

言ってから、少しだけ言い方を直す。

「……行ける時、行きます」


千華さんはそれを聞いて、短くうなずいた。


「それでいい」

「無理しないで、の方向で」

「……はい」


青になって、人の流れが動き出す。流れの中で、僕らも歩く。駅の入口が見える。


ホームに降りる階段の手前で、千華さんが止まった。


「ここでいい」

「……はい」


別れ際の言葉は、いつも薄いほどいい。濃くすると、持てなくなるから。でも、薄すぎると、今日が消える気がして、僕は短くでも残る言葉を探した。


「……今日は、来てくれて」

「……ありがとうございました」


千華さんは少しだけ目を細めた。


「こちらこそ」

「和樹くん、ちゃんと帰って寝て」

「……ちゃんと、使っていいやつですか」

「うん。これは、ちゃんと使っていい」


ずるい。ずるいから助かる。


彼女は小さく手を上げて、改札の向こうへ行った。背中が人の中に溶けていく。溶けるのが怖いのに、溶け方が“普通”で、少しだけ安心する。


僕も階段を降りる。電車が来る音がして、風が押し込んでくる。さっきまでの潮の匂いは薄くなる。でも、薄いままでも、今日は残る気がした。


車内に乗ると、暖房の空気が眠気を連れてきた。僕は座らず、吊り革につかまる。立っている方が、戻れる速度を自分で調整できるからだ。


スマホを取り出して、メッセージ画面を開きかけて、やめた。送ってもいい言葉はある。でも、送らない方がいい時間もある。今日は、後者にしておく。


家に着く。鍵を回す。いつもの匂いがする。洗剤、畳、古い木。潮の匂いはない。でも、ないからって全部消えたわけじゃない、と言い聞かせられるくらいには、胸の奥が少しだけ落ち着いていた。


台所で湯を沸かす。湯気が立つ。熱い。熱いから現実だ。


カップを持って自分の部屋に戻り、ベッドの端に座る。窓の外はまだ明るい。昼は続いている。続く昼が怖いのに、今日は“壊れない昼”の作り方を少しだけ知った気がする。


スマホが震えた。


見る。

千華さん。


「ありがと。ちょっとだけ楽になった」

「夜、無理しないでね」


僕は指を止めた。返したい言葉はある。返したいのに、言葉が多いと、また濃くなる。だから短くする。


「こちらこそ」

「おやすみなさい、はまだ早いけど」

「休める時に休んでください」


送信して、すぐスマホを伏せる。熱が逃げないように、じゃなくて。燃えすぎないように。


僕はカップを両手で包んで、息を整えた。


明日も昼は来る。

でも、今日の昼は、確かに越えられた。


それだけで、今は十分だ。




湯気が少しずつ細くなる。カップの熱も、指先から逃げていく。逃げていくのに、今日はそれを追いかけないでいられる。


僕はベッドの端に座ったまま、しばらく動かなかった。窓の外はまだ明るい。夕方というより、昼の残りだ。昼の残りは、たまに優しい顔をする。優しいからこそ、油断すると刺さる。


テーブルの上に、スマホ。伏せたまま。伏せたものは、見ないっていうより、いったん置くって意味になる。今日はそういう日にする。


キッチンに行って、洗い物をする。水が冷たい。冷たいのに、手はちゃんと動く。動くから、生活は続く。続くから、明日も来る。


明日。


「明日」のことを考えると、胸の奥が少しだけ固くなる。固くなるのは、悪いことじゃない。固くならないと、僕はすぐ溶ける。


部屋に戻ると、母が廊下で声をかけてきた。


「夕飯どうする? 食べる?」

「……食べます」

「はいはい。もう少しでできるよ」


普通の会話。普通の距離。普通は助かる。助かるのに、普通の中にいると自分が薄くなる気がする。薄くなる気がしても、今は薄いままでいい。


夕飯は、肉じゃがだった。味が濃い。濃い味は、口の中を占領する。占領されると、余計なことを考えにくい。僕は黙って食べる。


父が、箸を置いて言う。


「大学、そろそろ動き始める時期だろ」


来た。

胃の奥が、きゅっと縮む。


「……うん」

「説明会とか、早いとこ行っとけよ」

「……分かった」


分かった、は便利だ。便利すぎて、分かってないまま進む。進むと、あとで崩れる。でも今は、崩れないようにするのが先だ。


母が間に入る。


「まあまあ、焦らせないで」

「焦らせてるんじゃない。現実の話だ」

「現実の話こそ、順番があるでしょ」


順番。

順番って言葉に、少しだけ救われる。いきなり全部は無理でも、順番なら、なんとかなる気がする。


食器を下げて部屋に戻る。扉を閉めると、外の音が薄くなる。薄くなると、胸の奥の音が少し聞こえる。聞こえると、怖い。


スマホを手に取る。見る前に、息を一回。今日は燃やさない。燃やさないで、持つ。


通知はない。


ないのに、さっき送った僕の文だけがそこに残っている。「休める時に休んでください」。綺麗な言葉みたいで、少しだけ怖い。綺麗に言いすぎると、後で自分が苦しくなるから。


画面を閉じて、机に置く。


僕はノートを開く。今日の講義のメモ。線だけ引いたページ。線だけでも、今日を越えた証拠になる。証拠があると、夜が少しだけ静かになる。


しばらくして、スマホが震える。


反射で手が伸びる。伸びて、止める。でも、止めきれない。今日は、見る。


千華さん。


「うん」

「和樹くんも、寝れるとき寝て」


短い。

短いのに、胸の奥がほどける。


ほどけるけど、今日はほどけすぎない。僕は返信欄に指を置いて、少しだけ考える。言葉を増やすと濃くなる。濃くなると、明日が重くなる。


だから短く。


「はい」

「ありがとうございます」


送信。

送ったら、画面を閉じる。閉じたら、呼吸が戻る。戻る呼吸で、布団に入る準備をする。


歯を磨く。洗顔する。鏡を見る。顔は普通だ。普通の顔のまま、胸だけがうるさい。胸のうるささも、今日の現実だ。


布団に入る。部屋の灯りを消す。暗い。暗いと、海の音が欲しくなる。でも、欲しくなったっていい。欲しくなるのは、生きてる証拠だから。


ただ、取りに行かない。今日は、ここで耐える。


目を閉じる。

眠りが来るまでの時間が、少し長い。長いけど、昨日ほど怖くない。昨日の昼が、ちゃんと残っている。


残っているものは、許可みたいなものだ。


――明日も、越えよう。


口の中で言って、寝返りを打つ。布団の中で、体温が少しだけ動く。動くと、眠りの入口に近づく。


朝。

目を開けると、空はまた白い。白いのに、昨日より眩しくない。眩しくないのは、僕が少しだけ慣れたからかもしれない。


起きて、スマホを見る。見なくてもいいのに、見てしまう。癖は怖い。でも、癖を全部消すのは無理だ。だから、扱い方だけ変える。


通知は、ひとつ。


千華さん。


「今日は少しだけ元気」

「海のせいかも」


僕は一瞬だけ笑いそうになって、やめる。笑ったら嬉しいがバレる気がする。バレたらどうなるのか分からないのに、怖い。


でも、返す。短く。


「よかったです」

「海、強いですね」


送信して、スマホを置く。置いて、立ち上がる。キッチンへ行く。湯気。味噌汁の匂い。家の匂い。


母が言う。


「今日も大学?」

「……うん」

「いってらっしゃい」

「……いってきます」


父は新聞をめくる。今日は何も言わない。言わないのが優しさなのか、たまたまなのか分からない。でも、言わない朝は、助かる。


玄関で靴を履く。外に出る。冷たい空気。肺が起きる。起きた肺で、僕は歩く。


駅へ向かう道。

白い朝の中で、昨日の海は遠い。でも、完全には消えていない。耳じゃなくて、胸の奥に残っている。


残っているなら、今日も越えられる。


僕はポケットに手を入れて、指先でスマホの角を確かめた。熱はない。でも、形はある。形があるなら、今はそれでいい。

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